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[[河野氏]]の記した『[[予章記]]』などで語られることの多い越智氏だが、[[孝霊天皇]]の第三[[皇子]][[彦狭島命|伊予皇子]]の第三[[王 (皇族)|王子]]を祖とするなどの粉飾が加えられていたりと信憑性に乏しく、越智氏自体の歴史は分らないことが多い。一般に越智氏系譜は河野氏系譜と混同視されており、疑問を投げかける声は少なくない。
[[河野氏]]の記した『[[予章記]]』などで語られることの多い越智氏だが、[[孝霊天皇]]の第三[[皇子]][[彦狭島命|伊予皇子]]の第三[[王 (皇族)|王子]]を祖とするなどの粉飾が加えられていたりと信憑性に乏しく、越智氏自体の歴史は分らないことが多い。一般に越智氏系譜は河野氏系譜と混同視されており、疑問を投げかける声は少なくない。


==(伊豆十六皇子、考察後消去下さい、)==
東宮待講従三位文学博士三島毅選考察、伊豫章記、古文書原文、 孝霊天皇、孝元天皇、此孝元天皇御弟伊豫皇子申ス、(中略御偉彦狭島樽)此頃南獄西伐動令蜂起之間、此御子富國下給乃西南藩、堀将軍伝、即以宣下故ニ伊興皇子号略中、此皇子御座所を伊豫國伊豫群神埼庄号、今霊宮申親王宮奉崇略中、和気姫娶テ三子産給、世間止トテ棚無、小舟三引乗海上放奉、代三王子御舟富國和気郷三津浦着給フ、即國主奉崇、小千御子解ス此御子始祖御証オ以テ、氏宗廟神崇拝奉ル。是有リ、七歳天子勤オ蒙リ都上四州主即御帰有富國越智郡大濱着テ御館オ造住座、故郷小千ト伝、尚擬者伊予郡神埼郷為世、頼為時の三子有テ母ワ和気五郎大夫家時ノ子ト伝ワレド伊豫王子ノ博ト全類似有レド、大同二年謀反シテ自刃シタル由見エ、富國ニ由縁無シキ、富時縁座、藤原雄友ヲ伊豫國ニ配流シ二年ヲ得テ、弘仁元年四月免罪入京ト有ガ囚人ニテ無縁の地ニ之ヲ呂フ如ハ非ズ是伊豫神社借リテ捏造セシ事明也、嵯峨帝ノ準子ト伝フ伊豫國ノ領主幣ヲ得テ是豪族等世系ヲ誇大シタル拳薄久トシテ怪シム足ラズ況ヤ、天皇皇子伊豫皇子葦彦狭島樽伝久ト見エタルハ疑シキ書サマ也、偽書ノ類由緒連ナル事皆伊豆十六皇子ノ所化デ捏造、墓所ヘ続クル文脈多シ改ザン偽書也。

(考察、検証)、孝霊天皇、皇位を退き、其の子等は伊豆へ流刑、皆伊豆の十六皇子の由緒及び墓所伝説に繋がる造り事、偽書の多きは小千、越智との突然の繋がり由緒出自筋在所繋がり、内容が乏しく文献時代検証無い、墓所有是拠り繋がりの文節多く偽書也、他の文献に同等の記録が無い、例えば(朝廷送書、菅唱舎人阿礼筋目注進案書)代官、神官注進案、及び返書記録無い、厳島宮記録文献等、三島宮文献、捏造文書と有り、藤原雄友を伊豫国に配流し二年を経て、弘仁元年四月免罪入京せしこと疑問あらんや、令制國府所在地成れば越智郡内成る者、の流罪囚人無縁の地、及ぶが如き捏造せし事是偽書也、嵯峨帝の準皇子として養子に成ると有る、玉純の十四世家時子無きを得て恒武の皇子を養子とし、足利時代河野氏伊豫國の領主也、又王宮墓と称する是伊豫神社の裏背面に伊豫親王墳墓と伝わる五輪搭有り、(先年故有て是発堀せし事、明治時代)経筒有り経塚是也、天皇、又越智天皇、(某系藤原)(伊豫皇子偉彦狭島樽伝)代々の事柄見得疑しき書さま也、(孝霊皇子彦狭島之事耐不知)同名別人也、文字乏しき時代、伊豆の十六皇子の繋がりを捏造、古文書偽造物多く有る。越智河野系図に由緒無き事明白是也、    書編集菅井上頼國、





2015年6月21日 (日) 03:32時点における版

越智氏
氏姓 越智宿禰
始祖 越智王?
孝霊天皇の第3皇子伊予皇子の第3王子
氏祖 越智益躬小市益躬紀益躬))
種別 皇別?
本貫 伊予国越智郷
凡例 / Category:氏

越智氏(おちうじ)は、「越智」をの名とする氏族

古代日本伊予国愛媛県)の豪族の一つ。大和国にも越智氏(清和源氏頼親流)がある。伊予守輩出や、南海道の発展から伊予越智氏と関係があったとする説もあるが、立証無く関係性があったかは不明。



概要

越智氏は越智郷(現在の今治市国分付近)が出自とされる。5世紀後半に近畿政権の国造制により、現在の愛媛中東部に五国造が行なわれ、地域の支配者が任じられた。その内一つ「物部大新河」の孫「小市国造小致」が越智氏の始まりとされている。『国造本紀』 8世紀初頭には、律令制により十四郡に増え「小市国造小致」が「越智郡里」となり、そこへ伊予の国府国分寺が置かれた。『和名類聚抄』 越智氏と国府の関係において、越智氏が元々在地豪族だったとする説もある。律令制国府の場所については国分寺近辺に見当をつけ発掘調査も一部されたが確定には至らなかった。

越智氏人物として初めて史上に登場するのは、越智郡大領の先祖である越智(おちのあたい)である。白村江の戦いで捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てたという話が日本霊異記に載せられている。支配力が低下する中、仏教によって在地支配を再構築しようとした様子が伺われる。(建立された古代寺院跡の場所は不明。)

伊予史上では、神護景雲元年(767年)に献物により叙位された越智郡大領の「越智直飛鳥麻呂」と「越智直国益」が最初である。天暦2年(948年)には伊予国から海賊平定の功により「越智用忠」への叙位が認められており承平天慶の乱で政府軍側に立って戦ったことがわかる。永延元年(987年東三条第相撲があり、越智常世が伊予より助手として参加するなど、その後も史上には登場するものの、越智為保を伊予追捕使に任命長保4年(1002年)以降、越智氏が伊予の表舞台に登場することはない。

寛仁2年(1018年)に、伊予守源頼光」が「藤原道長」に土御門殿の家具一切を献上したとあり、11.12世紀から国営支配の実権を握っていたのは在庁官人と呼ばれた地方豪族だったことからも、源氏は伊予守時代に越智氏と何らかの関係性が考えられ、源頼光清和源氏三代目で、異母弟に源頼親が居ることや、越智氏のその後が表立って伊予で確認出来ない時期的なことからも、活躍の場を大和に移したとしても不思議ではない。

河野氏の記した『予章記』などで語られることの多い越智氏だが、孝霊天皇の第三皇子伊予皇子の第三王子を祖とするなどの粉飾が加えられていたりと信憑性に乏しく、越智氏自体の歴史は分らないことが多い。一般に越智氏系譜は河野氏系譜と混同視されており、疑問を投げかける声は少なくない。


(伊豆十六皇子、考察後消去下さい、)

東宮待講従三位文学博士三島毅選考察、伊豫章記、古文書原文、 孝霊天皇、孝元天皇、此孝元天皇御弟伊豫皇子申ス、(中略御偉彦狭島樽)此頃南獄西伐動令蜂起之間、此御子富國下給乃西南藩、堀将軍伝、即以宣下故ニ伊興皇子号略中、此皇子御座所を伊豫國伊豫群神埼庄号、今霊宮申親王宮奉崇略中、和気姫娶テ三子産給、世間止トテ棚無、小舟三引乗海上放奉、代三王子御舟富國和気郷三津浦着給フ、即國主奉崇、小千御子解ス此御子始祖御証オ以テ、氏宗廟神崇拝奉ル。是有リ、七歳天子勤オ蒙リ都上四州主即御帰有富國越智郡大濱着テ御館オ造住座、故郷小千ト伝、尚擬者伊予郡神埼郷為世、頼為時の三子有テ母ワ和気五郎大夫家時ノ子ト伝ワレド伊豫王子ノ博ト全類似有レド、大同二年謀反シテ自刃シタル由見エ、富國ニ由縁無シキ、富時縁座、藤原雄友ヲ伊豫國ニ配流シ二年ヲ得テ、弘仁元年四月免罪入京ト有ガ囚人ニテ無縁の地ニ之ヲ呂フ如ハ非ズ是伊豫神社借リテ捏造セシ事明也、嵯峨帝ノ準子ト伝フ伊豫國ノ領主幣ヲ得テ是豪族等世系ヲ誇大シタル拳薄久トシテ怪シム足ラズ況ヤ、天皇皇子伊豫皇子葦彦狭島樽伝久ト見エタルハ疑シキ書サマ也、偽書ノ類由緒連ナル事皆伊豆十六皇子ノ所化デ捏造、墓所ヘ続クル文脈多シ改ザン偽書也。

(考察、検証)、孝霊天皇、皇位を退き、其の子等は伊豆へ流刑、皆伊豆の十六皇子の由緒及び墓所伝説に繋がる造り事、偽書の多きは小千、越智との突然の繋がり由緒出自筋在所繋がり、内容が乏しく文献時代検証無い、墓所有是拠り繋がりの文節多く偽書也、他の文献に同等の記録が無い、例えば(朝廷送書、菅唱舎人阿礼筋目注進案書)代官、神官注進案、及び返書記録無い、厳島宮記録文献等、三島宮文献、捏造文書と有り、藤原雄友を伊豫国に配流し二年を経て、弘仁元年四月免罪入京せしこと疑問あらんや、令制國府所在地成れば越智郡内成る者、の流罪囚人無縁の地、及ぶが如き捏造せし事是偽書也、嵯峨帝の準皇子として養子に成ると有る、玉純の十四世家時子無きを得て恒武の皇子を養子とし、足利時代河野氏伊豫國の領主也、又王宮墓と称する是伊豫神社の裏背面に伊豫親王墳墓と伝わる五輪搭有り、(先年故有て是発堀せし事、明治時代)経筒有り経塚是也、天皇、又越智天皇、(某系藤原)(伊豫皇子偉彦狭島樽伝)代々の事柄見得疑しき書さま也、(孝霊皇子彦狭島之事耐不知)同名別人也、文字乏しき時代、伊豆の十六皇子の繋がりを捏造、古文書偽造物多く有る。越智河野系図に由緒無き事明白是也、    書編集菅井上頼國、


関連項目

参考文献

外部リンク