「田代重右衛門」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
7行目: 7行目:
|出生名 = 田代松太郎
|出生名 = 田代松太郎
|生年月日 = [[1854年]][[1月2日]]
|生年月日 = [[1854年]][[1月2日]]
|生誕地 = [[美濃国]]([[岐阜県]])[[大野郡 (岐阜県)|大野郡]]下座倉村
|生誕地 = [[美濃国]]([[岐阜県]])[[大野郡]]下座倉村
|失踪年月日 =
|失踪年月日 =
|失踪地 =
|失踪地 =
68行目: 68行目:


== 生い立ち ==
== 生い立ち ==
嘉永7年1月2日、[[美濃国]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[下座倉村]]([[岐阜県]])で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。[[寺子屋]]で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。
嘉永7年1月2日、[[美濃国]][[大野郡]][[下座倉村]]([[岐阜県]])で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。[[寺子屋]]で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。


明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡織を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・[[ユニチカ]])と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に[[日本貯蓄銀行]]相談役なども兼任した。
明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡織を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・[[ユニチカ]])と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に[[日本貯蓄銀行]]相談役なども兼任した。

2014年4月6日 (日) 13:26時点における版

たしろ じゅうえもん

田代 重右衛門
生誕 田代松太郎
1854年1月2日
美濃国岐阜県大野郡下座倉村
死没 (1932-12-14) 1932年12月14日(78歳没)
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 大日本紡績(現:ユニチカ)元社長
配偶者 あり
田代重兵衛(父)
テンプレートを表示

田代重右衛門(たしろ じゅうえもん、1854年嘉永7年)1月2日 - 1932年昭和7年)12月14日)は、日本の実業家

生い立ち

嘉永7年1月2日、美濃国大野郡下座倉村岐阜県)で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。寺子屋で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。

明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡織を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・ユニチカ)と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に日本貯蓄銀行相談役なども兼任した。

関連項目