「遠藤周作」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
入報力 (会話 | 投稿記録)
m 曖昧さ回避処理: 麹町教会聖イグナチオ教会, 嘱託嘱託社員
122行目: 122行目:
=== 死後(1996年 - ) ===
=== 死後(1996年 - ) ===
{{節stub}}
{{節stub}}
スポーツ新聞は、遠藤周作の死を'''「狐狸庵先生逝く」'''という見出しで報じた。葬儀は[[麹町]]の[[麹町教会|聖イグナチオ教会]]で行われた。教会は人で溢れ、行列は[[国道20号|麹町通り]]にまで達した。生前の本人の遺志で、『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。
スポーツ新聞は、遠藤周作の死を'''「狐狸庵先生逝く」'''という見出しで報じた。葬儀は[[麹町]]の[[聖イグナチオ教会]]で行われた。教会は人で溢れ、行列は[[国道20号|麹町通り]]にまで達した。生前の本人の遺志で、『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。


== 作風 ==
== 作風 ==
232行目: 232行目:
:3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。[[松竹]]大船撮影所の助監督採用試験に失敗。
:3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。[[松竹]]大船撮影所の助監督採用試験に失敗。
* [[1949年]](昭和24年)
* [[1949年]](昭和24年)
:6月 - [[鎌倉文庫]]の[[嘱託]]になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく[[倒産]]。カトリック・ダイジェスト社で働く。[[三田文学]][[同人]]になる。
:6月 - [[鎌倉文庫]]の[[嘱託社員|嘱託]]になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく[[倒産]]。カトリック・ダイジェスト社で働く。[[三田文学]][[同人]]になる。
* [[1950年]](昭和25年)
* [[1950年]](昭和25年)
:6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。
:6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。

2014年8月6日 (水) 17:54時点における版

遠藤 周作
(えんどう しゅうさく)
誕生 1923年3月27日
日本の旗 日本 東京府北豊島郡西巣鴨町
死没 (1996-09-29) 1996年9月29日(73歳没)
日本の旗 日本 東京都新宿区信濃町 慶應義塾大学病院
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士文学
最終学歴 慶應義塾大学仏文科
活動期間 1953年 - 1996年
ジャンル 小説
随筆
文芸評論
戯曲
主題 キリスト教
文学活動 第三の新人
代表作 『白い人』(1955年)
海と毒薬』(1958年)
沈黙』(1966年)
』(1980年)
深い河』(1993年)
主な受賞歴 芥川龍之介賞(1955年)
新潮社文学賞(1958年)
毎日出版文化賞(1958年)
谷崎潤一郎賞(1966年)
読売文学賞(1979年)
日本芸術院賞(1979年)
野間文芸賞(1980年)
毎日芸術賞(1994年)
文化勲章(1995年)
親族 遠藤常久(父)
遠藤正介(兄)
遠藤龍之介(長男)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年大正12年)3月27日 - 1996年平成8年)9月29日)は、日本小説家随筆文芸評論戯曲も手がけた。

来歴・人物

父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。

慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、1950年フランスへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を得た。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。

無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。

『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。

狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。

生涯

出自

遠藤周作は1923年3月27日東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三国立銀行に勤めていた銀行員遠藤常久東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。

かつて鳥取県の旧羽合町下浅津(現・湯梨浜町)にあった遠藤家は、江戸時代鳥取池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、旧東郷町長和田には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。[1] 父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。

母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。

幼少時代

1926年、常久の転勤(第三銀行から安田銀行)で、一家は満洲関東州大連に移る。1929年に周作は大連市大広場小学校に入学。この頃、郁が指先を血まみれにしながらヴァイオリンを練習する姿や満人のお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識とエディプスコンプレックスを抱いた。 小学校4年のときに、作文「どじょう」が大連新聞に載る。 1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、周作は暗い少年時代を送った。翌1933年、周作が10歳のときに両親は離婚した。ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。

周作は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。同年8月に兵庫県神戸市の六甲小学校に転入。この頃から伯母の影響で西宮市にあるカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。

1935年、周作は灘中学校に入学。宝塚市にある小林聖心女子学院で音楽教師として勤め始めた郁がそこの大聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。郁の洗礼名はマリア、周作の洗礼名はパウロ。

正介の勉強指導の成果もあり、灘中入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。江戸時代の滑稽本を好み、特に十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。

1939年に一家は西宮市仁川に転居した。この時すでに、正介は四修で第一高等学校に合格し、寮生活を始めている。この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師ペトロ・ヘルツォークと出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。

学生時代(1939年 - 1949年)

周作は1939年に正介の影響もあり、四修で三高[2]を受験するが敢えなく失敗している。1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい[要出典]。周作は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部に入学。正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。

1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している[3]。同年、浪速高姫路高甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。

周作は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝国大学を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。常久が出した同居の条件は「旧制高校か医学部予科のどちらか」に入学することだった。しかし、周作は東京外国語学校、日本大学医学部予科に不合格となり、慶應義塾大学医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。翌1943年4月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、周作を勘当した。

生活基盤を失った周作は、友人の利光松男宅に居候し、家庭教師などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。まもなく、吉満義彦が舎監を務めるカトリックの学生寮白鳩寮に入寮した。学生寮での生活は、遠藤周作にとって初めての開けた世界だった。吉満の影響でジャック・マリタンen:Jacques Maritain)、寮内で出来た友人松井慶訓の影響でリルケなどを読み耽った。また、吉満の紹介で、亀井勝一郎堀辰雄などと知り合うことになった。堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった周作は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。

第二次世界大戦の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、川崎勤労動員の工場などで働くことを余儀なくされた。寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、下北沢で偶然購入した佐藤朔の『フランス文学素描』で、1945年4月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮は東京大空襲で焼失した。なお、周作は徴兵検査では第一乙種だったが、肋膜炎などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えた。

終戦後は大学に戻り、ジョルジュ・ベルナノスen:Georges Bernanos)、フランソワ・モーリアックなどのフランスのカトリック文学に傾倒した。大学の一年先輩の安岡章太郎との知遇も得た。1946年になり、周作が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。学生寮から焼け出されて再び生活基盤を失っていた周作は、この誘いを受けて常久の家に戻った。

1947年12月、初めて書いた評論「神々と神と」が神西清に認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『三田文学』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『高原』などで評論を多数発表している。1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』同人となり、柴田錬三郎原民喜丸岡明山本健吉堀田善衛との知遇を得ている。

1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。卒業論文は「ネオ・トミズムにおける詩論」。松竹大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている[4]。その後、佐藤朔の紹介で鎌倉文庫の嘱託として働き始め、また、ペトロ・ヘルツォーク神父が主催する雑誌『カトリック・ダイジェスト』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。

留学時代(1950年 - 1953年)

1950年6月4日、周作はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧。フランス船マルセイエーズ号で横浜港を出航した。7月5日にマルセイユ着。新学期までルーアンの建築家ロビンヌ家に滞在し、9月にリヨン大学に入学した。

留学時代には、勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。それらは大久保房男の厚意で『群像』、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。

1951年夏にはフランソワ・モーリアックの『テレーズ・デスケルゥfr:Thérèse Desqueyroux』の舞台になったフランス南西部ランド地方を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏に肺結核を起こし、吐血。6月から8月までコンブルーen:Combloux)の国際学生療養所に入所する。退所後にパリに移ったものの、12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。病状の悪化でフランスでの生活に見きりをつけ、リヨン大学の博士論文の作成を断念。翌1953年1月に、日本船赤城丸で帰国の途に着いた。翌月に日本着。

帰国後、企業家岡田幸三郎の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』を早川書房から処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。12月に敬愛する母が脳溢血で急死する悲劇に見舞われた。

駆け出し作家時代(1954年 - 1962年)

1954年4月から文化学院の講師を務めた。安岡章太郎の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、小島信夫近藤啓太郎庄野潤三進藤純孝三浦朱門吉行淳之介らとの知遇を得た。

この年から、遠藤周作は本格的に作家として活動を始める。奥野健男の依頼で現代評論に創刊号から参加するなど、駆け出しとしては上々な物だった。

1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回芥川賞を受賞した。同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。交際当初、岡田の父岡田幸三郎は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあったフランス文学者小林正が、岡田幸三郎の説得に当たったという。結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく世田谷松原に転居した。1956年6月、長男龍之介が誕生し、ささやかにも家庭を築き始めると、遠藤周作の、父に対する敵意は本格的な物になっていった。芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。1956年から上智大学文学部の講師を務めた。

1957年九州大学生体解剖事件(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した[5]。『海と毒薬』は、翌1958年4月に文藝春秋新社から出版され、12月に第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞した。

9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整加藤周一野間宏らとともに渡ソ。10月にソ連タシケントでの会議に参加した後、モスクワを廻り、12月に帰国した。1959年11月には、マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。この時に、マルキ・ド・サドの研究家、ジルベール・レリーfr:Gilbert Lely)、ピエール・クロソウスキーとの知遇を得た。その後、イギリススペインイタリアギリシャからエルサレムを廻り、翌1960年1月に帰国した。

帰国後に体調を崩し、4月に肺結核が再発。東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日1月21日前後、12月末)。危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来た踏絵を見たという。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。翌1962年5月にようやく退院することになった。

狐狸庵先生(1963年 - )

戦国三部作(1988年-1991年)

「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988年1月26日 - 1989年2月7日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989年7月30日 - 1990年5月31日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。のちに講談社から単行本として再発行される。この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。

ベースになった「武功夜話」は、1959年9月愛知県江南市の吉田家の土蔵から偶然発見されたと言われている21巻その他付録からなる文書群だが、古文書ではなく近世になって創作されたものだ、との疑いもあり論争中である。

深い河(1990年 - )

映画化された作品。

同名の小説を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとされている。インド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現した。 既にこの小説は冒頭から「シンクロニシティ」を扱っているが、1992年8月、「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」で遠藤は、F・D・ピートの『シンクロニシティ』を絶賛し、同書はそのためベストセラーに躍り出た。これはカトリック作家としてはオカルトへの屈服とも言うべき異常事態だったが、遠藤がこの時おかしくなっていたと指摘されるようになったのは、没後のことである。なお、オカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている。

死の床で(1993年 - 1996年)

1993年5月に腹膜透析の手術を行った。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分とヨブの境遇を重ね合わせ、「ヨブ記の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。

1996年9月28日、昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。それはすぐに取り除かれたが、そこから黴菌が広がり、肺炎を併発した。それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。翌9月29日午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去(慶應義塾大学病院)。73歳没。

絶筆は三田文学1996年夏季号に掲載された佐藤朔の追悼文(口述)だった。ヨブ記の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。

死後(1996年 - )

スポーツ新聞は、遠藤周作の死を「狐狸庵先生逝く」という見出しで報じた。葬儀は麹町聖イグナチオ教会で行われた。教会は人で溢れ、行列は麹町通りにまで達した。生前の本人の遺志で、『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。

作風

テーマとしてのキリスト教

キリスト教は遠藤文学の最大のテーマであり、神学者ではなく、神学教育は受けていないにも関わらず、また、必ずしも正統とは言い難い思想もあるにも関わらず、日本のキリスト教分野を代表する人物とされている。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しており、キリスト教関係者の間でもしばしば賛否両論含めた論評の対象になる。

日本人とキリスト教の矛盾

遠藤は家がカトリックであり、中学時代にカトリックの洗礼を受けている。さらに1950年からフランス留学をしている。この留学ときに感じ、そして遠藤の人生最大のテーマとなった葛藤が「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」であった。遠藤は後年、自分の信仰に関する思索を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現している。このテーマは最期まで貫かれており、晩年の「深い河」へもつながっていく。

キリスト教の持つ救済の力

キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを登るキリストであるとしている。罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられる姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、それがキリストであるとしている。この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されることもある。

キリシタン時代

遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。ジョセフ・キャラ小西行長など、実在の人物を下敷きにした作品も多い。

「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。…実はキリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは実は関係がなかったのである。教義を理解していても真の信仰は無かったのである。

日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。

遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として、自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。

海と毒薬』において

現世利益的な日本人像は「海と毒薬』で人体実験をする医師・看護師達として描かれている。これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。

深い河』において

日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた遠藤は、晩年の作品『深い河』において「日本人のもつべきキリスト教像」「汎世界的なキリスト教像」を提示している。

遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。

そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者ジョン・ヒック宗教多元論であった。あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。

遠藤が興味を惹かれていたインドを舞台にして、新たなキリスト教像を提示したこの作品は、大きな反響を巻き起こした。熊井啓監督によって映画化され、また、歌手の宇多田ヒカルは、この作品に影響を受け、「Deep River」という楽曲を発表している。

エディプス・コンプレックスと「母なるもの」

幼少時に抱いたエディプス・コンプレックスは後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。

母は東京音楽学校ヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・正介)を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それはホーリィen:Holyではない」[6]という言葉を子供たちにかけた。それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。子供たちは母を慕った。

父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児をもうけ家庭を築き、その大事さを実感した事があいまって、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。

父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」[6]斬り捨て[要出典]、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」[6]と嘆き、悲しんだ。

1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし[7]、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壷に入れた。兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壷を預かる事になり、その骨壷を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。子供の頃に母に連れられていったヤッシャ・ハイフェッツの来日公演の記憶は鮮明に残っていた。実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。

父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」[6]と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」[6]と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。

「心あたたかな医療」

1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。20代半ばのお手伝いさんが骨髄ガンで亡くなった。医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤周作自身も、蓄膿の手術の後で、上顎ガンの疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならと禁煙を決意、実行した。

彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。

「狐狸庵」先生としての遠藤周作

狐狸庵とは、一般に遠藤周作が40代を過ごすことになった自称柿生の山里(正確には玉川学園)の庵(住まい)をさすものと認識されているが、随筆の中で、柿生に移る前の東京都渋谷区の住いをはじめて狐狸庵と称したとしており、柿生の狐狸庵は新しい狐狸庵であるとしている。

カトリックと日本人との関わりを歴史的経緯の中で追求していくよう学生時代の恩師や先輩から勧められたことを小説家としての出発点とし、かつライフワークとして取り組むことが、純文学作家遠藤周作のテーマであった。いっぽう謹厳な宗教分野のテーマを追求する純文学作家としての姿を自ら離れ、いわゆるぐーたら物を中心とした身辺雑記等を書き連ねる随筆作家としての自身が創造した別のキャラクター(花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものの権化、しかし言いたいことは言う)が狐狸庵山人ということになった。

ただしいずれの分野の作品もすべて公式には遠藤周作著で統一されているので、作品中で自称しているだけのユーモアである。

親友の北杜夫らとともにユーモア文学ないしユーモア作品と呼ばれる数々の随筆群を発表し、この分野の旗手と目されブームを築いたこと、またTVのCMに「狐狸庵先生遠藤周作」としてたびたび登場した経緯から、世間一般に周知されることとなった。

したがって遠藤の純文学作品が取り上げられるときに限っては「狐狸庵山人」や「狐狸庵先生」という呼称は用いられることはない。 文学以外の分野では、素人劇団「樹座(きざ)」や音痴しか入団できない合唱団「コール・パパス」、素人囲碁集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。

さくらももこは遠藤周作と対談した際、どんな真面目な内容か緊張していたが、年齢を10歳偽るなど最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に翌日電話するように言われて約束通り電話したところ、それは東京ガスの営業所の番号であったというエピソードをエッセイで語っている[8]

なお、遠藤は中間小説の分野ではユーモア、ナンセンスもの以外にホラー、サスペンスも得意とした。専門のエンタテインメント作家のものに比べると(スキルの面での難点も見られるが)いずれも異色であり、うち2作が映画化されるなど人気も高い。これは純文学作家遠藤周作とも狐狸庵先生とも異なる第3の顔と見なすこともできる。

批判

遠藤のいう所の『西ヨーロッパ的キリスト教』の理解が本当に正しいのか、また彼の日本人に対する認識が正しいのかをめぐっては論争があり、批判的視点も数多い。 例えば、「[要出典]『海と毒薬』に於ける遠藤の主張は単なるキリスト教優越主義・欧米優越主義に過ぎず、普通の人が集団心理に依り罪の意識の無いまま非道に転ぶのは日本人だけではなく全ての人間に共通である」と述べた人[誰?]もいる。また「[要出典]過度に日本人をステレオタイプ化(日本人論)している」という批判をした人[誰?]もいる。また「[要出典]彼が『日本的キリスト教』と主張した『汎神論的キリスト教』『同伴者としてのイエス』は本当に『西欧的キリスト教』には存在しないのか?」と言う疑問を提示した人[誰?]もいる。一方「[要出典]彼の問題意識・視点の是非と作品の評価は別物である」と述べた人[誰?]や、「[要出典]遠藤の主張は当時の時代的制約に即して理解されるべきだ」という意見を述べた人[誰?]もいる。

略年譜

3月27日 - 東京巣鴨に生まれる。
父の転勤により、満洲関東州、大連に移る。
大連市の大広場小学校に入学。
父母の離婚により母に連れられて兄とともに日本に帰国し神戸市の六甲小学校に転校する。
私立灘中学校に入学。
4月 - 母は宝塚市小林聖心女子学院の音楽教師になり5月29日受洗
6月 - 周作も兄とともに西宮市夙川カトリック教会で受洗。洗礼名ポール。
灘中学校卒業。
4月 - 上智大学予科甲類に入学し籍を置くが、なお旧制高校をめざして受験勉強を続ける。
2月 - 上智大学予科を退学。旧制高校受験の失敗が続くが、母の経済的負担を考え、経堂の父の家に移る。
- 慶應義塾大学文学部予科に入学。しかし父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、父の家を出てアルバイト生活を続ける。友人宅にころがりこんだ後、学生寮に入る。
慶應義塾大学文学部仏文科に進学。
父の家に戻る。
12月 - 処女評論『神々と神と』が神西清に認められ、『四季』第5号(角川書店)に掲載。
3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。松竹大船撮影所の助監督採用試験に失敗。
6月 - 鎌倉文庫嘱託になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく倒産。カトリック・ダイジェスト社で働く。三田文学同人になる。
6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。
10月 - リヨン大学に入学。
夏 - モーリヤックの『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行。
パリに移る。体調を崩し入院。
2月 - 帰国。
7月 - 『フランスの大学生』を早川書房より刊行。
12月 - 母郁死去。
4月 - 文化学院の講師を務める。安岡章太郎の紹介で構想の会に参加し、知己を広げる。奥野健男の紹介で現代評論に参加し、6・12月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。
11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。
7月 - 『白い人』で第33回芥川賞を受賞。
9月 - 岡田幸三郎の長女、順子と結婚。父の家で短期間同居の後、世田谷松原に転居。
6月 - 長男龍之介誕生。上智大学文学部の講師を務める。
10月 - アジア・アフリカ作家会議に参加。
12月 - 『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞。
11月 - マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。
4月 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。年末に慶應義塾大学病院に転院。
1月 - 3回にわたり肺の手術を行なう。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。
- 5月、退院。
3月 - 町田市玉川学園に転居。新居を「狐狸庵」と名付け、以降「狐狸庵山人」という雅号を使い始める。
- 新潮社の書き下ろし小説『沈黙』制作のための下調べ/取材で、三浦朱門とともに長崎・平戸を数回旅行。
3月 - 『沈黙』を刊行。
成城大学の講師を務める( - 1969年)
5月 - 劇団雲で戯曲『黄金の国』(演出:芥川比呂志)初演。
10月、『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞を受賞。
8月、ポルトガル大使アルマンド・マルチンスの招待を受け、アウブフェーラで行われた聖ヴィンセントの300年祭で記念講演。その後、リスボンパリローマを廻り、9月に帰国。
- 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。
4月 - 劇団「樹座」を立ち上げ、紀伊國屋ホールウィリアム・シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を上演。
1月 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、イスラエルに旅行し、2月に帰国。
4月 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。
4月 - 矢代静一阪田寛夫井上洋治とともにイスラエルに旅行し、5月に帰国。
11月 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。その後、ベナレスイスタンブルストックホルムパリを廻り、同月帰国。ローマ法皇庁からシルベストリー勲章を受ける。
3月 - ローマ法王謁見のため、三浦朱門曽野綾子とともにローマを旅行。その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。
10月 - 日本文芸家協会常任理事に就任。遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。この年には『海と毒薬』がイギリスで、『沈黙』がオランダスウェーデンスペインノルウェーフランスポーランドで翻訳出版された。
3月 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドンパリミラノスペインアンダルシア州)を廻り、4月に帰国。
5月 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。
10月 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。
- 2月、北杜夫阿川弘之とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。
1月 - 面白半分の編集長に就任( - 6月)。
6月 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材で大韓民国へ旅行し、豊浦釜山熊川慶州蔚山を廻り、同月帰国。9月にはジャパン・ソサエティの招待を受け、アメリカに旅行。ニューヨークで講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。
12月 - ピエトゥシャック賞を受賞。授賞式参加のため、ポーランドワルシャワに旅行、その後アウシュヴィッツを見学し、同月に帰国。
1月 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。
5月 - 兄死去。
6月 - 『イエスの生涯』で国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。
2月 - 『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞を受賞。『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。
3月 - 中華人民共和国に旅行。46年ぶりに幼少時代の想い出の地大連を訪れる。同月帰国。
4月 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。日本芸術院賞を受賞。
5月 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。『侍』で第33回野間文芸賞を受賞。
4月 - イギリススウェーデンフィンランドを旅行し、同月に帰国。ロンドンのホテルでグレアム・グリーンと鉢合わせし、文学論を交わした。
6月 - 日本ペンクラブ第10代会長に就任( - 1989年)。サンタクララ大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、カリフォルニア大学ジャック=マリタン・アンド・トーマス=モア研究所で講演を行ない、同月に帰国。
2月 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。劇団「樹座」のロンドン公演。ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。
11月 - 台湾輔仁大学の招待を受け、台湾に旅行。「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。
5月 - ジョージタウン大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行し、同月帰国。
10月 - 韓国文化院の招待を受け、大韓民国に旅行し、同月帰国。尹興吉との知遇を得る。
4月 - 夫人を同伴してロンドンに旅行し、同月帰国。
8月 - 国際ペンクラブのソウル大会出席のため、大韓民国に旅行し、翌月帰国。文化功労者に選出される。
12月 - 父常久死去。
2月 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。
7月 - 仕事場を上大崎に移す。
10月 - アメリカのキャンピオン賞を受賞。
1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。
5月 - ジョン・キャロル大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、マーティン・スコセッシと『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。
12月 - 輔仁大学の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。
5月 - 腹膜透析の手術を行う。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。以後、入退院を繰り返すことになる。
9月 - 脳内出血で順天堂大学病院に入院。
11月 - 文化勲章受章。
12月 - 退院。
4月 - 腎臓病治療のため、慶應義塾大学病院に入院。
9月29日 - 午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。

家族・親族

遠藤家

鳥取県東京都
家系
  • 初代・元衛(元哲)
遠藤家は代々東分知家の御医師で、初代を元衛(元哲)といい、鳥取の町医師であった[9]宝暦14年(1764年)3月四代池田澄延に召抱えられ、名も元哲と改めた[10]明和3年(1766年)侍医となり四人扶持を受けた[10]。続いて五代池田延俊の侍医となり、明和9年(1772年)に詰江戸を命ぜられ、二十俵支配と詰高五俵の二十五俵の加増を受けた[10]
  • 二代目・玄益
元哲に医師とする男子なく、藩医真嶋三随である玄益を養子とした[10]安永4年(1775年)6月病没した[10]。玄益は養子のため、三人扶持を受けて家督相続し、天明8年(1788年)より藩邸や城中勤務をした[10]。勤務良好とあって翌寛政元年(1789年)には四人扶持となっている[10]。そして御近習医師に昇格し、詰江戸を命ぜられ寛政6年まで江戸三田邸に勤務した[10]。その後も度々江戸詰を命ぜられ五人扶持二十五俵の加増となり、寛政12年3月から七代池田仲雅の御匕代役をした。享和2年に諸役から退き文化7年(1810年)正月に病没した[10]
  • 三代目・玄里
三代玄里は玄益の実子で四人扶持を継いだ。文政2年(1819年)より藩邸、城中勤務をし、江戸詰も度々命ぜられている[10]安政2年同じ東分知家医師であった石原玄碩長男の隼見を養子とした[10]。玄里は翌安政3年(1856年)9月病没した[10]
  • 四代目・玄益
四代玄益は父玄碩や本藩の藩医大島秀洞(本道、二〇〇石)に学んでおり、医術もよくできた[10]。養子のため四人扶持十九俵を受けたが、翌年より城中勤務となり、安政6年には九代池田仲立の御匕役[11]を勤めた[10]
玄益に子供がなく慶応2年(1866年)6月中村鼎斎の門人で、邑美郡田島村の岡田新左衛門の子である岡田謙三を養子に入れた[10]明治元年(1868年)よりその謙三に代番勤めをさせている[10]。しかし明治2年(1869年)より再び藩に勤務している[10]維新後の経歴は明らかでないが、河村郡下浅津村で開業していた[10]。そして医業のかたわら創立して間もない浅津学校の訓導校長を勤めた[12]明治13年(1880年)に没した[12]
  • 謙三の子たち
謙三の子に又蔵、河津三、隼見の三子がいた[12]。又蔵は医師とならず東大理学部を卒業して早稲田の数学の教師となり、三男隼見は、東大経済学部を卒業して三菱商事に勤務した[12]
  • 謙三の二男河津三
二男河津三は、岡山の三高医学部を卒業して東京に出て済生学舎で修行し明治33年(1900年開業試験に合格した[12]。一時横浜十全病院に勤めたのち明治35年(1902年)下浅津村に帰り、父の跡をついで医業をした[12]。医業は多忙を極め、その上、需められ東郷池の向う花見村長和田に出張診療所を設けて日夜診療に明け暮れたという[12]。河津三は郡医師会理事もつとめ、戦時中は満州開拓団の医師として2年ばかり夫婦で渡満し、帰国後再び浅津、長和田地区の診療をした[12]昭和24年(1949年)2月病没した[12]
家庭
養子常久は医師とならず東大法学部を卒業して安田銀行に勤務した[12]
  • 義母 秀子 - 父親の再婚相手。
  • 正介
東京大学法学部卒、電電公社総務理事。
東洋英和女学院、慶應義塾大学仏文科卒業。遠藤周作の死後、思い出を語った作品を数作残している。
芥川賞受賞にちなんで龍之介と命名。父周作は「大学受験は、なんの役にも立たない[13]。そんなものに貴重な青春時代を浪費するのは愚の骨頂だ[13]」といって、龍之介には大学受験を勧めなかったという[13]フジテレビジョンに入社し、現在専務[13]。父周作との子どものころの約束は3つあり「うそをつかない。ともだちを裏切らない。弱い人間を馬鹿にしない」だった。また会話は、敬語を用い、周作からは含みを残す言い回しや比喩を用いた表現を常としたとの回想がある。

作品一覧

日本

書籍

  • フランスの大学生(1953年7月、早川書房)
  • カトリック作家の問題(1954年7月、早川書房)
  • 堀辰雄(1955年11月、一古堂)
  • 白い人・黄色い人(1955年12月、講談社)
  • 神と悪魔(1956年11月、現代文芸社)
  • 青い小さな葡萄(1956年12月、新潮社)
  • タカシのフランス一周(1957年10月、白水社)
  • 恋することと愛すること(1957年10月、実業之日本社)
  • 月光のドミナ(1958年3月、東京創元社)
  • 海と毒薬(1958年4月、文藝春秋新社)
  • 恋愛論ノート(1958年8月、東都書房)
  • 恋の絵本(1959年6月、平凡出版)
  • おバカさん(1959年10月、中央公論社)
  • 蜘蛛 周作恐怖譚(1959年11月、新潮社)
  • 若い日の恋愛ノート(1960年5月、青春出版社)
  • 新鋭文学叢書6 遠藤周作集(1960年8月、筑摩書房)
  • 火山(1960年9月、文藝春秋新社)
  • あまりに碧い空(1960年10月、新潮社)
  • 聖書のなかの女性たち(1960年12月、角川書店)
  • ヘチマくん(1961年5月、新潮社)
  • 昭和文学全集20 安岡章太郎・遠藤周作(1962年9月、角川書店)
  • 長編小説全集33 遠藤周作集(1962年9月、講談社)
  • 結婚(1962年10月、講談社)
  • 宗教と文学(1963年7月、南北社)
  • わたしが・棄てた・女(1964年3月、文藝春秋新社)
  • 新日本文学全集9 遠藤周作・小島信夫集(1964年3月、集英社)
  • 浮世風呂(1964年6月、講談社)
  • 一・二・三!(1964年10月、中央公論社)
  • 偽作(1964年12月、東方社)
  • 留学(1965年6月、文藝春秋新社)
  • 狐狸庵閑話(1965年7月、桃源社)
  • 哀話(1965年10月、講談社)
  • 沈黙(1966年3月、新潮社)
  • 金と銀(1966年5月、佼成出版社)
  • 現代の文学37 遠藤周作集(1966年5月、河出書房新社)
  • 楽天主義のすすめ(1966年7月、青春出版社)
  • 協奏曲(1966年10月、講談社)
  • さらば、夏の光よ(1966年11月、桃源社)
  • 闇のよぶ声(1966年12月、光文社)
  • われらの文学10 福永武彦・遠藤周作(1967年1月、講談社)
  • 遠藤周作のまごころ問答(1967年1月、コダマプレス)
  • ぐうたら生活入門(1967年5月、未央書房)
  • キリシタン時代の知識人-背教と殉教(1967年5月、日本経済新聞社)
  • 現代の快人物-狐狸庵閑話巻之弐(1967年5月、桃源社)
  • どっこいショ(1967年8月、講談社)
  • 私の影法師(1967年10月、桂書房)
  • 古今百馬鹿-狐狸庵閑話巻之参(1967年12月、桃源社)
  • 現代文学大系61 堀田善衛・阿川弘之・遠藤周作・大江健三郎集(1968年3月、筑摩書房)
  • 日本短篇文学全集21 有島武郎・椎名麟三・遠藤周作(1968年9月、筑摩書房)
  • 影法師(1968年11月、新潮社)
  • 周作口談(1968年11月、朝日新聞社)
  • 新潮日本文学56 遠藤周作集(1969年2月、新潮社)
  • 現代文学の実験室3 遠藤周作集(1969年4月、大光社)
  • それ行け狐狸庵(1969年7月、文藝春秋)
  • 遠藤周作ユーモア小説集(1969年8月、講談社)
  • 大変だァ(1969年8月、新潮社)
  • 日本の文学72 中村真一郎・福永武彦・遠藤周作集(1969年8月、中央公論社)
  • 薔薇の館・黄金の国(1969年9月、新潮社)
  • 楽天大将(1969年12月、講談社)
  • 遠藤周作怪奇小説集(1970年2月、講談社)
  • 愛情論-幸福の手帖(1970年4月、虎見書房)
  • 遠藤周作の本(1970年5月、KKベストセラーズ)
  • 狐狸庵閑話(1970年5月、講談社)
  • 石の声(1970年12月、冬樹社)
  • 切支丹の里(1971年1月、人文書院)
  • カラー版日本文学全集51 安岡章太郎・吉行淳之介・遠藤周作集(1971年1月、河出書房新社)
  • 現代日本の文学45 安岡章太郎・遠藤周作集(1971年3月、学習研究社)
  • 母なるもの(1971年5月、新潮社)
  • 黒ん坊(1971年5月、毎日新聞社)
  • 現代の文学20 遠藤周作(1971年9月、講談社)
  • 埋もれた古城(1971年10月、新潮社)
  • 遠藤周作シナリオ集(1971年11月、講談社)
  • ただいま浪人(1972年3月、講談社)
  • 狐狸庵雑記帳(1972年3月、毎日新聞社)
  • 現代日本文学大系87 堀田善衛・遠藤周作・井上光晴集(1972年7月、筑摩書房)
  • ぐうたら人間学(1972年10月、講談社)
  • 牧歌(1972年11月、番町書房)
  • 狐狸庵型(1973年1月、番町書房)
  • ぐうたら交遊録(1973年1月、講談社) - 「周作口談」の改題
  • 灯のうるむ頃(1973年2月、講談社)
  • ぐうたら愛情学(1973年4月、講談社)
  • 死海のほとり(1973年6月、新潮社)
  • メナム河の日本人(1973年9月、新潮社)
  • ぐうたら会話集(1973年9月、角川書店)
  • イエスの生涯(1973年10月、新潮社)
  • 遠藤周作第二ユーモア小説集(1973年11月、講談社)
  • ぐうたら怠談(1973年12月、毎日新聞社)
  • ぐうたら好奇学(1974年1月、講談社)
  • ピエロの歌(1974年1月、新潮社)
  • 周作快談(1974年4月、毎日新聞社)
  • 狐狸庵 vs マンボウ(1974年5月、講談社) - 共著:北杜夫
  • 遠藤周作文庫〈全51冊〉(1974年7月 - 、講談社)
  • 口笛をふく時(1974年8月、講談社)
  • うちの女房、うちの息子(1974年9月、講談社)
  • 喜劇 新四谷怪談(1974年10月、新潮社)
  • 最後の殉教者(1974年10月、講談社)
  • 恋愛作法(1974年12月、いんなあとりっぷ社)
  • 日本人を語る(1974年12月、小学館)
  • 遠藤周作文学全集〈全11巻〉(1975年2月 - 12月、新潮社)
  • 君たちの悩みにまじめにお答えします(1975年3月、集英社)
  • 彼の生き方(1975年3月、新潮社)
  • この人たちの考え方(1975年4月、読売新聞社)
  • 怠談(1975年4月、番町書房)
  • 身上相談(1975年4月、毎日新聞社)
  • ぼくたちの洋行(1975年5月、講談社)
  • 吾が顔を見る能はじ(1975年6月、北洋社)
  • 観客席から(1975年6月、番町書房)
  • 続・日本人を語る(1975年7月、小学館)
  • 遠藤周作ミステリー小説集(1975年8月、講談社)
  • 狐狸庵 vs マンボウ PART II(1975年11月、講談社) - 共著:北杜夫
  • ボクは好奇心のかたまり(1976年4月、新潮社)
  • 筑摩現代文学大系79 阿川弘之・遠藤周作集(1976年4月、筑摩書房)
  • 勇気ある言葉(1976年4月、毎日新聞社)
  • 私のイエス-日本人のための聖書入門(1976年7月、祥伝社)
  • 砂の城(1976年9月、主婦の友社)
  • 悲しみの歌(1977年1月、新潮社)
  • 鉄の首枷-小西行長伝(1977年4月、中央公論社)
  • 走馬燈-その人たちの人生(1977年5月、毎日新聞社)
  • 旅は道づれ世は情け(1977年6月、番町書房)
  • 自選「作家の旅」(1977年8月、山と渓谷社)
  • 日本人はキリスト教を信じられるか(1977年8月、講談社)
  • 愛情セミナー(1977年8月、集英社)
  • ウスバかげろう日記(1978年4月、文藝春秋)
  • 人間のなかのX(1978年7月、中央公論社)
  • 新潮現代文学41 『沈黙・イエスの生涯』(1978年9月、新潮社)
  • キリストの誕生(1978年9月、新潮社)
  • ぐうたら会話集・第2集 (1978年10月、角川書店)
  • 王妃 マリー・アントワネット 1・2・3(1979年3月・11月・1980年9月、朝日新聞社)
  • 銃と十字架(1979年4月、中央公論社)
  • 十一の色硝子(1979年5月、新潮社)
  • 異邦人の立場から(1979年6月、日本書籍)
  • 周作怠談・12の招待状(1979年9月、主婦の友社)
  • お茶を飲みながら(1979年10月、小学館)
  • ぐうたら社会学(1979年10月、集英社)
  • 結婚論(1980年2月、主婦の友社)
  • 天使(1980年3月、角川書店)
  • (1980年4月、新潮社)
  • ぐうたら会話集・第3集(1980年4月、角川書店)
  • 狐狸庵二十面相(1980年7月、文藝春秋)
  • 父親〈上・下〉(1980年7月、講談社)
  • かくれ切支丹(1980年8月、角川書店)
  • 作家の日記(1980年9月、作品社)
  • 遠藤周作による遠藤周作(1980年10月、青銅社)
  • 真昼の悪魔(1980年12月、新潮社)
  • 狐狸庵うちあけ話(1981年1月、集英社)
  • 愛と人生をめぐる断層(1981年1月、文化出版局)
  • 王国への道-山田長政(1981年4月、平凡社)
  • 名画・イエス巡礼(1981年12月、文藝春秋)
  • 僕のコーヒーブレイク(1981年12月、主婦の友社)
  • 女の一生〈第一部・キクの場合〉(1982年1月、朝日新聞社)
  • 女の一生〈第二部・サチ子の場合〉(1982年3月、朝日新聞社)
  • 足のむくまま 気のむくまま(1982年5月、文藝春秋)
  • 自分をどう愛するか〈生活編〉(1982年9月、青春出版社)
  • 冬の優しさ(1982年11月、文化出版局)
  • あべこべ人間(1982年11月、集英社)
  • 遠藤周作と考える-幸福、人生、宗教について(1982年12月、PHP研究所)
  • 悪霊の午後(1983年4月、講談社)
  • 私にとって神とは(1983年6月、光文社)
  • よく学び、よく遊び(1983年8月、小学館)
  • イエス・キリスト(1983年11月、新潮社) - 『イエスの生涯』『キリストの誕生』の合本
  • イエスに邂った女たち (1983年11月、講談社)
  • 自分づくり-自分をどう愛するか〈生き方編〉(1984年1月、青春出版社)
  • 生きる学校(1984年9月、文藝春秋)
  • 快人探検(1984年11月、青人社)
  • 私の愛した小説(1985年7月、新潮社)
  • 何でもない話(1985年8月、講談社)
  • ほんとうの私を求めて(1985年10月、海竜社)
  • 宿敵〈上・下〉(1985年12月、角川書店)
  • 狐狸庵が教える「対話術」(1985年12月、光文社)
  • 心の夜想曲(1986年2月、文藝春秋)
  • ひとりを愛し続ける本(1986年3月、青春出版社)
  • スキャンダル(1986年3月、新潮社)
  • 風の肉声(1986年3月、大和出版)
  • 狐狸庵が教える「対談学」(1986年3月、光文社)
  • 私が見つけた名治療家32人(1986年4月、祥伝社)
  • 遠藤周作のあたたかな医療を考える(1986年4月、読売出版社)
  • あなたの中の秘密のあなた(1986年4月、ハーレクイン・エンタープライズ支社)
  • 男感覚女感覚の知り方(1986年11月、青春出版社)
  • わが恋う人は(1987年2月、講談社)
  • 死について考える-この世界から次の世界へ(1987年2月、光文社)
  • 新 ぐうたら怠談(1987年3月、光文社)
  • ピアノ協奏曲二十一番(1987年5月、文藝春秋)
  • 眠れぬ夜に読む本(1987年8月、光文社)
  • あまのじゃく人間へ(1987年9月、青春出版社)
  • 妖女のごとく(1987年12月、講談社)
  • 遠藤周作と語る-日本人とキリスト教(1988年2月、女子パウロ会)
  • こころの不思議、神の領域(1988年7月、PHP研究所)
  • ファーストレディ〈上・下〉(1988年8月、新潮社)
  • その夜のコニヤック(1988年8月、文藝春秋)
  • “逆さま流”人間学(1989年3月、青春出版社)
  • 春は馬車に乗って(1989年4月、文藝春秋)
  • こんな治療法もある(1989年5月、講談社)
  • 反逆〈上・下〉(1989年7月、講談社)
  • 落第坊主の履歴書(1989年12月、日本経済新聞社)
  • 変るものと変らぬもの(1990年7月、文藝春秋)
  • 心の海を探る(1990年9月、プレジデント社)
  • 考えすぎ人間(1990年10月、青春出版社)
  • 生き上手 死に上手(1991年3月、海竜社)
  • 決戦の時〈上・下〉(1991年5月、講談社)
  • 男の一生〈上・下〉(1991年10月、日本経済新聞社)
  • 人生の同伴者(1991年11月、春秋社)
  • 狐狸庵対談 快女・快男・怪話(1991年11月、文藝春秋)
  • 心の砂時計(1992年2月、文藝春秋)
  • 王の挽歌〈上・下〉(1992年5月、新潮社)
  • 対論 たかが信長 されど信長(1992年6月、文藝春秋)
  • 異国の友人たちに(1992年8月、読売新聞社)
  • 狐狸庵歴史の夜話(1992年11月、牧羊社)
  • 万華鏡(1993年4月、朝日新聞社)
  • 深い河(1993年6月、講談社)
  • 遠藤周作編 キリスト教ハンドブック(1993年7月、三省堂)
  • 心の航海図(1994年2月、文藝春秋)
  • 狐狸庵閑談(1994年9月、読売新聞社)
  • 「遠藤周作」とShusaku Endo(1994年11月、春秋社)
  • 「深い河」をさぐる(1994年12月、文藝春秋)
  • 女(1995年5月、講談社)
  • 戦国夜話(1996年6月、小学館)
  • 風の十字路(1996年7月、小学館)
  • 遠藤周作歴史小説集〈全7巻〉(1996年7月、講談社)
  • なつかしき人々 1・2(1996年10月・11月、小学館)
  • 生きる勇気が湧いてくる本(1996年11月、騎虎書房)
  • 最後の花時計(1997年1月、文藝春秋)
  • 無鹿(1997年5月、文藝春秋)
  • 好奇心は永遠なり(1997年8月、講談社)
  • 「深い河」創作日記(1997年9月、講談社)
  • 夫婦の一日(1997年9月、新潮社)
  • 心のふるさと(1997年11月、文藝春秋)
  • 信じる勇気が湧いてくる本(1998年2月、祥伝社)
  • 遠藤周作文学全集〈全15巻〉(1999年4月 - 2000年7月、新潮社)

講演

欧米

※便宜上、タイトルは英語に統一。当然ながら国ごとにタイトルは違うはず。

  • 海と毒薬 The Sea and Poison(1972年、イギリス)
  • 沈黙 Silence(1972年、オランダ・スウェーデン・スペイン・ノルウェー・フランス・ポーランド)
  • おバカさん Wonderful Fool(1974年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • イエスの生涯 A Life of Jesus(1978年、イタリア、クエリニアナ出版社)
  • 火山 Volcano(1978年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • わたしが・棄てた・女 The Girl I Left Behind(1978年、ポーランド、パックス出版社)
  • 口笛をふく時 When I Whistle(1979年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • イエスの生涯 A Life of Jesus(1979年、アメリカ、ポーリスト出版社)
  • The Samurai(1982年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • 十一の色硝子 Stained Glass Elegies(1984年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • スキャンダル Scandal(1988年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • 留学 Foreign Studies(1989年、イギリス、Peter Owen Publishers)
  • 深い河 Deep River

その他の活動

主な出演

テレビ番組
CM
映画

未発表作品

2010年4月25日、未完成の中編小説が書かれたノートが長崎市の遠藤周作文学館で発見されたことが報じられた[14]

関連人物

  • ジョルジュ・ネラン - ガストン・ボナパルト(『おバカさん』、『悲しみの歌』、『深い河』に登場する人物)のモデルとなった神父
  • 廣石廉二 - 遠藤周作研究者
  • 阿川弘之 - 旧知の仲で、よくエッセイの中で、登場し「瞬間湯沸かし器」と遠藤は評している。
  • 北杜夫 - 旧知の仲で、共著を2冊出している。
  • 三浦朱門
  • 安岡章太郎 - 学生時代以来の親友で、遠藤の影響でカトリックへ入信。
  • 吉行淳之介
  • 加賀乙彦
  • 篠田正浩
  • さくらももこ - 生前、遠藤周作と会食をした際、散々からかわれたと著書で述べている。
  • 瀬戸内寂聴
  • 堀辰雄
  • 原民喜
  • 佐藤愛子
  • 柴田錬三郎 - 先輩作家で、遠縁に当たる。遠藤は彼の家に居候していたこともあるほか「君(遠藤)が黒ミサで生まれた子にしろと言ったから眠狂四郎の設定が決まった」(柴田が雑誌で遠藤と対談した際の発言)という。
  • 梅崎春生 - 戦後間もない、学生時代に「ランボォ」という店で初めて会ったらしい。互いにいたずらの腕を競い合った。梅崎春生の死後、色んな思い出話をエッセーで遠藤は語っている。
  • 山口トキコ - テレビ、ラジオでも活躍中の女医。彼女の学生時代、遠藤の「トキちゃん肛門科医になったらどうだい?」の言葉に大きな感銘を受ける。
  • 橋本武 - 灘中学校時代の国語教師。「週刊読売」1974年4月6日号にて遠藤と対談。(対談は『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』(日本実業出版社 2012年)p.201-214に再録されている)

注釈

  1. ^ 遠藤周作氏のルーツ(鳥取県/広報湯梨浜/本の広場)
  2. ^ 加藤宗哉『遠藤周作』(慶應義塾大学出版会2006年
  3. ^ 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。
  4. ^ 余談だが、この試験の際に採用されたのが鈴木清順である。
  5. ^ 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた血書や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という脅迫状、果てには日本刀が送り付けられた。
  6. ^ a b c d e 『遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』(2000年、文春文庫)から引用。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "junko_talk"が異なる内容で複数回定義されています
  7. ^ 1953年死去、当時はまだ土葬だった
  8. ^ さくらももこ『さるのこしかけ』(集英社、1992年)25-30頁。
  9. ^ 医師森納によれば「医師の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、藩医・町医師・在医師の区別があった。藩医は、によって召し抱えられた医師である。それに準ずる身分として鳥取藩の場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。藩医・陪臣医は俗に“御典医”と呼ばれ、武士身分の処遇をうけた。町医師は、鳥取城下・米子倉吉等の町で町奉行支配を受けた町民医師である。藩医には御医師、無足医師の区別があった。御医師は詰を命ぜられた医師である。藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。次に、士分格医師の初級の者が無足医師である。町医師から抜擢されてに召し抱えられ士分取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった(森納著『因伯洋学史話』15-16頁)」
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 森納著『続 因伯の医師たち』98頁
  11. ^ 医師森納によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、内科の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。御匕役は大体2人か3人で、藩主の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった(森納『因伯洋学史話』17頁)」
  12. ^ a b c d e f g h i j 森納著『続 因伯の医師たち』99頁
  13. ^ a b c d 「高卒社長が誕生の可能性も!?」フジテレビ“次期社長レース”の行方、日刊サイゾー、2012年6月11日
  14. ^ Yahoo!ニュース 遠藤周作の未発表中編見つかる=「サディズム」テーマに58年執筆 2010年4月25日6時40分掲載 2014年6月21日閲覧

参考文献

  • 中村真一郎ほか『遠藤周作の世界』(1997年9月、朝日新聞社)
  • 『遠藤周作のすべて』(文藝春秋、1998年)
  • 遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』(1997年9月、文藝春秋)=>(2000年、文春文庫)
  • 加藤宗哉『遠藤周作』(2006年10月、慶應義塾大学出版会)
  • 橋本武『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』(2012年2月、日本実業出版社)ISBN 9784534049124

関連項目

外部リンク