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'''オーストリア公国'''(オーストリアこうこく、{{llang|言語記事名=ドイツ語|de|'''Herzogtum Österreich'''}}、{{lang-hu|Osztrák Hercegség}}、{{llang|言語記事名=英語|en|Duchy of Austria}})は、[[神聖ローマ帝国]]内の、現在の[[オーストリア|オーストリア共和国]]に存在した[[領邦]]。[[1156年]]の成立から[[1457年]](大公を称したのは[[1359年]])の'''[[オーストリア大公国]]'''の成立まで、[[バーベンベルク家]]、[[ツェーリング家]]、[[プシェミスル朝|プシェミスル家]]、[[ハプスブルク家]]が統治した。 |
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2014年12月2日 (火) 12:51時点における版
オーストリア公国(オーストリアこうこく、ドイツ語:Herzogtum Österreich、ハンガリー語: Osztrák Hercegség、英語:Duchy of Austria)は、神聖ローマ帝国内の、現在のオーストリア共和国に存在した領邦。1156年の成立から1457年(大公を称したのは1359年)のオーストリア大公国の成立まで、バーベンベルク家、ツェーリング家、プシェミスル家、ハプスブルク家が統治した。
概要
前身はオーストリア辺境伯領、さらにオストマルク東方辺境伯領が最初の起源である。神聖ローマ帝国の南東辺境部の領邦ではあるが、帝国内でも重要な地域で、のちにハプスブルク家当主が神聖ローマ皇帝を世襲した。
1359年にルドルフ4世はオーストリア大公を僭称した。皇帝に即位したフリードリヒ3世(オーストリア領主としてはフリードリヒ5世)が1457年に帝国法によってこれを正式の称号として定め、以後はその領国もオーストリア大公国を称するようになった。
歴史
- 1156年、ハインリヒ2世がオーストリア公となる。
- 1251年、フリードリヒ1世の死去により、プシェミスル朝のボヘミア王オタカル2世がバーベンベルク家のマルガレーテと結婚して、オーストリア公を継承する。
- 1278年、ドイツ王ルドルフ1世がマルヒフェルトの戦いでオタカル2世を敗死させ、オーストリア公国を獲得。ハプスブルク家によるオーストリア統治が始まる。
- 1335年、アルブレヒト2世とオットーがケルンテン公国を相続する。
- 1359年、ルドルフ4世がオーストリア大公を称する。
- 1363年、ルドルフ4世がチロル伯領を獲得する。
- 1386年、レオポルト3世がゼンパッハの戦いで戦死、スイスのハプスブルク家旧領を完全に失う。
- 1438年、アルブレヒト2世(オーストリア公としてはアルブレヒト5世)がドイツ王に即位し、ハプスブルク家による神聖ローマ帝国君主位の世襲が始まる。
- 1457年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世(オーストリア公としてはフリードリヒ5世)がオーストリア大公の称号を正式のものとする。