「ジャン=リュック・メランション」の版間の差分
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== 政治理想履歴 == |
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2015年1月12日 (月) 23:19時点における版
ジャン=リュック・メランション 欧州議会議員 | |
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ジャン=リュック・メランション | |
フランス政府 | |
任期 2000年3月27日 – 2002年5月6日 | |
大統領 | ジャック・シラク |
首相 | リオネル・ジョスパン |
前任者 | クロード・アレグル |
後任者 | ルック・フェリ |
南仏欧州選挙区欧州議会 | |
任期 2009年7月14日 – 2014年5月25日 | |
エソンヌ県元老院儀員 | |
任期 1986年10月2日 – 1995年9月24日 | |
任期 2004年10月1日 – 2010年1月7日 | |
個人情報 | |
生誕 | 1951年8月19日(72歳) タンジェ, モロッコ |
政党 | 社会党 (1977年–2008年) 左翼党 (2008年–現在) |
出身校 | フランシュ=コンテ大学 |
公式サイト | jean-luc-melenchon.fr |
ジャン=リュック・メランション(フランス語: Jean-Luc MÉLENCHON、JLM)(フランス語発音: [ʒɑ̃lyk melɑ̃ˈʃɔ̃])(1951年8月19日生まれ)はフランス共和国政府で2000年から2002年まで、職業教育大臣となったフランス政治家である。
現在、欧州議会議員で、マルティヌ・ビヤル(フランス語: Martine BILLARD)と共に左翼党の共同党首を務める。
2012年フランス大統領選に11.10%で、第4位になった。
エソンヌ県を代表するフランス元老院委員でもあった。メランションは2008年11月にフランス衆議院議員マルク・ドレズ(フランス語: Marc DOLEZ)と一緒に左翼党を創設するために、社会党(フランス語: Parti Socialiste)を離党した[1][2]。
左翼党の党首として、2009年欧州議員選前に左翼戦線に加わって、南西仏選挙区の候補者として選ばれた。この選挙で、投票の8.15%で収めて、欧州議会に当選した。メランションはマルティヌ・ビヤルと一緒に左翼党共同党首に勤めている。
2010年に行われた年金制度改革を抵抗する運動の時、何回か公演やテレビに出たお陰で、公に知られるようになった。
個人履歴
モロッコのタンジェ(フランス語: Tanger)[3]、詳しくはタンジェ国際管理地域内に生まれた。父は郵便局員で、スペイン出身の母は学校教師だった。モロッコ北部で育ち、両親の離婚に伴い1962年にフランスへ移住し、ジュラ県ロン=ル=ソーニエのRouget de Lisle高等学校で学んだ[4]。フランシュ=コンテ地域圏(Franche-Comté)大学哲学を卒業して、CAPÈS(フランス文部省の専門の指導資格)に合格し、政治活動の前に教師となった[3][4]。
政治理想履歴
ジャン=リュック・メランションは基本的にフランス共和的社会主義創立者であるジャン・ジョレスに基づく共和的社会主義者と市場資本主義の危機を理解するためにマルクス的な見解を理解する唯物史観者である。
以前ヨーロッパ連邦化の弁護者だったが、ジャン=リュック・メランションは「ヨーロッパ連合はもう解答でなく、経済自由主義が機構を完全に汚職した事で、欧連が必要とする民主化を成し遂げるのは不可能にした、権力が民衆正当性のない技官達にあるから、問題」だとあきらめた事が知られている。
そのため、彼は協力的、統一的、民衆主義的なヨーロッパの設立を支えながら、リスボン条約と欧州中央銀行の独立に反対している。
南アメリカで自分で経験したことに基づいて、ジャン=リュック・メランションは、ラファエル・コレア、ウゴ・チャベス、エボ・モラレスと同様に、フランス革命とパリ・コミューンからなる思想を土台に、憲法を再び作文できるよう、選挙の勝ちを狙いながら、民衆主義を守る新たな作戦を追加する、公民に付属している値が達成しうる「市民革命」(révolution citoyenne)を目指している。
この「市民革命」は現在、証券持主者達に代表されている資本から生み出されている富と労働階層(直接お金を得るために働く必要のあるの人々をさして広く理解されている意味で)の分け方の逆転に達成すべきものである。
追加目的として、第6フランス共和国を創立する新しい憲法が含まれている。
この第6共和国では、大統領は今と権力より小さくと国会はより大きく、給料が増やされ、私営銀行の国有化によって国営銀行が設立され、共同会社を創立する権利を社員らに与える新しい権利の設立によっての会社内民衆主義化、大手会社の国有化、環境計画導入、北大西洋条約機構の脱出、パレスチナ国の設立によっての中近東平和ができるようになる。
ジャン=リュック・メランションは重大な問題を解決するために国民が投票する事の重要さを強調している。
彼はフランス社会に於ける世俗主義強化、同性結婚と安楽死が法律で認識されるよう、支得することを表現した。
2012年フランス大統領選候補
2012年フランス大統領選挙で、フランス共産党・左翼党・統一左翼党の合同組織 「左翼戦線」として立候補[5][6]。憲法を改め「第六共和政」の立ち上げを主張した。
事前の世論調査では第1回投票の上位2人が進出する決選投票への進出はないとされたものの、一時は結果として第1回投票で3位となったマリーヌ・ル・ペン(国民戦線)に迫る支持を集めたが、結果としてマリーヌに得票で倍近い差をつけられている(得票率11.10パーセント、第4位)[7]。
2012年フランス国民議会議員選候補
大統領選挙に敗れた後、メランションは2012年フランス議会総選挙にてパ=ド=カレー県第11選挙区から立候補、マリーヌ・ルペンとの直接対決に臨んだ。[8]。
しかし第1回投票で社会党のフィリップ・ケメルに僅差で敗れ3位となり、決選投票へ進むことはできなかった。[9]。なお決選投票ではケメルがマリーヌを破り当選している。
政治履歴
政府役[3]
2000年から2002年まで、職業教育大臣。
選挙任意
欧州議会
2009年から欧州議会議員。
フランス元老院
1986年から2000年(2000年に職業教育大臣となるので)と2004年から2010年まで(2009年に欧州議会員に当選)までのエソンヌ県元老院議員。1986年に当選、1995年と2004年に再任。(1986年に35歳で、当時現在フランス元老院一番若い議員だった)。
大評議会
1998年から2001年まで、エソンヌ県大評議会(だいひょうぎかい)副長。1985年から1992年まで、1998年から2004年までエソンヌ県大評議会議員。1998年に再任。
市長委員会
1983年から1995年まで、エソンヌ県、マシー市元老院委員・市長。1983年から2001年まで、エソンヌ県、マシー市長会委員。
政治任意
2008年から、マルティヌ・ビヤル(フランス語: Martine BILLARD)と左翼党の共同党首。
参考資料
- ^ “ジャン=リュック・メランションが社会党を離党宣言。”. 左翼党 (2008年11月7日). 2014年3月30日閲覧。(フランス語)(フランス語)
- ^ “左翼党立党会議日付”. "左翼党" (2008年11月29日). 2014年3月30日閲覧。(フランス語)
- ^ a b c “ジャン=リュック・メランションの履歴書”. Frédéric Frangeul, Europe 1 (2014年2月27日). 2014年3月30日閲覧。(フランス語)
- ^ a b “ルアン市立ピエル・コルネイユ高等学校 – 学歴”. Frédéric Vivien (2014年2月27日). 2014年3月30日閲覧。(フランス語)
- ^ “2012年フランス大統領選挙に憲法委員会が公式に認識した候補者達”. フランス通信社 (2012年3月19日). 2014年3月30日閲覧。(フランス語)
- ^ “候補者としてのメランションの最初の演説会”. Sophie de Ravinel (2011年6月29日). 2014年3月30日閲覧。(フランス語)
- ^ “国民議会選挙 – 結果”. フランス内務省. 2014年3月30日閲覧。(フランス語)
- ^ “2012年大統領選挙 – 選挙区別第1回結果”. Politiquemania. 2014年3月30日閲覧。(フランス語)
- ^ “French far-left leader Jean-Luc Melenchon admits defeat by far-right's Le Pen”. 2012年4月14日閲覧。(フランス語)
外部リンク
- ジャン=リュック・メランション公式サイト(フランス語)
- フランス元老院公式サイトページー(フランス語)
- 欧州議員公式サイトページー(フランス語)
- 欧州議員公式サイトページー(フランス語)