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== 歴史 ==
== 歴史 ==
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、[[東大寺]]大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。行基研究の基礎文献の一つである『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、喜光寺の前身である菅原寺は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進して寺としたものであって、行基建立の四十九院の一つであるとされている。行基は天平21年(749年)この寺で82歳で死去し、生駒の[[竹林寺 (生駒市)|竹林寺]]に葬られた。
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、[[東大寺]]大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。行基研究の基礎文献の一つである『行基年譜』([[安元]]元年・[[1175年]]成立)によれば、喜光寺の前身である菅原寺は、[[養老]]5年([[721]])、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進して寺としたものであって、行基建立の四十九院の一つであるとされている。行基は[[天平]]21年([[749]])この寺で82歳で死去し、生駒の[[竹林寺 (生駒市)|竹林寺]]に葬られた。


一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は霊亀元年(715年)、[[元明天皇]]の勅願により建てられたものという。創建当初は[[菅原道真]]の生誕地と伝わる菅原の里にあることから「菅原寺」と呼ばれていた。伝承によれば、[[聖武天皇]]が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』によれば、延暦元年(782年)、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。
一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は[[霊亀]]元年([[715]])、[[元明天皇]]の勅願により建てられたものという。創建当初は[[菅原道真]]の生誕地と伝わる菅原の里にあることから「菅原寺」と呼ばれていた。伝承によれば、[[聖武天皇]]が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』によれば、[[延暦]]元年([[782]])、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。


中世には[[興福寺]]の[[末寺]]となり、直接には[[興福寺]]の[[塔頭]]の一つであった[[一乗院]]に属した。
中世には[[興福寺]]の[[末寺]]となり、直接には[[興福寺]]の[[塔頭]]の一つであった[[一乗院]]に属した。

2014年1月26日 (日) 08:38時点における版

喜光寺(きこうじ)

本堂(国指定重要文化財)
所在地 奈良県奈良市菅原町508
位置 北緯34度41分05秒 東経135度46分40秒 / 北緯34.68472度 東経135.77778度 / 34.68472; 135.77778
山号 清涼山
宗旨 法相宗
寺格 薬師寺別格本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・養老5年(721年
開基 伝・行基
文化財 本堂、木造阿弥陀如来坐像(国重要文化財)
法人番号 1150005000112 ウィキデータを編集
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喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗寺院。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時代の高僧・行基が没した地とされている。薬師寺の別格本山。

歴史

奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。行基研究の基礎文献の一つである『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、喜光寺の前身である菅原寺は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進して寺としたものであって、行基建立の四十九院の一つであるとされている。行基は天平21年(749年)この寺で82歳で死去し、生駒の竹林寺に葬られた。

一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は霊亀元年(715年)、元明天皇の勅願により建てられたものという。創建当初は菅原道真の生誕地と伝わる菅原の里にあることから「菅原寺」と呼ばれていた。伝承によれば、聖武天皇が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。『続日本紀』によれば、延暦元年(782年)、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。

中世には興福寺末寺となり、直接には興福寺塔頭の一つであった一乗院に属した。

戦国時代に伽藍のほとんどが兵火により焼失したが、間もなく再建された。

明治時代には薬師寺の末寺となった。現在は同寺唯一の別格本山という。

建造物

  • 本堂(重要文化財) - 室町時代に再建された単層裳階付き建物。この建物は、元々は行基が東大寺大仏殿を建立する際の参考にしたと伝承されており、大きさとしては大仏殿の十分の一のサイズになっている。このことから、「試みの大仏殿」とも呼ばれる。
  • 南大門 - 再建後に再び焼失。再び再建され2010年5月に落慶法要が営まれた。

文化財

重要文化財

  • 本堂 - 室町時代前期
  • 木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代後期。像高233cm。

アクセス

関連項目

外部リンク