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そのため、[[フォルリ]]の[[リアーリオ家]]に嫁いだ、姪の[[カテリーナ・スフォルツァ|カテリーナ]](ジャン・ガレアッツォの姉)とも距離を置かれた。
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[[1499年]]にルドヴィーコの後楯である[[神聖ローマ皇帝]]の[[ハプスブルク家]]が[[フランス王国]]と対決した。ルドヴィーコは[[神聖ローマ帝国]]につき、翌[[1500年]]にフランス軍はスフォルツァ城を包囲し、相互にスイス傭兵を率いていた。しかし、[[1500年]]に、配下のスイス傭兵の裏切りのために、ルドヴィーコは窮地に追い込まれてしまい、一部のスイス傭兵の好意で、スイス傭兵に仮装して脱出を試みた。しかし、500クローネンの報酬に釣られた[[ウーリ州]]の傭兵隊長の[[ルドルフ・トゥールマン]]が密かにフランス軍に密告したため、ルドヴィーコはルドルフの手勢に捕らわれてフランス軍に引き渡された。これが名高い『{{仮リンク|ノヴァラの裏切り|de|Verrat von Novara|en|Treason of Novara}}』である。
[[1499年]]にルドヴィーコの後楯である[[神聖ローマ皇帝]]の[[ハプスブルク家]]が[[フランス王国]]と対決した。ルドヴィーコは[[神聖ローマ帝国]]につき、翌[[1500年]]にフランス軍はスフォルツァ城を包囲し、相互にスイス傭兵を率いていた。しかし、[[1500年]]に、配下のスイス傭兵の裏切りのために、ルドヴィーコは窮地に追い込まれてしまい、一部のスイス傭兵の好意で、スイス傭兵に仮装して脱出を試みた。しかし、500クローネンの報酬に釣られた[[ウーリ州]]の傭兵隊長の[[ルドルフ・トゥールマン]]が密かにフランス軍に密告したため、ルドヴィーコはルドルフの手勢に捕らわれてフランス軍に引き渡された。これが名高い『{{仮リンク|ノヴァラの裏切り|de|Verrat von Novara|en|Treason of Novara}}』である。


ルドヴィーコは、そのまま[[1508年]]まで投獄され・獄死した。
ルドヴィーコは、そのまま[[1508年]]まで投獄され・獄死した。

2014年2月18日 (火) 06:21時点における版

ルドヴィーコ・スフォルツァ

ルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza, 1452年7月27日1508年5月27日)は、ミラノ公。15世紀から16世紀にミラノを統治していたスフォルツァ家の当主。

フランチェスコ・スフォルツァの四男で、ガレアッツォの弟。通称イル・モーロ(Il Moro) 。イル・モーロの異名は「ムーア人ベルベル人)」のように色黒だったことからついたと言われている。スイス傭兵を統率して、レオナルド・ダ・ヴィンチの初期パトロンとして有名。

概要

フェッラーラ公エルコレ1世・デステの次女ベアトリーチェと結婚し、後継者のマッシミリアーノフランチェスコら3子をもうけた。また、数多くの愛妾をもち、その一人チェチーリア・ガッレラーニが庶子を生んでいる。

1476年に甥ジャン・ガレアッツォ摂政となったが、事実上のミラノの支配者となり、ナポリ王国の王女を娶った甥のジャン・ガレアッツォらをスフォルツァ城から追い出した。

そのため、フォルリリアーリオ家に嫁いだ、姪のカテリーナ(ジャン・ガレアッツォの姉)とも距離を置かれた。

1499年にルドヴィーコの後楯である神聖ローマ皇帝ハプスブルク家フランス王国と対決した。ルドヴィーコは神聖ローマ帝国につき、翌1500年にフランス軍はスフォルツァ城を包囲し、相互にスイス傭兵を率いていた。しかし、1500年に、配下のスイス傭兵の裏切りのために、ルドヴィーコは窮地に追い込まれてしまい、一部のスイス傭兵の好意で、スイス傭兵に仮装して脱出を試みた。しかし、500クローネンの報酬に釣られたウーリ州の傭兵隊長のルドルフ・トゥールマンが密かにフランス軍に密告したため、ルドヴィーコはルドルフの手勢に捕らわれてフランス軍に引き渡された。これが名高い『ノヴァーラの裏切りドイツ語版英語版』である。

ルドヴィーコは、そのまま1508年まで投獄され・獄死した。

関連項目

参考文献


先代
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
ミラノ公
1494 - 1500
次代
ルイ12世