「ナヴィン・ラングーラム」の版間の差分

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'''ナヴィン・ラングーラム'''([[ヒンディー語]]:नवीन चन्‍द्र रामगुलाम、[[1947年]][[7月14日]] - )は[[モーリシャス共和国]]の[[政治家]]。{{仮リンク|労働党 (モーリシャス)|label=労働党|en|Labour Party (Mauritius)|}}所属議員。([[共和制]]移行後における)モーリシャス第2代・第5代[[モーリシャスの首相の一覧|首相]]。


==経歴==
==経歴==
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父は[[英連邦王国]]としての[[モーリシャス (英連邦王国)|モーリシャス]]の独立に貢献し、労働党党首として初代首相にもなった[[シウサガル・ラングーラム]]。ナヴィンは、[[アイルランド共和国|アイルランド]]首都の[[ダブリン]]で医師として修業に努め、[[1977年]]に医師免許を得た。また、政治家としてのキャリアを積むため、[[修士]]の[[学位]]を[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]にて取得した。


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2014年9月21日 (日) 01:04時点における版

ナヴィン・ラングーラム
नवीन चन्‍द्र रामगुलाम
生年月日 1947年7月14日
前職 医師
弁護士
所属政党 労働党英語版
称号 修士
親族 シウサガル・ラングーラム

在任期間 2005年7月5日 -
大統領 アヌルード・ジュグノート
モニーク・ベルポー(代行)
ラジュケスウール・ピュリャグ
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ナヴィン・ラングーラムヒンディー語:नवीन चन्‍द्र रामगुलाम、1947年7月14日 - )は、モーリシャス共和国政治家労働党英語版所属議員。(共和制移行後における)モーリシャス第2代・第5代首相

経歴

父は英連邦王国としてのモーリシャスの独立に貢献し、労働党党首として初代首相にもなったシウサガル・ラングーラム。ナヴィンは、アイルランド首都のダブリンで医師として修業に努め、1977年に医師免許を得た。また、政治家としてのキャリアを積むため、修士学位ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにて取得した。

1991年にナヴィン・ラングーラムは労働党の党首となり、1995年国民議会選挙で与党モーリシャス社会主義運動(MSM)を破り、共和制移行後の第2代首相に就任した。2000年の国民議会選挙ではMSMに敗北、下野したが、2005年選挙では社会主義連盟を結成して雪辱、第5代首相に就任した。2010年の国民議会選挙では、積年のライバルであるMSMなどと未来同盟英語版を結成、勝利して首相の地位を守った。

ラングーラムの政策は、モーリシャス国民への無料交通の導入、高齢者に対する温厚政策などを行うために、モーリシャスの税制を厳罰化するなど、それまでにない改革が行われている。実権を握るラングラームと、名誉職である大統領アヌルード・ジュグノートとの対立が激化し、ジュグノートは2012年3月31日で辞任するに至った[1]

出典

先代
ポール・ベレンガー英語版
モーリシャス首相
2005年 -
次代
-