「中国共産党中央党校」の版間の差分

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'''中国共産党中央党校'''(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうとうこう)は、[[中国共産党中央委員会]]に直属し、[[中国共産党]]の高級幹部を養成する機関。そのため校長のポスト重職となり後に党総書記[[胡耀邦]]や[[胡錦濤]]、[[習近平]]も過去に務ていたことがある。機関紙は学習時報。
'''中国共産党中央党校'''(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうとうこう)は、[[中国共産党中央委員会]]に直属し、[[中国共産党]]の高級幹部を養成する機関である<ref name="inagaki120">稲垣(2015年)120ページ</ref>。校長は歴代次期総書記任しており、前総書記の[[胡耀邦]]、現総書記の[[習近平]]はともに、国家副主席・政治局常委員会時代に歴任している<ref name="inagaki120"/>。機関紙は学習時報。


== 概要 ==
== 概要 ==
中央党校の幹部養成コースは短期および長期があり、その対象も末端の県書記クラスから中央委員・閣僚クラスまで多岐にわたっている。中央・地方の党幹部、政府幹部が一定期間、党校に研修に来ることもある<ref name="inagaki120"/>。また、年間のコースに参加することは、中央幹部候補生であり、校長との知己、同窓などの人脈が今後のキャリアのうえで重要となる<ref name="inagaki120"/>。中央党校の研修コースは、別に大学の学部および大学院に相当する研修コースもある<ref name="inagaki120"/>。
[[長征]]が始まる直前の1933年3月、毛沢東の命により当時の中国共産党の拠点だった[[江西省]][[瑞金市]]で創始された。当時は『マルクス共産主義学校』と呼称し、長征途中の1935年『中央党校』に改称た。


== 歴史 ==
その後、長征の終着地である[[陝西省]][[延安市]]に長く置かれていたが、[[日中戦争]]終結後、[[国共内戦]]中の1947年、延安の学校を閉校。共産党が北平(現・[[北京市]])を奪った後の1949年、北京に落ち着いた。{{see also|中華民国の歴史#国共内戦}}
[[長征]]が始まる直前の[[1933年]]3月、[[毛沢東]]の命により当時の中国共産党の拠点だった[[江西省]][[瑞金市]]で創始された。当時は『マルクス共産主義学校』と呼称し、長征途中の[[1935年]]に『中央党校』に改称された。その後、長征の終着地である[[陝西省]][[延安市]]に長く置かれていたが、[[日中戦争]]終結後、[[国共内戦]]中の1947年、延安の学校を閉校。共産党が北平(現・[[北京市]])を奪った後の[[1949年]]、[[北京]]に落ち着いた。{{see also|中華民国の歴史#国共内戦}}


1960年代から70年代にかけては[[文化大革命]]の一環で中央党校は活動休止に追い込まれるが、毛沢東により終結した翌年の1977年に復活。当時の中央宣伝部長でもあった[[胡耀邦]]が副校長に就任すると、理論研究室を設立して阮銘、呉江、孫長江らブレーンに内部雑誌『理論動態』の中で様々な改革理論を提起させ、党内の思想解放を促した。その中でも、「真理の追究」は先に出された[[鄧小平]]の『実事求是』論と呼応して毛沢東無謬論を盾に改革を妨害する華国鋒ら[[二つのすべて|すべて派]]を批判し、翌1978年8月に行われた[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]での政策転換に貢献した。さらに1980年には、[[中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議|5中全会]]で胡耀邦が[[中国共産党中央書記処|中央書記処]]総書記に就任した。{{main|中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議#3中全会の決定事項|胡耀邦#「実権派」}}{{see also|文化大革命#終結}}
1960年代から70年代にかけては[[文化大革命]]の一環で中央党校は活動休止に追い込まれるが、1976年9月に毛沢東亡し文化大革命が終結した翌年の[[1977年]]に復活した。当時の中央宣伝部長でもあった[[胡耀邦]]が副校長に就任すると、理論研究室を設立して阮銘、呉江、孫長江らブレーンに内部雑誌『理論動態』の中で様々な改革理論を提起させ、党内の思想解放を促した。その中でも、「真理の追究」は先に出された[[鄧小平]]の『実事求是』論と呼応して毛沢東無謬論を盾に改革を妨害する華国鋒ら[[二つのすべて|すべて派]]を批判し、翌1978年8月に行われた[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]での政策転換に貢献した。さらに1980年には、[[中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議|5中全会]]で胡耀邦が[[中国共産党中央書記処|中央書記処]]総書記に就任した。{{main|中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議#3中全会の決定事項|胡耀邦#「実権派」}}{{see also|文化大革命#終結}}


1982年6月、胡耀邦が総書記職に専念するため、[[鄧力群]]の推薦で保守派長老の[[王震]]が後任に就いたが、保守派のトップである[[陳雲]]から「[[黄埔軍官学校]]のような組織にしてほしい」と指示を受けており、校長の権限で阮銘を党籍剥奪、呉江、孫長江を異動させるなど党校内部の改革派が一掃された。
[[1982年]]6月、胡耀邦が総書記職に専念するため、[[鄧力群]]の推薦で保守派長老の[[王震]]が後任に就いたが、保守派のトップである[[陳雲]]から「[[黄埔軍官学校]]のような組織にしてほしい」と指示を受けており、校長の権限で阮銘を党籍剥奪、呉江、孫長江を異動させるなど党校内部の改革派が一掃された。

2001年には、研修団が[[慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス]]を訪問した<ref>[http://www.keio.ac.jp/ja/news/2001/kr7a430000006tmd.html 中国共産党中央党校訪日研修団、SFCを来訪]</ref>。


== 学部 ==
== 学部 ==
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*2007年12月 - [[習近平]]
*2007年12月 - [[習近平]]
*2013年1月 - [[劉雲山]]
*2013年1月 - [[劉雲山]]

== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* 稲垣清著『中南海 知られざる中国の中枢』(2015年)岩波新書


==関連項目==
==関連項目==
*[[二つのすべて]]
*[[二つのすべて]]

== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2015年8月29日 (土) 02:52時点における版

中国共産党中央党校(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうとうこう)は、中国共産党中央委員会に直属し、中国共産党の高級幹部を養成する機関である[1]。校長は歴代、次期総書記が就任しており、前総書記の胡耀邦、現総書記の習近平はともに、国家副主席・政治局常務委員会時代に歴任している[1]。機関紙は学習時報。

概要

中央党校の幹部養成コースは短期および長期があり、その対象も末端の県書記クラスから中央委員・閣僚クラスまで多岐にわたっている。中央・地方の党幹部、政府幹部が一定期間、党校に研修に来ることもある[1]。また、年間のコースに参加することは、中央幹部候補生であり、校長との知己、同窓などの人脈が今後のキャリアのうえで重要となる[1]。中央党校の研修コースは、別に大学の学部および大学院に相当する研修コースもある[1]

歴史

長征が始まる直前の1933年3月、毛沢東の命により当時の中国共産党の拠点だった江西省瑞金市で創始された。当時は『マルクス共産主義学校』と呼称し、長征途中の1935年に『中央党校』に改称された。その後、長征の終着地である陝西省延安市に長く置かれていたが、日中戦争終結後、国共内戦中の1947年、延安の学校を閉校。共産党が北平(現・北京市)を奪った後の1949年北京に落ち着いた。

1960年代から70年代にかけては文化大革命の一環で中央党校は活動休止に追い込まれるが、1976年9月に毛沢東が死亡し文化大革命が終結した翌年の1977年に復活した。当時の中央宣伝部長でもあった胡耀邦が副校長に就任すると、理論研究室を設立して阮銘、呉江、孫長江らブレーンに内部雑誌『理論動態』の中で様々な改革理論を提起させ、党内の思想解放を促した。その中でも、「真理の追究」は先に出された鄧小平の『実事求是』論と呼応して毛沢東無謬論を盾に改革を妨害する華国鋒らすべて派を批判し、翌1978年8月に行われた第11期3中全会での政策転換に貢献した。さらに1980年には、5中全会で胡耀邦が中央書記処総書記に就任した。

1982年6月、胡耀邦が総書記職に専念するため、鄧力群の推薦で保守派長老の王震が後任に就いたが、保守派のトップである陳雲から「黄埔軍官学校のような組織にしてほしい」と指示を受けており、校長の権限で阮銘を党籍剥奪、呉江、孫長江を異動させるなど党校内部の改革派が一掃された。

学部

哲学、経済学、科学社会主義、政法、中央党史、党建設、文史の7つの教学研究部がある。現在の在校数は約1600名。各省、自治区、市にもそれぞれ委員会党校があり、校長は各地の委員会副書記などが兼務する。

現在の指導部

  • 校長:劉雲山
  • 副校長:虞雲耀(常務)、王偉光、李君如、石泰峰、孫慶聚

 主な卒業生 

 歴代校長 

  • 1949年10月 - 劉少奇
  • 1953年3月 - 凱豊
  • 1954年11月 - 李卓然
  • 1955年4月 - 揚献珍
  • 1961年2月 - 王従吾
  • 1963年1月 - 1966年8月:林楓
  • 1977年3月 - 華国鋒
  • 1982年4月 - 王震
  • 1987年3月 - 高揚
  • 1989年3月 - 喬石
  • 1993年2月 - 胡錦濤
  • 2002年12月 - 曽慶紅
  • 2007年12月 - 習近平
  • 2013年1月 - 劉雲山

出典

  1. ^ a b c d e 稲垣(2015年)120ページ

参考文献

  • 稲垣清著『中南海 知られざる中国の中枢』(2015年)岩波新書

関連項目

外部リンク