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=== スペインからの最初の独立 ===
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2014年5月29日 (木) 14:13時点における版

パナマ共和国
República de Panamá
パナマの国旗 パナマの国章
国旗 国章
国の標語:Pro Mundi Beneficio
(ラテン語: 世界の福利のために)
国歌地峡賛歌
パナマの位置
公用語 スペイン語
首都 パナマ市
最大の都市 パナマ市
政府
大統領 リカルド・マルティネリ
首相 なし
面積
総計 75,416km2118位
水面積率 2.8%
人口
総計(2008年 3,454,000人(130位
人口密度 38人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 230億[1]バルボア(B./)
GDP(MER
合計(2008年230億[1]ドル(89位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2008年386億[1]ドル(106位
1人あたり 11,343[1]ドル
独立
 - 日付
スペインより
1821年11月28日 コロンビアより
1903年11月3日
通貨 バルボア(B./)(PAB
時間帯 UTC-5 (DST:なし)
ISO 3166-1 PA / PAN
ccTLD .pa
国際電話番号 507

パナマ共和国(パナマきょうわこく)、通称パナマは、北アメリカ大陸南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家である。北西にコスタリカと、南東にコロンビアに接し、北はカリブ海に、南は太平洋に面する。首都はパナマ市

南北アメリカと太平洋、大西洋の結節点に当たる地理的重要性から、スペイン人の到達以来貿易や人の移動や国際政治において大きな役割を果たす場所となっており、その役割の重要性のため、中米地峡を貫くパナマ運河が通っている。

国名

正式名称は、República de Panamá(スペイン語: レプブリカ・デ・パナマ)。通称はPanamá

公式の英語名は Republic of Panama (リパブリック・オブ・パナマ)。通称は Panama。

日本語ではパナマ共和国と呼ぶ。通称パナマ。漢字では「巴奈馬」と表記される。

国名の由来はインディオ(インディヘナ)のクエバ人の言葉で、「魚が豊富」を意味する言葉から来ているとされている。

歴史

先コロンブス期

ヨーロッパ人の来航以前の現在のパナマの地には、主にチブチャ族をはじめとする人々が居住していた。

紀元前2900年から同1300年に刻線文が特徴のモナグリーヨ (Monagrillo) 土器を用いた人々が、主としてパナマ中央部、アスエロ半島北方のパリタ湾岸に貝塚、内陸では岩陰や洞窟で生活を営んでいたことが知られている。紀元前1000年頃にモナグリーヨ土器を伴う集落がなくなり、紀元前6世紀になると、ムラ・サリグアなどをはじめとする掘立柱建物を住居とした集落が点々と営まれるようになる。ムラ・サリグアの最盛期には、推計で人口は600人から700人近くに達し、集落の面積は58haまで発達した。しかし、紀元前後になっても祭祀センターとまで言える遺跡は確認できていない。

紀元3世紀から4世紀ごろの遺跡からは、木の実や穀物をすりつぶすマノ(すり石)とメタテ(すり皿)が発見されていることから、農耕が本格的に開始されていたと推測される。

A.D.500頃には、パリタ湾岸では製品で知られるコクレ (Cocle) 文化が興る。その起源についてはコロンビアからの影響か、独自の発展か決着をみていない。またコスタリカ東部に隣接する西部では、美術的にも評価の高い彩文土器や土偶で知られるチリキ(Chiriqui)文化が興る。

スペイン人が到来する直前にあたる16世紀初頭には、現在のパナマに相当する地域には20万人から200万人の人間が居住していたとされている[2]

スペイン植民地時代

「南の海」(太平洋)を探索するバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア

1501年ヨーロッパ人としてはじめてスペインの探検家ロドリーゴ・デ・バスティーダスがパナマを「発見」し、カリブ海ダリエン湾ポルト・ベーロに上陸した。翌1502年には、クリストーバル・コロン(コロンブス)がモスキートス湾沿岸を探検している。これ以降、自らがインドに到達したと誤解したコロンによってパナマに住んでいた人々はインディオインド人)と呼ばれるようになった。

1508年カスティーリャフェルナンド5世が、パナマをスペインの探検家ディエゴ・デ・ニクエサに与えた。その後、1513年バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア太平洋側に到達した(ヨーロッパ人による太平洋の「発見」)。翌1514年には総督としてペドラリアス・ダビラが派遣され、1519年にはパナマ市が建設された。パナマにも他のアメリカ大陸の植民地と同様にアフリカから黒人奴隷が連行され、インディオは疫病と奴隷労働によって大打撃を受けたが、パナマ市はイスパノアメリカ植民地の交通の要衝、スペイン人の居住都市として1671年1月28日にイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによる焼き討ちに遭うまで繁栄を極めた。

1530年代にバルボアの下で植民地経営の経験を積んだフランシスコ・ピサロは、パナマを拠点にインカを征服した。また、ペルー及び近隣植民地からスペイン本国への輸送ルートは、ほとんどがパナマを経由した。例えば、アルト・ペルー(現在のボリビア)のポトシ銀山のは海路で太平洋側のパナマ市まで輸送された後、陸路でカリブ海側のポルトベロまで運ばれ、そこから再び海路でスペインに送られた。スペインが16世紀初頭にパナマ周辺地域の支配権を確立した後、パナマはペルー副王領の一部となり、1718年に新たに創設されたヌエバ・グラナダ副王領に編入された。

16世紀から17世紀にかけて、フランシス・ドレークヘンリー・モーガンをはじめとする英国海賊がしばしば輸送拠点を襲撃し、搬送物を略奪した。

スペインからの最初の独立

解放者シモン・ボリーバル
フェルディナン・ド・レセップス

1808年に、フランス帝国ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフスペイン王ホセ1世に据えると、それに反発する民衆暴動が契機となり、スペイン独立戦争が勃発した。インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、独立のための戦いが始まった。ベネズエラカラカス出身の解放者シモン・ボリーバルは不屈の闘争の末に、1819年8月にボヤカの戦いに勝利してヌエバ・グラナダを解放すると、1821年にはカラボボの戦いに勝利し、ベネズエラの解放を不動のものにした。同年11月28日、パナマはスペインから独立し、自発的にボリーバルの主催するグラン・コロンビアの一部となった。1826年にはボリーバルの呼びかけで米州の相互防衛と将来的な統一を訴えるパナマ会議がパナマ市で開催されたが、この会議は失敗に終わり、ボリーバルの求心力も低下した。

1830年にボリーバルが失脚してベネズエラのホセ・アンオニオ・パエスがベネズエラ共和国のグラン・コロンビアから独立を宣言すると、それまで「南部地区」と呼ばれていたキトグアヤキルクエンカエクアドル共和国として独立を宣言したために、グラン・コロンビアは解体した。1831年に大コロンビア解体後に、ヌエバ・グラナダ共和国は建国され、パナマはその時にヌエバ・グラナダ共和国の一部として独立した。こうしてボリーバルの目指したラテンアメリカ統合の夢と共にグラン・コロンビアは崩壊した。

1846年アメリカ合衆国は、パナマにおけるヌエバ・グラナダ共和国(ほぼ現在のコロンビア共和国に相当)の主権を承認することでパナマ地峡の通行権を獲得した。アメリカ合衆国が米墨戦争メキシコから北半分の領土を手に入れ、1848年にカリフォルニアゴールド・ラッシュが始まった1840年代以降、アメリカ合衆国東部の人々はオレゴン、カリフォルニア等のアメリカ合衆国西岸への移住にパナマ地峡を利用し、交通の要衝としてのパナマの重要性は高まった。1848年にはアメリカ合衆国の会社が、パナマ・コロン地峡横断鉄道の敷設権を獲得した。1850年に着工したパナマ・コロン鉄道敷設工事は、1855年に完了した。

1855年にパナマはヌエバ・グラナダから自治権を獲得した。1863年グラナダ連合でリオ・ネグロ憲法が制定され、八州が独自の外交権を持つ分権的な連邦国家コロンビア合衆国が成立すると、パナマも連邦の一州として実質的な独立を達成したが、1866年に再びコロンビアによる直接支配が復活した。パナマではコロンビアに対する反乱が頻発するがいずれも失敗に終わった。

スエズ運河建設に携わったフランス人実業家レセップスは、コロンビアから運河建設権を買い取り、1881年から1889年までパナマ運河建設を進めたが、様々な問題発生により建設は中止された。この過程で運河建設のために各国から労働者が導入された。

1885年の自由党の反乱を鎮圧した保守党のラファエル・ヌニェスによって1886年にリオ・ネグロ憲法の放棄と新憲法が制定され、中央集権色の強いコロンビア共和国が成立した。こうして一時的に不安定なコロンビアにも保守党による支配権が確立したが、1894年にヌニェスが死去すると、1899年に自由党のカウディーリョだったラファエル・ウリベ・ウリベ将軍が蜂起し、千日戦争が勃発した。この内戦は1902年まで続き、およそ10万人の死者を出した。

一方、アメリカ海軍アルフレッド・マハンの海軍戦略の影響や、1898年米西戦争を契機に、アメリカ合衆国に太平洋と大西洋をつなぐ運河が中米に必要であるとの考えが浸透していた。1901年にマハンの教えを受けたセオドア・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領に就任すると、アメリカ合衆国は中米地峡に太平洋と大西洋をつなぐ運河の建設に臨んだ。アメリカ合衆国では、中米における運河建設計画としてニカラグア案とパナマ案が提示され、1902年、レセップスが設立した新パナマ運河会社から運河建設等の権利を買い取るパナマ案が議会で採決された(スプーナー法)。

コロンビアからの第二の独立

アメリカ合衆国はパナマ運河を建設することを千日戦争で疲弊したコロンビア共和国上院に拒否されたため、パナマの持ち得る経済効果、ならびにラテンアメリカ地域における軍事的重要性から分離・独立を画策した結果、1903年11月3日にパナマ地域はコロンビアから独立を果たした。初代大統領にはマヌエル・アマドールが就任したが、新たに制定された憲法ではパナマ運河地帯の幅16kmの主権を永遠にアメリカ合衆国に認めるとの規定があり、以降パナマはアメリカ合衆国によって事実上支配されることになった。運河地帯の主権を獲得したアメリカ合衆国によって運河建設は進められ、1914年にパナマ運河が開通した。

このように、パナマは独立当初から主権が極めて制限されていたが、パナマのナショナリズムの高まりに応じて1930年代頃からアメリカ合衆国も譲歩せざるを得なくなった。1927年から1933年まで続いたニカラグアでのサンディーノ戦争により、フランクリン・ルーズベルト大統領が善隣外交を導入したことは、その政治的な表現の一つである。親米派のエリートから主導権を奪って就任したアルモディオ・アリアス大統領は1936年にハル・アルファロ条約を締結し、パナマ運河将来的返還など、パナマの保護国としての地位からの脱出を図った。

1940年に就任したアルモディオの弟のアルヌルフォ・アリアス大統領はよりポプリスモ的であり、大統領権の強い1941年憲法を制定し、アメリカ合衆国との対立のために枢軸国との友好政策や、人種差別政策など親ファシズム的な政策を採ったが、この政策は合衆国の不興を買い、1941年にクーデターで失脚した。

後を継いだデ・ラ・グアルディア大統領は合衆国との友好関係を強化し、第二次世界大戦中には敵性外国人となった日本人ドイツ人イタリア人が追放され、土地は没収された。第二次世界大戦中にアントニオ・レモンによってそれまでの警察隊が国家警備隊に再編されて事実上の軍隊となり、以降のパナマの政治に大きな影響力を奮うようになった。

1952年に大統領に就任したレモンは対外的には親米政策を採る一方、国内では国家警備隊の暴力を背景にした力の政治を推進したが、1955年に暗殺された。

農民と写るオマール・トリホス将軍(右)。運河返還交渉によってアメリカ合衆国にパナマ運河の返還の承認を実現させた。

1960年には中間層の民衆の間でナショナリズムが高揚し、パナマ運河地帯返還要求を軸にした反米運動が盛んになった。1964年には運河地帯でのパナマ国旗の掲揚がアメリカ合衆国人に拒否されたことをきっかけに暴動を起こしたパナマ人学生が、アメリカ軍によって射殺された国旗事件が発生し、この事件によってパナマと合衆国は一時国交を断絶した。

パナマ侵攻時のアメリカ軍

1968年に発生したクーデターによりアルヌルフォ・アリアス大統領は失脚し、国家警備隊の司令官だったオマール・トリホス将軍が大統領に就任した。ペルーベラスコ将軍に影響を受けていた[3]トリホス将軍は反対派を徹底的に弾圧したが、その一方で国内の寡頭支配層や合衆国に対して一歩も妥協しないそのカリスマ性によってたちまち国民の心を掴んだ。国粋主義的な政策で合衆国との交渉に臨んだトリホス将軍は1977年にジミー・カーター合衆国大統領と新運河条約を結び、1999年の運河の主権返還を書面で認めさせた。

1981年のトリホス将軍の死後、国家警備隊は拡張され、1983年にパナマ国防軍に再編された。その後、トリホス将軍の下で諜報任務に就いていたマヌエル・ノリエガが事実上の軍と政治のトップとなったが、1989年にノリエガは合衆国とキューバカストロ政権やリビアカダフィ政権など世界各国の反米政権の二重スパイかつ、コロンビアの麻薬組織メデジン・カルテルと深い関係があることを理由に、アメリカ合衆国によるパナマ侵攻によって失脚した。

ノリエガの失脚後、政治への深い介入が問題になっていたパナマ国防軍は解体され、1990年に国家保安隊に再編された。

アメリカ合衆国からの第三の独立

1999年12月31日にトリホス将軍が結んだ新運河条約により、パナマに運河地帯の主権が返還された。このアメリカ合衆国からの第三の独立[4]によって、パナマは全土に主権を及ぼす国家となった。

2004年5月には、民主革命党から故オマール・トリホスの息子マルティン・トリホスが大統領に就任した。2009年5月3日の大統領選挙では、民主変革党の党首リカルド・マルティネリが貧困対策や治安改善、インフラ整備のための民間投資誘致などを掲げて支持を集め、得票43.68%で当選した。

政治

国会議事堂

大統領元首とする共和制国家である。首相は設置されていない。大統領は行政府の長であり、任期は5年。連続再選は認められていない。現行憲法は1972年憲法であり、1983年に大きな改正を経て現在に至っている。

立法権一院制の議会に属しており、定数は78名、任期は5年。

司法権は最高裁判所に属している。

主要政党としては民主変革党(民主改革党とも)、民主革命党パナメニスタ党(旧アルヌルフィスタ党)などが挙げられる

独立以来国土の中心に位置するパナマ運河地帯はアメリカ合衆国の主権下にあったが、1999年12月31日にパナマに主権が返還されたことによってパナマ政府は全土に主権を及ぼすようになった。

2010年7月12日、マルティネリ政権が強行した労働者の組合加入を抑制する措置やスト権の制限などを盛り込んだ労働法改定に反対する抗議デモが、首都パナマ市などで行われた。同2010年にはボカス・デル・トーロ県でストが行われ、警官隊による発砲で労働者2人が死亡、約100人が負傷した事件が発生している。

パナマは中華民国台湾)を承認している。

軍事

1989年のパナマ侵攻の結果、それまで国防を担っていたパナマ国防軍は1990年に解体され、国家保安隊が創設された。そのため現在パナマに軍隊は存在しない。

国家保安隊は国家警察、海上保安隊、航空保安隊より構成される。

地方行政区分

パナマの地方行政区分。
パナマの地方行政区分。

パナマは9つの区分に分けられており、県制(provincia)を用いている。西からボカス・デル・トーロ(スペイン語 Bocas del Toro)・チリキ(Chiriquí)・ベラグアス(Veraguas)・エレーラ(Herrera)・ロス・サントス(Los Santos)・コクレ(Coclé)・パナマ(Panamá)・コロン(Colón)・ダリエン(Darién)である。このほかにコマルカ(Comarca)と呼ばれる先住民族の自治区が4ヶ所存在する。

行政区分は基本的に1903年の建国当初から変更されていない。

  1. ボカス・デル・トーロ県
  2. チリキ県
  3. コクレ県
  4. コロン県
  5. ダリエン県
  6. エレーラ県
  7. ロス・サントス県
  8. パナマ県
  9. ベラグアス県

主要都市

地理

パナマの地理
クナ・ヤラー自治区のエル・ポルベニール島

北アメリカ大陸南アメリカ大陸の接続点にあり、北緯7度~10度、西経77度~83度に及ぶ。東西は直線で約600㎞になる。コロンビア国境付近の高地はアンデス山脈に関係している。国土はパナマ運河によって二分されており、国土の約78%が山地と丘陵であるように全体的に山脈が多く、低地では熱帯雨林が多い。運河にはガトゥン湖などの湖も存在する。東のコロンビアからはオリエンタル山脈が、西のコスタリカからはダバサラ山脈が延びている。西部の中央山系には高山と火山が集中しており、最高峰は隣国コスタリカの近くのバル火山(3,475m)である。河川は500あり、最長の川はチュクナケ川(231km)であり、流れは太平洋岸のサン・ミゲル湾に注ぐ。パナマ市の東に広がるダリエン地方には、ユネスコ世界遺産にも登録されているアメリカ大陸に残された最大規模の熱帯雨林と湿地帯が広がっている。国土北西部のボカス・デル・トロ諸島の島々は、どれもサンゴ礁に囲まれている。その他にもカリブ海側のサン・ブラス諸島や、ラス・ペルラス諸島など幾つかの島嶼が存在する。

気候は熱帯性気候で、季節は12月半ばから4月までの乾季と5月から12月半ばまでの雨季に分かれる。雨季の午後には激しい雨が降り、年間降水量は2,000mmから3,000mmに達する。

かつては国土の9割以上を森林が占めていたものの、2000年には森林面積が39%にまで低下した[5]。国土の23%は様々なタイプの自然保護区に指定されており、世界全体でも10位以内に入る自然保護大国でもある。

経済

パナマ市中心街
パナマ運河

アメリカ合衆国の通貨米ドルにすべてを依拠し、自国の通貨主権を放棄している。中央銀行(パナマ国立銀行)は存在するが、紙幣発行権を持たない。バルボアという通貨があるが、バルボア紙幣は存在しない。流通している紙幣は米ドル紙幣のみである。それは常に1バルボア=1米ドル固定であり通貨が米ドルと等価であるからである。硬貨はパナマ独自のものが発行されているが、米国セント硬貨も等価で併用されている。そのため、コスタリカと共に中米で最も経済的に進んだ国であり、伝統的に金融業が経済の中心である。他のラテンアメリカ諸国に比べて安定していたこともラテンアメリカの金融センターとして発達した理由の一つである。第三次産業の従事者が全体の7割にものぼる。 ラテンアメリカでブラジルに匹敵する経済成長を示す。一方、国民の3割は貧困層で、その半数は極貧に属する。 パナマ運河は重要な雇用の場で通行料は重要な収入源である。軍事施設が米国から返還されたことと運河の拡張計画は今後のインフラ発展に大きく寄与すると見られる。 他にはバナナエビの輸出と、銅や金鉱山の開発がある。

国土の大半が山脈であることから平地農業が廃れてきている。

熱帯性気候であり、年間降水量が2,000mm以上と非常に多いため、エネルギーの半分近くを水力発電で賄っている[6]

パナマ船籍の外国商船からの収入も多い(便宜置籍船)。

コロン港

近年、観光業も成長している。政府は外国人と退職者に税優遇を行っているためで、外国人観光客が増加し、不動産開発が進んでいる。

鉱業

パナマの鉱業は小規模ではあるが、については経済的に採算が取れている。2003年時点の金の採掘量は1.6トン、塩は2.3万トンである。金はダリエンの砂金が著名であるが、ベタキジャやベラグアスの鉱山開発も進んでいる。塩は岩塩ではなく、塩田を利用したものである。サンタマリア川とチコ川に挟まれた都市アグアドゥルセに大規模な塩田が立地する。

このほか、アスベストマンガンの埋蔵が確認されている。

国民

先住民クナ人の女性。
パナマ市のサン・フェリペ・ネリ教会

住民はヨーロッパ人インディオ(インディヘナ)との混血であるメスティーソが60%、アフリカ系パナマ人が14%、ヨーロッパ系パナマ人が10%、先住民(アジア系モンゴロイド)が10%、その他が1%である。パナマにはインカ文明アステカ文明マヤ文明のような高度に発達した先コロンブス期の文明は存在しなかったが、それでもインディオが国民の内約10%を占めるのはメキシコの国民に占めるインディオ比と同水準であり、ラテンアメリカ域内では先住民系の人口の占める比率が大きい国となっている。

黒人(アフリカ系パナマ人)は植民地時代にアフリカからパナマに連行された人々の子孫であるアフロ・コロニアルと、19世紀から20世紀にかけてジャマイカトリニダードマルティニークグアドループなどから鉄道運河の建設のために移住した人々の子孫であるアフロ・アンティーリャスに分けて統計されている。

白人(ヨーロッパ系パナマ人)は植民地時代に移住したスペイン人の子孫の他、19世紀に鉄道や運河の建設、監督のためにイタリア人イギリス人アメリカ合衆国人などが移民した。

パナマの人口の10%を占めるインディオ(インディヘナ)にはクナ人ネーベ人エンベラー・オウナン人英語版(エンベラー人、オウナン人)、ブグレー人テリベ人ブリブリ人ボゴタ人などの諸集団が存在し、1953年にクナ・ヤラー自治区が、1983年にエンベラー・オウナン自治区、1996年にマドゥンガンディ自治区、1997年にノーベ・ブグレー自治区が創設された。

その他にマイノリティとしてユダヤ人、中国人(華僑)、インド人印僑)、トルコ人などが挙げられる。

言語

スペイン語公用語であり、大多数の国民が母語としている。その他にもアフロ・アンティーリャスなどにはジャマイカ英語をはじめとする英語を母語とする人々が存在する他、クナ語など先住民の言語を母語とする人々も存在する。英語はまた、都市部の高学歴層や観光地で使用される。

宗教

宗教はローマ・カトリックが85%、プロテスタントが13%、その他(仏教ヒンドゥー教ユダヤ教バハーイー教など)が2%である。

教育

パナマ大学のキャンパス。

6歳から11歳までの6年間の初等教育が無償の義務教育期間となり、その後の6年間の前期中等教育と後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。国公立の教育機関は初等教育から高等教育までほぼ無償である。2000年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は91.9%である[7]

代表的な高等教育機関としては、パナマ大学(1935年)、パナマ工科大学(1981年)などが挙げられる。歴史的にパナマのエリートは子弟をアメリカ合衆国西ヨーロッパ諸国の学校で学ばせたため、パナマ国内の高等教育機関は中間層の子弟のための機関となり、それゆえにエリート層と対立するパナマの学生は1964年1月の国旗事件など、高揚するパナマ・ナショナリズムの担い手となった。大学進学率は中米諸国の中では最も高い。

文化

ダンスを踊るパナマ人のカップル

パナマの文化はインディヘナの文化の上に、アフリカ系の文化とヨーロッパ系文化の伝統が強く影響して築き上げられている。

音楽

1980年代にジャマイカレゲエの影響を受けてスパニッシュ・レゲエが生まれた。スパニッシュ・レゲエは1990年代にプエルトリコに伝播してレゲトンとなった。

世界遺産

パナマ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件存在し、コスタリカにまたがって1件の自然遺産が登録されている。

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Año nuevo
1月9日 殉教者の日 1964年、当時の運河地帯での暴動の死者を偲む
移動祝祭日 カルナバル Carnaval
移動祝祭日 聖金曜日 Santo Viernes
移動祝祭日 聖週間 Semana Santa
8月15日 パナマ市建設記念日 首都圏のみ休日
11月2日 万霊節 死者を弔う
11月3日 コロンビアから分離独立の日 separacion de colombia
11月4日 国旗の日 Día de la Bandera
11月5日 コロンの日 Día del Colón コロン市のみ休日
11月10日 ロス・サントス市独立の第一声記念日
11月28日 スペインからの独立記念日 Día de la Indipendencia
12月8日 母の日 Día de la Madre
12月25日 クリスマス Navidad

スポーツ

ロベルト・デュラン
ロッド・カルー

ボクシング

ボクシングが人気のあるスポーツであり、2007年に世界ボクシング協会(WBA)の本部がパナマ市に移転した。現在までに20人以上の世界チャンピオンを輩出しており、世界王座17度防衛のエウセビオ・ペドロサや4階級制覇の歴史的名王者ロベルト・デュランを輩出している。

野球

近隣のキューバプエルトリコドミニカ共和国ベネズエラと同様にアメリカ合衆国の強い影響を受けたため、伝統的に野球が盛んである。アメリカ野球殿堂表彰者であるロッド・カルーを筆頭に、ニューヨーク・ヤンキースの守護神マリアノ・リベラヒューストン・アストロズの主砲カルロス・リー、日本でプレーした選手ではフリオ・ズレータフェルナンド・セギノールらが有名である。

バスケットボール

ボクシング、野球に次いで人気が高いスポーツがバスケットボールである。バスケットボールパナマ代表はオリンピック1回、世界選手権4回出場、日本で開催された2006年世界選手権で20年ぶりの出場を果たした。NBAプレイヤーとしてローランド・ブラックマンスチュアート・グレイゲイリー・フォーブスらを輩出しており、日本のbjリーグではディオニシオ・ゴメスがプレーしている。

サッカー

サッカーパナマ代表は2010年までFIFAワールドカップ未出場であるが、2005 CONCACAFゴールドカップで準優勝を果たすなど着実に力を付けつつある。著名な選手としてJリーグでもプレーしたホルヘ・ルイス・デリー・バルデス、その双子の弟でヨーロッパでも活躍したフリオ・デリー・バルデスが挙げられる。

陸上競技

2012年までオリンピックパナマ選手団が獲得したメダル3個(金1・銅2)はすべて陸上競技である。

脚註

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 国本伊代、小林志郎、小澤卓也『パナマを知るための55章』明石書店、2004年8月。p.264
  3. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年1月。p.190
  4. ^ 国本伊代、小林志郎、小澤卓也『パナマを知るための55章』明石書店、2004年8月。pp.192-196
  5. ^ 国本伊代、小林志郎、小澤卓也『パナマを知るための55章』明石書店、2004年8月。p.17
  6. ^ 国本伊代、小林志郎、小澤卓也『パナマを知るための55章』明石書店、2004年8月。p.17
  7. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/pm.html

参考文献

  • 国本伊代小林志郎小澤卓也『パナマを知るための55章』明石書店東京〈エリア・スタディーズ〉、2004年8月。ISBN 4-7503-1964-3 
  • エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年新評論東京、1986年9月。 
  • 二村久則野田隆牛田千鶴志柿光浩『ラテンアメリカ現代史III』山川出版社東京〈世界現代史35〉、2006年4月。ISBN 4-634-42350-2 

関連項目

外部リンク