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[[File:Jean Auguste Dominique Ingres 016.jpg|thumb|第一統領ナポレオン]]
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'''第一統領'''(だいいちとうりょう{{lang-fr|Premier Consul}}、'''第執政'''と)は、[[ナポレオン・ボナパルト]]により[[フランス]]の権力奪取の後用いられた肩書きである。当初は同じ権限を持つ3人の統領が置かれた。
[[画像:3consuls.jpg|thumb|3人のコンスル:左からジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス、ナポレオン・ボナパルト、シャルル=フランソワ・ルブラン]]
{{フランスの歴史}}
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'''第1コンスル'''(だいいちコンスル[[フランス語|仏]]:Premier Consul)あるいは'''第1執政'''(だいいちしっせい)または'''第1統領'''(だいいちうりょう)は、[[ナポレオン・ボナパルト]]により[[フランス]]の権力奪取の後用いられた肩書きである。当初は同じ権限を持つ3人のコンスルが置かれた。


1799年11月9日の[[ブリュメールのクーデター]]の後、ナポレオンと[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]によって設立された'''執政政府'''('''統領政府'''、{{enlink|French Consulate|Le Consulat|p=off|s=off}}、1799年 - 1804年)に3人のコンスルが置かれた。当初、3人のコンスルは同じ権限を持つとされたが、やがてナポレオンが3人の中の最強の者となった。
1799年11月9日の[[ブリュメールのクーデター]]の後、ナポレオンと[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス]]によって設立された[[統領政府]](1799年 - 1804年)に3人の統領が置かれた。当初、3人の統領は同じ権限を持つとされたが、やがてナポレオンが3人の中の最強の者となった。


==言葉の歴史==
==言葉の歴史==
[[執政官|コンスル]]という言葉は、自分自身を[[古代ローマ]]の支配者になぞらえようとするボナパルトの計画の一部として用いられた。後に、彼は[[エトワール凱旋門]]などの古代ローマ様式の凱旋門や記念碑の構築により、ローマとのつながりを強めることになる。
[[執政官|コンスル]]という言葉は、自分自身を[[古代ローマ]]の支配者になぞらえようとするボナパルトの計画の一部として用いられた。後に、彼は[[エトワール凱旋門]]などの古代ローマ様式の凱旋門や記念碑の構築により、ローマとのつながりを強めることになる。


古代ローマには、政府の長として2人の[[執政官|コンスル]]が置かれた。コンスルは[[元老院 (ローマ)|元老院]]を含む共和国を運営し、軍隊の最高指揮官でもある。2人のコンスルは同等の権威を持っており、互いに[[拒否権]]を行使することもできた。これは独裁を予防するための仕組みである。そして、非常時には元老院は1人の[[独裁官|ディクタトル]]を6ヶ月の任期を限って指名することができた。
古代ローマには、政府の長として2人のコンスルが置かれた。コンスルは[[元老院 (ローマ)|元老院]]を含む共和国を運営し、軍隊の最高指揮官でもある。2人のコンスルは同等の権威を持っており、互いに拒否権を行使することもできた。これは独裁を予防するための仕組みである。そして、非常時には元老院は1人の[[独裁官|ディクタトル]]を6ヶ月の任期を限って指名することができた。


[[フランス第一共和政|第1共和政]]の崩壊により作られたフランスのシステムは、コンスルが2名から3名になった点以外は古代ローマの制度に類似していた。しかし、やがて3人の中で最も野心的でカリスマ性を持つナポレオンが頭角を現すこととなる。[[住民投票|国民投票]]で彼は'''終身第1コンスル'''に選出された。この選出は任期の点以外では古代ローマの[[独裁官|ディクタトル]]の指名に類似するものである。最終的に1804年にナポレオンは[[フランス第一帝政|フランス皇帝]]となることを宣言して、フランスに君臨することになった。
[[フランス第一共和政|第共和政]]の崩壊により作られたフランスのシステムは、統領が2名から3名になった点以外は古代ローマの制度に類似していた。しかし、やがて3人の中で最も野心的でカリスマ性を持つナポレオンが頭角を現すこととなる。[[住民投票|国民投票]]で彼は''終身第一統領''に選出された。この選出は任期の点以外では古代ローマのディクタトルの指名に類似するものである。最終的に1804年にナポレオンはフランス皇帝となることを宣言して、フランスに君臨することになった。


==他のコンスル==
==他の統領==
*2コンスル:[[ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス]]
二統領は[[ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス]]、第三統領は[[シャルル=フランソワ・ルブラン]]であった。
*第3コンスル:[[シャルル=フランソワ・ルブラン]]

==閣僚==
執政政府(統領政府)の閣僚は以下の通り:<ref>*{{cite book|ref=harv
|last=Muel|first=Léon|title=Gouvernements, ministères et constitutions de la France depuis cent ans: Précis historique des révolutions, des crises ministérielles et gouvernementales, et des changements de constitutions de la France depuis 1789 jusqu'en 1890 ...|url=http://books.google.com/books?id=GW9DAAAAIAAJ&pg=PA61|page=61|accessdate=2014-11-03
|year=1891|publisher=Marchal et Billard}}</ref>
{|class="wikitable sortable"
|-
!大臣・閣僚!!就任!!辞任!!氏名
|-
|rowspan=2| [[外務大臣 (フランス)|外務大臣]] ||style="text-align:center"| 1799年11月11日 ||style="text-align:center"| 1799年11月22日 || {{仮リンク|シャルル=フレデリック・ラインハルト|en|Charles-Frédéric Reinhard}}(カール・フリードリヒ・ラインハルト)
|-
|style="text-align:center"| 1799年11月22日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || [[シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール]]
|-
|rowspan=3| [[フランス司法省|司法大臣]] ||style="text-align:center"| 1799年11月11日 ||style="text-align:center"| 1799年12月25日 || [[ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス]]
|-
|style="text-align:center"| 1799年12月25日 ||style="text-align:center"| 1802年9月14日 || {{仮リンク|アンドレ・ジョゼフ・アブリアル|en|André Joseph Abrial}}
|-
|style="text-align:center"| 1802年9月14日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || {{仮リンク|クロード・アンブロワーズ・レニエ|en|Claude Ambroise Régnier}}
|-
|rowspan=3| [[フランス国防省|陸軍大臣]] ||style="text-align:center"| 1799年11月11日 ||style="text-align:center"| 1800年4月2日 || [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]
|-
|style="text-align:center"| 1800年4月2日 ||style="text-align:center"| 1800年10月8日 || [[ラザール・カルノー]]
|-
|style="text-align:center"| 1800年10月8日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || [[ルイ=アレクサンドル・ベルティエ]]
|-
|rowspan=1| [[フランス大蔵省|大蔵大臣]] ||style="text-align:center"| 11 November 1799 ||style="text-align:center"| 18 May 1804 || {{仮リンク|マルタン=ミシェル=シャルル・ゴーダン|en|Martin-Michel-Charles Gaudin}}
|-
|rowspan=1| [[フランスの警察|警察大臣]] ||style="text-align:center"| 1799年11月11日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || [[ジョゼフ・フーシェ]]
|-
|rowspan=3| [[フランス内務省|内務大臣]] ||style="text-align:center"| 1799年11月12日 ||style="text-align:center"| 1799年12月25日 || [[ピエール=シモン・ラプラス]]
|-
|style="text-align:center"| 1799年12月25日 ||style="text-align:center"| 1801年1月21日 || [[リュシアン・ボナパルト]]
|-
|style="text-align:center"| 1801年1月21日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || {{仮リンク|ジャン=アントワーヌ・シャプタル|en|Jean-Antoine Chaptal}}
|-
|rowspan=3| 海軍・植民大臣 ||style="text-align:center"| 1799年11月12日 ||style="text-align:center"| 1799年11月22日 || {{仮リンク|マルク=アントワーヌ・ブールドン・ド・ヴァートリー|en|Marc Antoine Bourdon de Vatry}}
|-
|style="text-align:center"| 1799年11月22日 ||style="text-align:center"| 1801年10月3日 || {{仮リンク|ピエール=アレクサンドル=ローラン・フォーフェ|en|Pierre-Alexandre-Laurent Forfait}}
|-
|style="text-align:center"| 1801年10月3日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || {{仮リンク|ドニ・デクレ|en|Denis Decrès}}
|-
|rowspan=1| 国務長官(国務書記) ||style="text-align:center"| 1799年12月25日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || {{仮リンク|ユーグ=ベルナール・マレ|en|Hugues-Bernard Maret, duc de Bassano}}
|-
|rowspan=1| 国庫総監 ||style="text-align:center"| 1801年9月27日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || {{仮リンク|フランソワ・バルベ=マルボア|en|François Barbé-Marbois}}
|-
|rowspan=1| 軍事管理長官 ||style="text-align:center"| 1802年3月12日 ||style="text-align:center"| 1804年5月18日 || {{仮リンク|ジャン=フランソワ・エメ・デジャン|en|Jean François Aimé Dejean}}
|}

==脚注==
<references />


==関連項目==
==関連項目==
* [[]](コンスル)
* [[統領]]
* [[ナポレオン戦争]]

<!-- * [[:en:French Consulate|French Consulate]] 項目未作成 -->


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[[it:Primo console]]<!-- [[en:French Consulate]]からのリンクです -->
[[nl:Eerste Consul]]
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<!-- Wikipedia 翻訳支援ツール Ver0.72、[[:en:First Consul]](2008年5月10日 20:56:42(UTC))より -->

2014年11月20日 (木) 14:50時点における版

第一統領ナポレオン

第一統領(だいいちとうりょう、フランス語: Premier Consul第一執政とも)は、ナポレオン・ボナパルトによりフランスの権力奪取の後用いられた肩書きである。当初は同じ権限を持つ3人の統領が置かれた。

1799年11月9日のブリュメールのクーデターの後、ナポレオンとエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスによって設立された統領政府(1799年 - 1804年)に3人の統領が置かれた。当初、3人の統領は同じ権限を持つとされたが、やがてナポレオンが3人の中の最強の者となった。

言葉の歴史

コンスルという言葉は、自分自身を古代ローマの支配者になぞらえようとするボナパルトの計画の一部として用いられた。後に、彼はエトワール凱旋門などの古代ローマ様式の凱旋門や記念碑の構築により、ローマとのつながりを強めることになる。

古代ローマには、政府の長として2人のコンスルが置かれた。コンスルは元老院を含む共和国を運営し、軍隊の最高指揮官でもある。2人のコンスルは同等の権威を持っており、互いに拒否権を行使することもできた。これは独裁を予防するための仕組みである。そして、非常時には元老院は1人のディクタトルを6ヶ月の任期を限って指名することができた。

第一共和政の崩壊により作られたフランスのシステムは、統領が2名から3名になった点以外は古代ローマの制度に類似していた。しかし、やがて3人の中で最も野心的でカリスマ性を持つナポレオンが頭角を現すこととなる。国民投票で彼は終身第一統領に選出された。この選出は任期の点以外では古代ローマのディクタトルの指名に類似するものである。最終的に1804年にナポレオンはフランス皇帝となることを宣言して、フランスに君臨することになった。

他の統領

第二統領はジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス、第三統領はシャルル=フランソワ・ルブランであった。

関連項目