「上杉房実」の版間の差分

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'''上杉 房実'''(うえすぎ ふさざね、[[嘉吉]]3年([[1443年]]) - [[永正]]5年([[1508年]])?)は、[[室町時代]]の人物。名は'''上条房実'''ともいう。[[上杉氏]]一族で[[上杉氏#越後守護上杉家|越後上杉家]]の分家である[[上条上杉家]]出身。[[上杉清方]]の子で、[[上杉房定|房定]]の弟。[[正室]]は[[山吉久盛]]の娘。[[上杉定実]](後に[[越後国|越後]][[守護]])、[[上条定明]]、[[積翠院]]([[伊達尚宗]]室)、[[上条定憲]]らの父(但し、定憲は孫であるともされる)。官位は[[淡路国|淡路]][[国司|守]]。
'''上杉 房実'''(うえすぎ ふさざね、[[嘉吉]]3年([[1443年]]){{要出典|date=2014年7月}} - [[永正]]5年([[1508年]]){{要出典|date=2014年7月}}?)は、[[室町時代]]の武将、[[連歌]]作者。名は'''上条房実'''ともいう。[[上杉氏]]一族で[[上杉氏#越後守護上杉家|越後上杉家]]の分家である[[上条上杉家]]出身。[[上杉清方]]の子で、[[上杉房定|房定]]の弟。[[上杉定実]](後に[[越後国|越後]][[守護]]、但し定実の実父については異説あり)、[[上条定明]]、[[積翠院]]([[伊達尚宗]]室)、[[上条定憲]]らの父(但し、定憲は孫であるともされる)。官位は[[淡路国|淡路]][[国司|守]]。号は蓮器、朝日寺。法号玄澄


「天文長尾上杉系図」では刈羽郡上条の地を治める上条上杉家を継いだとされるが確証はない<ref>明応5年([[1496年]])閏2月に発給された[[足利義稙]][[御内書]]の宛名に「上杉播磨入道」とあり、[[長禄]]4年([[1460年]])、上杉房定の注進により[[足利義政]]から戦功を褒賞された「上杉播磨守」と同一人物と推定されている。その[[官途]]から享禄・天文期の上条家当主[[上条定憲]]の近親者と思われ、[[家永遵嗣]]は明応3年([[1494年]])の房定の死去後、長享2年([[1488年]])に[[元服]]したばかりの若き守護[[上杉房能]]を[[長尾能景]]とともに補佐した人物としている(家永遵嗣「明応二年の政変と北条早雲の人脈」『成城大学短期大学部紀要』27、1996年)。家永はこの「上杉播磨入道」を房実に比定しているが、森田真一や[[黒田基樹]]は「浅羽本上杉系図」で房実の長兄とされている上杉定顕に比定し、上条家の家督は定顕が継いだとしている(森田真一「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」『新潟史学』第46号、2001年・「戦国の動乱」『笹神村史 通史編』中世第四章、笹神村、2004年)黒田基樹「上杉清方の基礎的研究」(黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』、戒光祥出版、2013年)。一方『上越市史 通史編2 中世』では系図類に見える定顕の官途は兵庫介、兵庫頭であり、上条上杉氏には系図に見られない人物が多いことも含め、検討の余地があるとしている。</ref>。
[[文安]]3年([[1446年]])、父が謎の死を遂げた後、兄の房定が上条上杉氏を継いだ。しかし[[宝徳]]元年([[1449年]])に従兄の越後守護[[上杉房朝]]が急死したために房定がその後継となり、代わりに房実が上条上杉氏を継ぎ、[[上条城 (越後国)|上条城]]を中心に刈羽郡上条の地を治めた。
[[室町幕府|幕府]]の信頼厚く、東国の要として活躍した房定の守護時代には[[京都|京]]より多くの文化人や[[公家]]たちが越後を訪れ、越後の文化は多いに発展した。房実も連歌を嗜み、[[長享]]2年([[1488年]])越後を訪れた[[万里集九]]を迎えて詩歌の会を催している。[[明応]]4年([[1495年]])に成立した[[新撰菟玖波集]]には玄澄法師の名で6句入集している<ref>『新撰莵玖波集作者部類』</ref>。

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*『国書人名辞典 第2巻』[[岩波書店]]、[[1995年]]
*『上越市史 通史編2 中世』[[上越市]]、[[2004年]]
*『新潟県史 通史編2 中世』[[新潟県]]、[[1987年]]


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2014年7月22日 (火) 01:35時点における版

上杉 房実(うえすぎ ふさざね、嘉吉3年(1443年[要出典] - 永正5年(1508年[要出典]?)は、室町時代の武将、連歌作者。名は上条房実ともいう。上杉氏一族で越後上杉家の分家である上条上杉家出身。上杉清方の子で、房定の弟。上杉定実(後に越後守護、但し定実の実父については異説あり)、上条定明積翠院伊達尚宗室)、上条定憲らの父(但し、定憲は孫であるともされる)。官位は淡路。号は蓮器、朝日寺。法号玄澄。

「天文長尾上杉系図」では刈羽郡上条の地を治める上条上杉家を継いだとされるが確証はない[1]幕府の信頼厚く、東国の要として活躍した房定の守護時代にはより多くの文化人や公家たちが越後を訪れ、越後の文化は多いに発展した。房実も連歌を嗜み、長享2年(1488年)越後を訪れた万里集九を迎えて詩歌の会を催している。明応4年(1495年)に成立した新撰菟玖波集には玄澄法師の名で6句入集している[2]

脚注

  1. ^ 明応5年(1496年)閏2月に発給された足利義稙御内書の宛名に「上杉播磨入道」とあり、長禄4年(1460年)、上杉房定の注進により足利義政から戦功を褒賞された「上杉播磨守」と同一人物と推定されている。その官途から享禄・天文期の上条家当主上条定憲の近親者と思われ、家永遵嗣は明応3年(1494年)の房定の死去後、長享2年(1488年)に元服したばかりの若き守護上杉房能長尾能景とともに補佐した人物としている(家永遵嗣「明応二年の政変と北条早雲の人脈」『成城大学短期大学部紀要』27、1996年)。家永はこの「上杉播磨入道」を房実に比定しているが、森田真一や黒田基樹は「浅羽本上杉系図」で房実の長兄とされている上杉定顕に比定し、上条家の家督は定顕が継いだとしている(森田真一「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」『新潟史学』第46号、2001年・「戦国の動乱」『笹神村史 通史編』中世第四章、笹神村、2004年)黒田基樹「上杉清方の基礎的研究」(黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』、戒光祥出版、2013年)。一方『上越市史 通史編2 中世』では系図類に見える定顕の官途は兵庫介、兵庫頭であり、上条上杉氏には系図に見られない人物が多いことも含め、検討の余地があるとしている。
  2. ^ 『新撰莵玖波集作者部類』

参考文献