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結果として福西が教育の理想を掲げた頼久寺町・伊賀町に再び「順正」の名が掲げられるのは、国体主義崩壊後となる[[戦後]]の事である。しかも[[1967年]]の'''[[吉備国際大学短期大学部|順正短期大学]]'''設立まで待つ事となった。<ref>倉田,2006年、p300</ref>
結果として福西が教育の理想を掲げた頼久寺町・伊賀町に再び「順正」の名が掲げられるのは、国体主義崩壊後となる[[戦後]]の事である。しかも[[1967年]]の'''[[吉備国際大学短期大学部|順正短期大学]]'''設立まで待つ事となった。<ref>倉田,2006年、p300</ref>


そのきっかけとなったのが岡山県当局の主導で行われた[[1966年]]の高梁高等学校伊賀町校舎の廃止である。これに反発したのが地元・伊賀町および頼久寺町、さらには福西の教え子たちともいえる順正女学校・順正高等女学校・高梁高等女学校・高梁高等学校家政科と連綿と歴史を紡いで高梁の地に根を下ろしてきた「順正の卒業生」たちであった。彼女らは自らが慣れ親しんだ伊賀町から学び舎の灯が消える事を嘆き、その悲痛を高梁市に申し入れたのである。市は伊賀町校舎の跡地活用として様々な模索をしてきたが、最終的には彼女らの陳情を受諾し、教育機関を誘致することを決定。当時、岡山県・[[広島県]]の各地で教育機関を設置させ、運営実績のあった[[加計勉]]に誘致を打診する。加計は「順正の卒業生」たちの願いと、それを汲まんとする市当局の熱意に応え、高梁市と共同出資の形で「学校法人 高梁学園」<ref group="注">のちの順正学園</ref>を設立。順正女学校跡地に共学校である「順正短期大学」を新設させた。新設校に「順正」の名を遺したのも、福西の業績を忘れぬためにと卒業生たちが加計に対し陳情した結果である。<ref>倉田,2006年、p299</ref>
そのきっかけとなったのが岡山県当局の主導で行われた[[1966年]]の高梁高等学校伊賀町校舎の廃止である。これに反発したのが地元・伊賀町および頼久寺町、さらには福西の教え子たちともいえる順正女学校・順正高等女学校・高梁高等女学校・高梁高等学校家政科と連綿と歴史を紡いで高梁の地に根を下ろしてきた「順正の卒業生」たちであった。彼女らは自らが慣れ親しんだ伊賀町から学び舎の灯が消える事を嘆き、その悲痛を高梁市に申し入れたのである。市は伊賀町校舎の跡地活用として様々な模索をしてきたが、最終的には彼女らの陳情を受諾し、教育機関を誘致することを決定。当時、岡山県・[[広島県]]の各地で教育機関を設置させ、運営実績のあった[[加計勉]]に誘致を打診する。加計は「順正の卒業生」たちの願いと、それを汲まんとする市当局の熱意に応え、高梁市と共同出資の形で「学校法人 高梁学園」<ref group="注">のちの順正学園</ref>を設立。順正女学校跡地に共学校である「順正短期大学」を新設させた。この新設校が当時の女子高等教育機関としてポピュラーであった[[短期大学]]とされたのも、その学校に「順正」の名を遺したのも、福西の業績を忘れぬためにと、順正の地に福西の理想とした女子のための高等教育機関を、と卒業生たちが加計に対し陳情した結果である。<ref>倉田,2006年、p299</ref>


もちろん現在、伊賀町に設置された高等教育機関<ref group="注">[[吉備国際大学]]および[[吉備国際大学短期大学部]]。順正短期大学を発端として発展してきた順正学園の教育機関群</ref>は福西の設立したものではなく、キリスト教主義学校の精神も持ってはおらず<ref group="注">そもそも国体主義時代直前に他ならぬ高梁高等女学校によってその理想は破棄されている</ref>しかも共学校<ref group="注">これは経営上の問題もあるが、福西自身が上記した通り男女平等主義者であった解釈に基づいて'''男女ともに差別なき同じ教育を提供する'''という趣旨による</ref>である。されど高梁市伊賀町という土地に再び「順正」の名を冠する学校が創られたのは、紛れも無く福西が高梁の地に撒いた女子中等教育と高等教育への意志、そして、これらを受け継いだ教え子たちの思いがあっての事であるとされている。<ref>倉田,2006年、p301</ref>ゆえに、順正(旧・高梁)学園は福西を「順正の由来者(学祖に準ずる者)」<ref>[http://junsei.ac.jp/edu/guide/origin.html 順正の由来 - 学校法人 順正学園]</ref>として推戴し、その業績を学内の石碑や、史跡「順正寮」(順正女学校の校舎跡)として遺し伝えている。
もちろん現在、伊賀町に設置された高等教育機関<ref group="注">[[吉備国際大学]]および[[吉備国際大学短期大学部]]。順正短期大学を発端として発展してきた順正学園の教育機関群</ref>は福西の設立したものではなく、キリスト教主義学校の精神も持ってはおらず<ref group="注">そもそも国体主義時代直前に他ならぬ高梁高等女学校によってその理想は破棄されている</ref>しかも共学校<ref group="注">これは経営上の問題もあるが、福西自身が上記した通り男女平等主義者であった解釈に基づいて'''男女ともに差別なき同じ教育を提供する'''という趣旨による</ref>である。されど高梁市伊賀町という土地に再び「順正」の名を冠する学校が創られたのは、紛れも無く福西が高梁の地に撒いた女子中等教育と高等教育への意志、そして、これらを受け継いだ教え子たちの思いがあっての事であるとされている。<ref>倉田,2006年、p301</ref>ゆえに、順正(旧・高梁)学園は福西を「順正の由来者(学祖に準ずる者)」<ref>[http://junsei.ac.jp/edu/guide/origin.html 順正の由来 - 学校法人 順正学園]</ref>として推戴し、その業績を学内の石碑や、史跡「順正寮」(順正女学校の校舎跡)として遺し伝えている。

2014年9月6日 (土) 09:59時点における版

福西志計子(ふくにし しげこ、1848年1月18日弘化4年12月13日[1]) - 1898年明治31年)8月21日[2][3]は、日本教育者キリスト教信徒。幼名(本名)は福西繁(ふくにし しげ)[3][4]であり、信仰者・教育者として職に携わるにあたっては名を読み替えて志計(しげ)ないしは志計子(しげこ)と名乗る。[3][4][注 1]岡山県高梁市において岡山県初の女学校[注 2]である順正女学校を設立した事により、同地において女子中等教育の実践を通し高等教育普及の礎を築いた人物。

概説

順正寮(順正女学校舎)跡および女学校跡地の石碑

高梁市という備中国の山間において私設の女学校である順正女学校を設立させた代表発起人。

幼少期において隣家の儒学者山田方谷に学び、17歳にて婿養子を迎えて結婚。[1]のち29歳にて岡山裁縫伝習所において学問を修め、高梁小学校附属裁縫所の教師となる。教師としての活動の中で志計子は共に高梁出身として伝習所にて学ぶ友人であった木村静(きむら しず)と共に高梁基督教会堂にてキリスト教に触れると共に、金森通倫新島襄との交流を経て、女子高等教育の必要性を痛感する。[1]

しかし高梁へのキリスト教伝来と同時期に吹き荒れた反キリスト教の世論のために公職であった高梁小学校附属裁縫所教師の職を木村と共に追われる。同様に職を追われた者たちが高梁教会への奉仕活動へと勤しむ中、志計子は教育者として立場に拠らない女子高等教育への志を捨てることなく私設の縫製所を開学。のち同縫製所に文学科を併設し女学校として改組させ順正女学校とした。[4]

順正女学校より運営を引き継ぎ存続している岡山県立高梁高等学校家政科の学祖。そして学校法人 順正学園の運営する各校(主には吉備国際大学吉備国際大学短期大学部・順正高等看護専門学校)において、その志を同地において示した学祖に準ずる者として推戴される人物である。[注 3]

日本の明治期において女子高等教育の必要性を説き「女性に自由な教育を[5]をその活動の信念・旗印とし、高梁市を中心として教育の普及に努め岡山県の教育史に名を残した女教師である。

人物

大まかな評伝としては「男勝りで実行力に富み、自己にも他者にも厳しく接する人物」とされている。[6] その様はまさに「女傑」という言葉に値する、と評される場合もある。[7]しかし、その行動の中には常に深い女性として人間としての深い「愛情」があったとされている。[8]

体験によって得た男女平等主義

福西は幼い頃の父親との死別により、母子家庭の娘として生きていかねばならなかった。その後、志計子が婿をとるまでの間、当主名代として福西家を廃嫡させずに存続させたのは、他ならぬ彼女の母親であり、その母親の「父なし娘と侮られぬよう、きちんとした学問を身につけて欲しい」との願いにより志計子は山田方谷の元へと藩の男子や他藩よりの遊学生に交ざって学問を修める事になった。また、結婚後も幕末から明治初期にかけての混乱を切り抜け、備中松山藩の士族として貧窮に甘んじる[注 4]事にもなった。この体験は志計子に「たとえ女子と言えども、事あらば男子に匹敵する、あるいはそれを超える働きが求められる」という経験則と「女であるというだけで、男に劣るなどという事は決して無い」という意識を与えた。すなわち福西はキリスト教の「神の下の平等」に触れる以前より男女平等主義をその身に刻んでいたとされている。[9]

男女平等主義者であった福西だが、当時の社会における女性蔑視の原因を、単に男性側の意識や単なる社会構造の問題ととらず「女性側に学問を学ぶ機会が与えられないためである」と捉えた。これもまた自らが方谷門下として男性たちに互して学問に研鑽した過去にあるとされる。女性側の知性と意識が高まり理に敵う行動が出来れば、男性と同様の実績を積める、という事を前述の経験則によって知っていた福西は、それゆえにこそ女性地位向上・男女平等の理想への近道を社会改革や示威活動ではなく、女子教育(と職業女性の推進)にこそ求めたのだとされている。[9]

博愛主義者

こうした体験を経て方谷の元で理知と実行力を学んだ福西であったが、その元に常に理(または利)詰めで動いていたのかといえば実はそうではなく、その行動には常に博愛精神がついて回っていたという。幼きにおいては方谷より賜った至誠惻怛に基づく、長じてはキリスト教的博愛主義に基づいた、双方に共通する「人間愛」の精神[注 5]を、福西は常に尊重し続けたと言われており、順正女学校の理念もまた、それに基づく「温」であったという。[10]

順正の「父」として

このように実行力に富み厳格で男勝りにして、されど母に勝る慈愛を持っていた福西は、本来は女性にもかかわらず教え子より「順正のお父さま」と恐れられながら慕われた。[11]

実際、福西は女学校において風紀や躾に厳しく、特に社会に出て有用な人材になれるようにと学問と技術を教授する事に情熱を注いだ。それはすなわち生徒への愛情ゆえの厳しさであったわけだが、その様は、まさに「母」とするには苛烈で「父」と形容するに足るものであった。福西の指導に心を疲弊させた生徒のメンタルケアを担当したのは、彼女の盟友であった「順正のお母さま」木村静であり、初期順正女学校の慈愛精神は、この二人の「愛の両輪」こそがそれを支えていたのである。[11]

信仰者として

かつて高梁教会によって幼少期の虐待から救い出され、福西に匿われながら青年期を過ごした留岡幸助[12]は、自著『信仰美談』において、福西を日本キリスト教の歴史上において細川ガラシャ丹波ノブに並ぶ「信仰の人」であると評した。[13]留岡にとって福西は信仰上の姉分にあたるため、身内贔屓の側面は決して否定できないが、それを勘案してなお留岡は福西の信仰の姿勢を高らかに褒め称え、順正女学校の設立と以降において女学校が優秀な人材を輩出していった成果を「信仰の力」と評している。[14]

1880年新島襄の高梁での伝道を聞いた福西は、そこに幼い頃より方谷を通して体感していた至誠惻怛の精神、すなわち「博愛主義」や体感していた「平等主義」が体現されている事に気付く。未だ高梁という地の当時の価値観においては異端であった、その考えを肯定してくれる、この教えは福西にとっては正真正銘の福音であったとも言われる。以降、福西は真摯に、この信仰と向き合う事となった。

明治期に高梁において起こった3回の反教運動[注 6]を超え、公職を追われてなお棄教に至らなかった福西の信仰への姿勢は疑いようが無いとされる。

高等教育への理想と結末

福西は1883年にメアリー・リヨン(英語版記事 - マウント・ホリヨーク大学学祖。アメリカ合衆国における女子教育の先駆者)の伝記に触れて強く影響を受けたとされている。[15]当時、縫裁所を運営していた福西は、リヨンの大学創設に大きく勇気づけられ「あの人は女子でありながら大学を創設したのであるから、私にもそれができないはずはない 」と志を高めた。[15]これを以降、福西の女子教育の理想は中等教育の質の上昇と高等教育の設置へと向けられる。のち福西は縫裁所を「縫裁科」とした上で文学科を新設し、順正女学校へと改組させた。さらに女学校は福西死後の明治45年に順正高等女学校を名乗る事になり、大正期においては他の高等教育機関に対し在校生のうち30%の進学率を叩き出す学校となっていった。[16]

されど、結論として順正女学校そのものの高等教育課程設置は、福西が志半ばにして病に伏した事(1898年)と後の県営移管(1921年)において、中途半端な形となった。以降は教育界そのものが国体思想へ一直線となる中で福西が理想とした女子高等教育の敷設の道は絶たれ、1943年には校名から順正の名も消されていく。[17][注 7]

結果として福西が教育の理想を掲げた頼久寺町・伊賀町に再び「順正」の名が掲げられるのは、国体主義崩壊後となる戦後の事である。しかも1967年順正短期大学設立まで待つ事となった。[18]

そのきっかけとなったのが岡山県当局の主導で行われた1966年の高梁高等学校伊賀町校舎の廃止である。これに反発したのが地元・伊賀町および頼久寺町、さらには福西の教え子たちともいえる順正女学校・順正高等女学校・高梁高等女学校・高梁高等学校家政科と連綿と歴史を紡いで高梁の地に根を下ろしてきた「順正の卒業生」たちであった。彼女らは自らが慣れ親しんだ伊賀町から学び舎の灯が消える事を嘆き、その悲痛を高梁市に申し入れたのである。市は伊賀町校舎の跡地活用として様々な模索をしてきたが、最終的には彼女らの陳情を受諾し、教育機関を誘致することを決定。当時、岡山県・広島県の各地で教育機関を設置させ、運営実績のあった加計勉に誘致を打診する。加計は「順正の卒業生」たちの願いと、それを汲まんとする市当局の熱意に応え、高梁市と共同出資の形で「学校法人 高梁学園」[注 8]を設立。順正女学校跡地に共学校である「順正短期大学」を新設させた。この新設校が当時の女子高等教育機関としてポピュラーであった短期大学とされたのも、その学校に「順正」の名を遺したのも、福西の業績を忘れぬためにと、順正の地に福西の理想とした女子のための高等教育機関を、と卒業生たちが加計に対し陳情した結果である。[19]

もちろん現在、伊賀町に設置された高等教育機関[注 9]は福西の設立したものではなく、キリスト教主義学校の精神も持ってはおらず[注 10]しかも共学校[注 11]である。されど高梁市伊賀町という土地に再び「順正」の名を冠する学校が創られたのは、紛れも無く福西が高梁の地に撒いた女子中等教育と高等教育への意志、そして、これらを受け継いだ教え子たちの思いがあっての事であるとされている。[20]ゆえに、順正(旧・高梁)学園は福西を「順正の由来者(学祖に準ずる者)」[21]として推戴し、その業績を学内の石碑や、史跡「順正寮」(順正女学校の校舎跡)として遺し伝えている。

略歴

  • 1848年1月18日弘化4年12月13日備中松山藩藩士、福西伊織・飛出子夫妻の長女[22]として生まれる。
  • 1852年 数え7歳(実年齢4~5歳)にして父と死別し、以降は母に育てられる。同時期に隣家の儒学者山田方谷に学び、その薫陶を受ける。
  • 1861年頃 数え17歳(実年齢14~5歳)にて自家と同じ松山藩士・井上助五郎を福西家の婿養子に迎え、結婚。家庭に入る。
  • 1875年 士族としての困窮に悩まされながらも幼少期の方谷よりの薫陶を想い、家計の保持と学の道の両立を思い立って、教職の道を志し岡山裁縫伝習所に入学。
  • 1876年7月 伝習所を卒業。10月より高梁小学校附属裁縫所の教師となる。
  • 1879年頃 キリスト教に触れる。のち新島襄らに薫陶を受ける。
  • 1880年 木村と共にキリスト教婦人会の設立に参加。しかし、この行為が「公職たる教師にあるまじきこと」として問題視[注 12]され、職を辞すか信仰を棄てるかの選択を迫られる。結果、福西と木村は裁縫所教員の職を辞す。
  • 1881年 高梁向町に女子教育の場として私設の縫製所を設立する。
  • 1882年 高梁基督教会堂の設立に伴い、正式に洗礼を受けて、キリスト教徒となる。
  • 1883年 メアリー・リヨンの伝記に深く感銘を受け、女子高等教育への志をより強くする。
  • 1885年 縫製所に文学科を設置させ、私設縫製所を順正女学校として改組。初代校長として柴原宗助を迎え、志計子は一教師兼経営者として運営に関わる。
  • 1896年 校舎を新設し、向町の借地から頼久寺町(現・順正寮跡)に移転。[注 13]
  • 1898年8月21日 肺病のため病没。52歳。

関連項目

関連人物

  • 山田方谷 - 福西の幼少期の師にあたる人物。
  • 木村静 - 福西の盟友。共に順正女学校の設立に奔走した女教師仲間。
  • 金森通倫 - 福西と木村に洗礼を与えた人物。
  • 留岡幸助 - 福西と同時期に高梁教会にて洗礼を受けた教育者兼社会事業家。岡山四聖人の一人で家庭学校(現在に言う児童自立支援施設の前身のひとつ)の創設者。
  • 伊吹岩五郎 - 高梁教会牧師。福西の死後、校長を兼任して彼女の衣鉢を継ぐ。
  • 加計勉 - 日本の教育者。加計学園グループ創始者。福西の志に感銘を受け、順正女学校の跡地に順正短期大学(学校法人高梁学園)を創始する。

関連書籍

研究書

  • 福西志計子と順正女学校 山田方谷・留岡幸助・伊吹岩五郎との交友(著・倉田和四生 / 刊・吉備人出版 /2006年12月16日 初版発行)ISBN 4-86069-143-1

脚注

注釈

  1. ^ 読み替えた「志計子」の名前の各文字には、すべて十字架を意識したような「十」字形の部首や字形が用いられており、これだけでも福西の信仰の篤さが伺える
  2. ^ 高梁市においては公私立男女含めて初めて設立された女学校(中等教育機関)である。
  3. ^ ただし、これら各校は歴史の流れの中での県営移管(高梁高等学校)や経営上の都合(順正学園)などがあいまって、福西が当初に開設したようなキリスト教主義学校の気風を受け継ぐことは無かった。が、そもそも福西は自身の信仰は篤くとも、これをもって生徒たちを積極的に教化する姿勢は持たなかったとされる。これは女学院設立当初における迫害の中、地域の理解を得て女性教育の場としての女学校を守るために教育と教化の分離が必要不可欠であったためで、とにかく女学校における福西の一番の目的は単純な教化ではなく博愛主義(ここで言う博愛主義はキリスト教的博愛主義もさることながら、福西が山田方谷より当然として教えられていたであろう至誠惻怛の思想をも抱き合わせとした、複合的な博愛主義的価値観であろうと考えられている)に基づく女子教育の普及(自己判断の元、自らの価値観と知性をもって、それを取捨選択しうる自立した女子の育成)であったと考えられている。(順正女学校同窓会誌『園の音信・第2号』より。倉田,2006年、p110)
  4. ^ 当時の備中松山藩は幕府軍として戦い、志計子の夫であった助五郎も、藩主板倉勝静を助けるために鳥羽伏見の戦い戊辰戦争に赴いている。(高梁歴史人物辞典より) 明治期において「賊軍の士族」であった松山藩士たちは、総じて様々な局面で、苦境に立たされることとなった。その中で助五郎は、のちに勝静が設立した第八十六国立銀行(のちの中国銀行)の行員になったと伝えられている。(倉田,2006年、p218)
  5. ^ 福西の生涯を研究した倉田和四生は、これを「福祉の心」と称している。(倉田,2006年、p65)
  6. ^ 高梁では明治17年に3回、反教運動が起こっている。うち1回(明治17年7月17日)は教会への投石と共に、地元の児童に反キリスト教の言葉を叫ばせ教徒たちの社会性と人格(いわば土地における生存権)を完全に否定するという苛烈かつ悪質なものであった。(倉田,2006年、p104)
  7. ^ 校名から「順正」の名が消された理由については記録は残っていない。ただ倉田は国体の中で公営の学校が、私学時代(しかもキリスト教主義を持っていた時代)を尊重するような名を掲げる事は国にとって好ましからざる事とされたのではないか、という推測を研究所の中で語っている。(倉田,2006年、p293)
  8. ^ のちの順正学園
  9. ^ 吉備国際大学および吉備国際大学短期大学部。順正短期大学を発端として発展してきた順正学園の教育機関群
  10. ^ そもそも国体主義時代直前に他ならぬ高梁高等女学校によってその理想は破棄されている
  11. ^ これは経営上の問題もあるが、福西自身が上記した通り男女平等主義者であった解釈に基づいて男女ともに差別なき同じ教育を提供するという趣旨による
  12. ^ 当時、高梁では反キリスト教の保守派が世論を掌握しており、キリスト教信者は「地域の結束を乱す者」として迫害の対象とされた。これは歴代に渡り備中松山藩を治めてきた松山板倉家島原の乱時に出征し討ち死にした板倉重昌の支族である事に由来していたとされる。
  13. ^ 志計子没後となる明治41年に伊賀町に新校舎が完成し校舎存続のままで順正女学校の本拠は同地に再移転する

引用

  1. ^ a b c 備中高梁観光案内所ウェブサイト「山田方谷マニアックス」より
  2. ^ 日本キリスト教女性史・福西志計子より
  3. ^ a b c コトバンク-福西志計子
  4. ^ a b c 高梁歴史人物辞典「ふ」項
  5. ^ 高梁市ウェブサイト「福西志計子」より
  6. ^ 倉田,2006年、p198
  7. ^ 倉田,2006年、p208
  8. ^ 倉田,2006年、p213など
  9. ^ a b 倉田,2006年、p71
  10. ^ 倉田,2006年、p63,p65,p220など
  11. ^ a b 倉田,2006年、p165など
  12. ^ 倉田,2006年、p169
  13. ^ 倉田,2006年、p172
  14. ^ 基督教新聞。明治31年9月2日発行、第789号より(倉田,2006年、p173)
  15. ^ a b 倉田,2006年、p107
  16. ^ 倉田,2006年、p138
  17. ^ 倉田,2006年、p293
  18. ^ 倉田,2006年、p300
  19. ^ 倉田,2006年、p299
  20. ^ 倉田,2006年、p301
  21. ^ 順正の由来 - 学校法人 順正学園
  22. ^ 倉田,2006年、p55