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2015年7月11日 (土) 13:47時点における版
藤白鈴木氏 | |
---|---|
抱き稲 | |
本姓 | 穂積氏 |
家祖 | 鈴木基行 |
種別 |
社家 武家 士族 |
出身地 | 紀伊国牟婁郡鈴木庄 |
主な根拠地 |
紀伊国牟婁郡熊野邑 紀伊国名草郡藤白浦 和歌山県海南市藤白 |
著名な人物 |
鈴木良氏 鈴木重邦 鈴木重家 亀井重清 鈴木重善 鈴木繁伴 |
支流、分家 | 藤白鈴木氏支流 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
藤白鈴木氏(ふじしろすずきし)は、日本の社家・武家のひとつ。本姓は穂積氏。家系は古事記・日本書紀にも登場する穂積氏の流れを汲む名門で、穂積姓鈴木氏の本宗家。藤代王子の旧址・藤白神社の社家であり、紀伊国の国人領主。熊野速玉大社一禰宜・穂積国興の子、鈴木基行が鈴木姓を称したことにはじまる[1]。
熊野地方で勢力を誇った熊野三党(榎本、宇井、鈴木)のひとつ、または熊野八庄司のひとつとされ、家紋は穂積氏に由来する「抱き稲」、替紋は熊野別当・藤原氏に由来するとされる「藤紋」。幕紋は「八咫烏」。
概要
藤白鈴木氏は紀伊国熊野の穂積氏の嫡流で、穂積祖足の四男・古閉の流れである穂積国興(熊野速玉大社一禰宜)の子、鈴木基行にはじまる。12世紀頃に熊野から同じ紀伊国内の藤白に移り住んで以来、王子社(現在の藤白神社)の神職を代々務めた家系である。熊野三党のひとつとして熊野地方に大きな勢力を有し、また熊野八庄司のひとつとして当主は代々「鈴木庄司」を称した。藤白鈴木氏がかつて居住していた鈴木屋敷が藤白神社境内に現存する。
平安時代
初代の鈴木基行は、昌泰3年(900年)の正月に外従五位下に叙爵され、延長4年(926年)の5月21日に62歳で没した。基行の子・鈴木良氏(鈴木判官)は従五位下となり検非違使を務め、妻の熊野国造・橘広方の娘との間に生まれた鈴木重氏は押領使、美濃権介を務めた。また、重氏の長男・重豊の娘は藤原実方の妻となり、熊野別当泰救の母となった。重氏の次男・鈴木重実は鈴木庄司を称し、従七位上出羽大掾となり出羽介平維茂に従った。重実の長男・鈴木重武は、侍従・藤原定時の娘を母とし、平忠常追討のため中原成道に随行し東国に下向した。
『稲毛郷土史』によると、前九年の役・後三年の役に一族の鈴木重宗らが参戦し、拠点を武蔵国比企郡岩殿山に置いたとされ、その後軍功として麻生の地を与えられたとされる。
鈴木重光(従六位上、右衛門少尉)は天永3年2月に61歳で没し、法名は浄栄。鈴木重元(左近将監)は保延6年に68歳で没し、法名は浄円であった。
鈴木重邦(刑部左衛門尉)は源為義の家臣として武功を挙げたとされ、湯浅左近大夫・藤原宗永の娘を妻として鈴木重倫を生んだ。重倫は平治の乱で源義朝方の武将として戦死した。また、源為義の十男・源行家の母は熊野新宮禰宜の鈴木重忠の娘とする伝承もある。
重倫の子・鈴木重家、亀井重清は源平合戦で源義経に従い壇ノ浦の戦いなどで功績を挙げた。後に源頼朝から甲斐国に所領を賜ったが、奥州に落ちた義経のもとへ向かい、衣川館で義経と最期をともにした。また、重家らは熊野水軍の将のひとりであったとも云われる。
鎌倉時代以降
鈴木重家の死後、紀伊国に残った次男・鈴木重次が跡を継いだ。重次は承久の乱で朝廷方として参加して正嘉2年(1258年)8月に64歳で没し、南北朝時代には鈴木重恒が後醍醐天皇の南朝に属した。
明徳3年(1392年)には鈴木重義が山名義理に従って大内義弘と戦い戦死し、戦国時代には石山合戦で顕如に味方し神領を失った。大坂の陣では鈴木重興が徳川方として参戦して浅野氏から諸役免除を賜わり、後に浅野幸長から6石の寄進を受けた。
1942年(昭和17年)に最後の当主・鈴木重吉が病気で急死し、藤白神社神主家の鈴木氏は断絶した。
主な支流一族
藤白鈴木氏は全国に散らばる穂積姓鈴木氏中でも本家筋とみなされている家で、三河鈴木氏(後裔に足助、酒呑、寺部の鈴木家)、雑賀党鈴木氏、江梨鈴木氏(後裔に小屋瀬鈴木家[2])などはいずれも藤白鈴木氏の分流とされている。また、鈴木重家の子が伊予土居氏の祖となったという伝承があり、この説によると『清良記』の主人公の土居清良は藤白鈴木氏の末裔ということになる。
- 三河鈴木氏‐鈴木重邦の三男・鈴木重善を祖とする。本拠地は三河国加茂郡矢並。
- 江梨鈴木氏‐鈴木重実の長男・鈴木繁伴を祖とする。本拠地は伊豆国田方郡江梨村。
- 雑賀党鈴木氏‐鈴木重弘の次男・鈴木重長を祖とする。本拠地は紀伊国雑賀郷。
- 伊予土居氏‐鈴木重家の長男とされる土居清行を祖とし、後裔に土居清宗がいる。
- 亀井氏‐鈴木重倫の次男・亀井重清を祖とする。
- 古館氏‐鈴木重義の後裔とされる。
歴代当主
直流系図(古代氏族系譜集成/中巻を参考とする)
- 鈴木基行(穂積国興の子)
- 鈴木良氏
- 鈴木重氏
- 鈴木重実 (庄司)
- 鈴木重武
- 鈴木重康 (庄司)
- 鈴木重光
- 鈴木重元
- 鈴木重邦
- 鈴木重倫- 弟に鈴木重善(三河鈴木氏)
- 鈴木重家‐弟に亀井重清(亀井氏)
- 鈴木重次
- 鈴木重好
- 鈴木重基
- 鈴木重時
- 鈴木重実
- 鈴木重恒‐兄に鈴木繁伴(江梨鈴木氏)
- 鈴木安弘
- 鈴木重義
- 鈴木重政
- 鈴木重氏
- 鈴木重弘‐弟に鈴木重長(雑賀党鈴木氏)
- 鈴木重光
- 鈴木重則
- 鈴木重長
略系譜
- 太字は当主、実線は実子、点線は養子。
良氏2
重氏3
重光7
重元8
重邦9
重次12
重好13
重時15
重実16
安弘18
重義19
重政20
重氏21
重弘22[雑賀党鈴木氏]
重長
重光23
重則24
重長25
(中略)
重貞
重光
[断絶]
重吉
脚注
参考文献
- 坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年、ISBN 4642022430
- 鈴木淳介『穂積姓鈴木氏: 紀州德川二七〇年鈴木家系譜』1982年。
- 宝賀寿男 『古代氏族系譜集成 中巻』 古代氏族研究会、1986年。
- 鈴木真哉『紀州雑賀衆鈴木一族』1984年。
- 海南市教育委員会『海南郷土史』1954年。
- 『葛巻町誌〈一巻〉』(葛巻町誌編纂委員会)
- 『稲毛郷土史』
関連項目
外部リンク
- 藤白鈴木会 公式サイト (日本語) - (開設日:2003年(平成15年)7月1日 最終更新日:2004年(平成16年)1月1日)