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2014年5月3日 (土) 14:58時点における版

 
上杉定実
時代 戦国時代
生誕 文明10年(1478年)?
死没 天文19年2月26日1550年3月14日
改名 定実→玄清(戒名
幕府 室町幕府越後守護
氏族 上杉氏上条上杉家越後上杉家
父母 父:上杉房実、母:山吉久盛の娘
養父:上杉房能
兄弟 積翠院[1]伊達尚宗室)、定実定憲定明
正室:上杉房能の娘
継室長尾能景の娘
実子:
女(長尾晴景正室)、女(蘆名氏[要出典]
猶子:
長尾定景(娘婿、のちの晴景)
伊達実元(※養子になる予定だったがのち中止)
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上杉 定実(うえすぎ さだざね)は、日本戦国時代守護大名越後守護上杉氏の当主。上杉房能の養子。上杉謙信(初名:長尾景虎)は義理の、そして婿の弟にあたる[2]

生涯

定実自身は上条上杉家出身であったが、文亀3年(1503年)に房能の娘を正室に迎えて、その婿養子となる。永正4年(1507年)8月、守護代長尾為景に担がれて房能を倒すと、翌年に守護(実質的には為景の傀儡)となった。その際に長尾為景の妹を娶り(正室であった房能息女はこの時点で死去していた可能性が高い)、宇佐美房忠(ふさただ、定満の父)から名刀「宇佐美貞光」を献上される。

しかし、関東管領上杉顕定(房能の実兄)の侵攻により、永正6年(1509年)に越中佐渡へ敗走する。翌永正7年(1510年)、越後の諸将を掌握できていない顕定軍の内情を見て、為景と共に佐渡の軍勢を加えて勢力を盛り返し、長森原の戦いで顕定を敗死させた。永正10年(1513年)、為景の傀儡であることに不満を抱いて、守護家家臣筋の宇佐美房忠、定満父子や実家上条氏の上条定憲(弟、あるいは甥)、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠して断続的に抵抗を続けたが失敗し、一時幽閉されるなど権威はますます失墜した。

その後、上条定憲らが再度反為景勢力を結集したため、為景は隠居に追い込まれたが、その後も定実が実権を握ることはできなかったらしい。為景の跡を継いだ長尾晴景(定実の婿、当初は偏諱によって景)は、為景と比べると求心力に欠けたため、定実の権力は一応の回復を見せた。

定実には男子がいなかったため、為景の没後、縁戚(定実の甥)である陸奥の大名伊達稙宗の子・時宗丸(のち偏諱によって元と名乗る)との養子縁組中条藤資(実元の母は藤資の妹)らと推進し、復権を図ったものの、越後北部や出羽での上杉傘下の国人領主同士の対立を招いた。更に、伊達氏における内訌(天文の乱)を引き起こす結果となり、縁組は中止され、定実のもくろみは頓挫した。

天文年間末期には黒田秀忠の反乱も起きて越後は動揺するが、これを晴景の弟・長尾景虎(後の上杉謙信)が鎮圧したことで、周囲はおろか定実自身も景虎に一目置くことになった。

天文17年(1548年)、晴景と景虎の争いが起こるとこれを仲介し、景虎の擁立に尽力した。晩年は出家して玄清(げんせい)と名乗り、天文19年(1550年)病没。定実の死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、13代将軍足利義輝の命令で景虎が越後守護を代行した。


偏諱を与えた人物

脚注

  1. ^ 仙台藩の史料では定実を積翠院の父とするが、積翠院が長男・稙宗を産んだのは長享2年(1488年)であり、年代的には全く整合性がとれない。このため実際には、積翠院は定実の実姉(15歳以上年長か)と考えられている。(長谷川伸「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」 『地方史研究』第254号、1994年
  2. ^ 定実が長尾為景の妹を後妻に迎えており、その娘が長尾晴景に嫁いでいるため。