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== 経歴 ==
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[[肥前国]][[小城郡]]西川(後の[[三里村 (佐賀県)|三里村]]、現在の[[佐賀県]][[小城市]])に生まれる。納富家は[[小城藩]]の武術[[師範]]の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が[[明治]]30年([[1897年]])7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父祖父か不明)は「真之乱流[[柔術|組打]]・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・[[根岸流 (武術)|根岸流]][[薙刀術|長刀]]」9代師範とある。納富家の[[道場]]での他流試合で殺してしまった者を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。
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教雄は幼き頃より武道の興隆に志し、父から家法の武道の奥妙を究め、明治10年([[1877年]])先業を継ぎ、自邸に道場を開く。明治18年([[1885年]])佐賀県[[巡査]]に任官し、[[佐賀県警察部]]や[[師範学校]]、[[旧制中学校|中学校]]等で剣道の指導に当たったことや、佐賀[[武徳殿#大日本武徳会の武徳殿|武徳殿]](佐賀県警察本部体育館の前身)の建設で知られる。子息の[[納富五雄]]も剣道範士に進んだ。
教雄は幼き頃より武道の興隆に志し、父から家法の武道の奥妙を究め、明治10年([[1877年]])先業を継ぎ、自邸に道場を開く。明治18年([[1885年]])佐賀県[[巡査]]に任官し、[[佐賀県警察部]]や[[師範学校]]、[[旧制中学校|中学校]]等で剣道の指導に当たったことや、佐賀[[武徳殿#大日本武徳会の武徳殿|武徳殿]](佐賀県警察本部体育館の前身)の建設で知られる。子息の[[納富五雄]]も剣道範士に進んだ。

2014年4月19日 (土) 12:55時点における版

納富 教雄安政5年(1858年6月11日 - 昭和9年(1934年2月)は、日本の剣術家流派戸田流称号大日本武徳会剣道範士

経歴

肥前国小城郡西川(現在の佐賀県小城市)に生まれる。納富家は小城藩の武術師範の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が明治30年(1897年)7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父と祖父のどちらを指しているか不明)は「真之乱流組打・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・根岸流長刀」9代師範とある。納富家の道場での他流試合で殺してしまった者を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。

教雄は幼き頃より武道の興隆に志し、父から家法の武道の奥妙を究め、明治10年(1877年)先業を継ぎ、自邸に道場を開く。明治18年(1885年)佐賀県巡査に任官し、佐賀県警察部師範学校中学校等で剣道の指導に当たったことや、佐賀武徳殿(佐賀県警察本部体育館の前身)の建設で知られる。子息の納富五雄も剣道範士に進んだ。

称号

参考文献

  • 『剣道家写真名鑑』24頁(1924年)
  • 『武道範士教士錬士名鑑』300頁(1937年)
  • 黒木俊弘『肥前武道物語』 佐賀新聞社(1976年)
  • 月刊剣道日本』1976年11月号37頁、スキージャーナル