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== 歴史 ==
=== 前史 ===
=== 前史 ===
大正年間当時、知多半島東岸より[[名古屋市]]中心部への公共交通手段は、[[鉄道省]]の運営する[[武豊線]]のみであったが<ref name="JTBC-R131_p153" />、列車運行本数の少なさや所要時分が長いことなどから利用者にとって不便な路線であった<ref name="RP473_p73" />。そのため、地元住民による願もあり、愛知電気鉄道(愛電)は[[1912年]](大正元年)12月に、当時建設中であった同社常滑線の[[尾張横須賀駅]]より分岐して半田に至る「半田線」の敷設免許を取得た<ref name="RP370_p149" />。しかし、同時期の経済不況による愛電本体の業績悪化から半田線は測量段階で建設が中断され<ref name="RP370_p149" />結局[[1915年]](大正4年)12月に免許失効を迎え、半田線は幻の路線に終わった<ref name="meitetsu1961_p302" />。
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その後、[[1924年]](大正14年)に半田・河和地区の有力者であった小栗四郎・中埜良吉・中埜半左衛門・榊原伊助らによって、知多半島東岸南部の河和に至る'''知多電気鉄道'''が計画された<ref name="meitetsu1961_p302" />。小栗らは愛電側に指導協力を求め、1926年(大正15年)11月に愛電常滑線の太田川より分岐して河和に至る路線の敷設免許が交付されたことを機に発起人集会を開催<ref name="meitetsu1961_p302" />、資本金は300万とし、うち100万を愛電が引き受けることが決定された<ref name="meitetsu1961_p302" />。翌[[1927年]](昭和2年)11月に会社設立総会を開催し、社名を'''知多鉄道'''と変更するとともに、代表取締役社長には当時愛電の社長職にあった[[藍川清成]]が就任、愛電の傍系事業者として正式に設立された<ref name="meitetsu1961_p302" />。
その後、[[1924年]](大正14年)に半田・河和地区の有力者であった小栗四郎・中埜良吉・中埜半左衛門・榊原伊助らによって、知多半島東岸南部の河和に至る'''知多電気鉄道'''が計画された<ref name="meitetsu1961_p302" />。小栗らは愛電側に指導協力を求め、1926年(大正15年)11月に愛電常滑線の太田川より分岐して河和に至る路線の敷設免許が交付されたことを機に発起人集会を開催<ref name="meitetsu1961_p302" />、資本金は300万とし、うち100万を愛電が引き受けることが決定された<ref name="meitetsu1961_p302" />。翌[[1927年]](昭和2年)11月に会社設立総会を開催し、社名を'''知多鉄道'''と変更するとともに、代表取締役社長には当時愛電の社長職にあった[[藍川清成]]が就任、愛電の傍系事業者として正式に設立された<ref name="meitetsu1961_p302" />。
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翌[[1932年]](昭和7年)7月には成岩 - [[河和口駅|河和口]]間10.0 kmが延伸開業した<ref name="RP473_p81" />。同時期には鉄道省によって武豊線[[武豊駅]]から南知多方面への[[乗合バス]]の運行が計画された<ref name="meitetsu1961_p303" />。そのため、知多鉄道は対抗策として列車増発のほか、[[1933年]](昭和8年)7月に[[住吉町駅|農学校前]]・[[青山駅 (愛知県)|南成岩]]・[[浦島駅|浦島]]の3駅を開業し半田地区における利便性を向上させた<ref name="meitetsu1961_p303" />。さらに知多半島一円において乗合バス事業を展開した知多自動車(現・[[知多乗合]])の発行株式の過半を取得して子会社化するなど対抗手段を講じた結果、鉄道省による乗合バス運行計画は撤回されるに至った<ref name="meitetsu1961_p303" />。
翌[[1932年]](昭和7年)7月には成岩 - [[河和口駅|河和口]]間10.0 kmが延伸開業した<ref name="RP473_p81" />。同時期には鉄道省によって武豊線[[武豊駅]]から南知多方面への[[乗合バス]]の運行が計画された<ref name="meitetsu1961_p303" />。そのため、知多鉄道は対抗策として列車増発のほか、[[1933年]](昭和8年)7月に[[住吉町駅|農学校前]]・[[青山駅 (愛知県)|南成岩]]・[[浦島駅|浦島]]の3駅を開業し半田地区における利便性を向上させた<ref name="meitetsu1961_p303" />。さらに知多半島一円において乗合バス事業を展開した知多自動車(現・[[知多乗合]])の発行株式の過半を取得して子会社化するなど対抗手段を講じた結果、鉄道省による乗合バス運行計画は撤回されるに至った<ref name="meitetsu1961_p303" />。


河和口以南は用地買収の遅れから建設が停滞し<ref name="meitetsu1961_p303" />、約3年後の1935年(昭和10年)8月に河和口 - 河和間3.0 kmが延伸開業し、全線が開通した<ref name="RP473_p81" />。河和より先、知多半島を横断して半島西岸の[[内海町 (愛知県)|内海町]]に至る路線延伸計画も検討されたが、こちらは具現化することなく終わった<ref name="meitetsu1961_p303" />。
河和口以南は用地買収の遅れから建設が停滞し<ref name="meitetsu1961_p303" />、約3年後の1935年(昭和10年)8月に河和口 - 河和間3.0 kmが延伸開業し、全線が開通した<ref name="RP473_p81" />。河和より先、知多半島を横断して半島西岸の[[知多郡]][[内海町 (愛知県)|内海町]]に至る路線延伸計画も検討されたが、こちらは具現化することなく終わった<ref name="meitetsu1961_p303" />{{refnest|group="注釈"|内海町への鉄道路線延伸は、過去には愛電が前述半田線敷設計画と同時期に常滑線を半島西岸沿いに延伸する形で計画し、1912年(大正元年)8月に敷設免許を取得していたが<ref name="meitetsu1961_p149-150" />、こちらも半田線と同様の事情により1915年(大正4年)11月に免許が失効していた<ref name="meitetsu1961_p155-156" />。内海町(後の[[南知多町]]内海地区)への鉄道路線延伸が実現したのは、現・名鉄成立後に河和線[[富貴駅]]より分岐する[[名鉄知多新線|知多新線]]が建設され<ref name="RP473_p81" />、[[内海駅|内海]]までの全線が開通した[[1980年]](昭和55年)6月のことであった<ref name="RP473_p81" />。}}


=== 全線開通後 ===
=== 全線開通後 ===
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== 運行ダイヤ ==
== 運行ダイヤ ==
[[1934年]](昭和9年)12月当時のダイヤにおいては、特急が1日1往復設定され、急行が7 - 22時台まで上下とも60分間隔で運行、その間に普通列車が設定された<ref name="RP370_p150" />。特急は知多半田 - 神宮前間27.3 kmを27分(表定速度60.7 [[キロメートル毎時|km/h]])、急行は同区間を32分(表定速度51.2 km/h)で結んだ<ref name="RP370_p150" />。急行は[[1940年]](昭和15年)9月時点では同区間の所要時分が30分に短縮され、表定速度は54.6 km/hに向上した<ref name="RP370_p150" />。
[[1934年]](昭和9年)12月当時のダイヤにおいては、特急が1日1往復設定され、急行が7 - 22時台まで上下とも60分間隔で運行、その間に普通列車が設定された<ref name="RP370_p150" />。特急は知多半田 - 神宮前間27.3 kmを27分(表定速度60.7 [[キロメートル毎時|km/h]])、急行は同区間を32分(表定速度51.2 km/h)で結び<ref name="RP370_p150" />、開業当初の所要時分(特急30分・急行35分)と比較して2 - 3分の時間短縮が図られている<ref name="RP370_p150" />。急行は[[1940年]](昭和15年)9月時点では同区間の所要時分が30分とさらに短縮され、表定速度は54.6 km/hに向上した<ref name="RP370_p150" />。


その他、1932年(昭和7年)から[[1936年]](昭和11年)にかけて、神宮前 - 河和間に臨時の海水浴特急「ちどり」が夏季限定で運行された<ref name="RP370_p150" />。同列車にはデハ910形の2両編成を充当、運行時には専用のイラスト入りヘッドマークが前頭部に掲出され、神宮前 - 河和間41.3 kmを44分で結んだ<ref name="RP370_p150" />。
その他、1932年(昭和7年)から[[1936年]](昭和11年)にかけて、神宮前 - 河和間に臨時の海水浴特急「ちどり」が夏季限定で運行された<ref name="RP370_p150" />。同列車にはデハ910形の2両編成を充当、運行時には専用のイラスト入りヘッドマークが前頭部に掲出され、神宮前 - 河和間41.3 kmを44分で結んだ<ref name="RP370_p150" />。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 出典 ===
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== 参考資料 ==
== 参考資料 ==
=== 電子資料 ===
* 愛知県半田町 編 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020258 『半田町史』] 半田町 1926年 [[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー

=== 書籍 ===
=== 書籍 ===
* {{Anchor|meitetsu1961|名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会 『名古屋鉄道社史』 名古屋鉄道 1961年5月}}
* {{Anchor|meitetsu1961|名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会 『名古屋鉄道社史』 名古屋鉄道 1961年5月}}

2014年1月15日 (水) 03:00時点における版

知多鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
愛知県名古屋市南区熱田東町字新宮坂34[1]
設立 1927年11月24日[注釈 1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業
代表者 代表取締役社長 藍川清成[2]
資本金 300万[2]
主要株主 愛知電気鉄道 33.3 %[2]
テンプレートを表示
知多鉄道線
知多鉄道の主力車両であったデハ910形
知多鉄道の主力車両であったデハ910形
知多鉄道の主力車両であったデハ910形
路線総延長28.8 km
軌間1,067 mm
電圧1,500 V架空電車線方式直流
(←常滑方面 / 神宮前方面→)
ABZq+l BHFq
0.0 太田川駅 愛知電気鉄道常滑線
BHF
1.3 高横須賀駅
TUNNEL2
横須賀トンネル
BHF
3.4 加木屋駅
WBRÜCKE
大田川
BHF
4.1 南加木屋駅
BHF
5.9 八幡新田駅
WBRÜCKE
BHF
7.9 知多白沢駅
BHF
9.5 坂部駅
BHF
11.2 椋岡駅
BHF
12.2 植大駅
WBRÜCKE
阿久比川支流
BHF
13.2 半田口駅
BHF
14.0 農学校前駅
STR STRrg
鉄道省武豊線
BHF HST
14.8 知多半田駅 右:半田駅
BHF STR
15.8 成岩駅
WBRÜCKE WBRÜCKE
神戸川
BHF HST
16.8 南成岩駅 右:東成岩駅
WBRÜCKE WBRÜCKE
石川
BHF STR
19.0 上ゲ駅
BHF HST
19.8 知多武豊駅 右:武豊駅
WBRÜCKE WBRÜCKE
堀川
STR KBSTe
武豊港駅
BHF
21.4 浦島駅
WBRÜCKE
新川
BHF
22.3 富貴駅
BHF
23.7 四海波駅
BHF
25.1 布土駅
BHF
25.8 河和口駅
BHF
26.3 時志駅
KBHFe
28.8 河和駅

知多鉄道(ちたてつどう)は、愛知県下において現在の名鉄河和線に相当する路線を敷設・運営した鉄道事業者である。

本項では、事業者としての知多鉄道のほか、同社が敷設・運営した鉄道路線(「知多鉄道線」と記す)についても詳述する。

概要

愛知電気鉄道常滑線(現・名鉄常滑線)の太田川を起点駅として、愛知県南西部の知多半島東岸の中心都市である半田町を経由し、半島南部の河和に至る路線を敷設・運営するため、1926年大正15年)11月に設立された事業者である[3]1931年昭和6年)4月に第一期開業区間として太田川 - 成岩間が開通し、1935年(昭和10年)8月には河和までの全線が開通した[4]

知多鉄道は開業当初より路線運営を愛知電気鉄道(愛電)へ委託しており[5]、愛電と名岐鉄道との合併による現・名古屋鉄道(名鉄)成立後は、知多鉄道線の運営は名鉄によって行われた[5]。その後、太平洋戦争の激化に伴う戦時体制への移行により、陸上交通事業調整法に基いて1943年(昭和18年)2月に知多鉄道は名鉄へ吸収合併され、保有路線・車両は名鉄へ継承された[6]

歴史

前史

大正年間当時、知多半島東岸より名古屋市中心部への公共交通手段は、鉄道省の運営する武豊線のみであったが[7]、武豊線は列車運行本数の少なさや所要時分が長いことなどから利用者にとって不便な路線であった[3]。そのため、地元住民による請願もあり[8]、愛知電気鉄道(愛電)は1912年(大正元年)12月に、当時建設中であった同社常滑線の尾張横須賀駅より分岐して半田に至る「半田線」の敷設免許を取得[9]、測量に取り掛かると同時に敷設する軌条(レール)の手配を進めた[10]。しかし、同時期の経済不況による愛電本体の業績悪化から半田線は測量を終え境界標を設置した段階で建設が中断された[10][11]。結局半田線は1915年(大正4年)12月に免許失効を迎え、幻の路線に終わった[2][10][注釈 2]

その後、1924年(大正14年)に半田・河和地区の有力者であった小栗四郎・中埜良吉・中埜半左衛門・榊原伊助らによって、知多半島東岸南部の河和に至る知多電気鉄道が計画された[2]。小栗らは愛電側に指導協力を求め、1926年(大正15年)11月に愛電常滑線の太田川より分岐して河和に至る路線の敷設免許が交付されたことを機に発起人集会を開催[2]、資本金は300万とし、うち100万を愛電が引き受けることが決定された[2]。翌1927年(昭和2年)11月に会社設立総会を開催し、社名を知多鉄道と変更するとともに、代表取締役社長には当時愛電の社長職にあった藍川清成が就任、愛電の傍系事業者として正式に設立された[2]

路線建設開始から全線開通まで

1929年(昭和4年)12月より、第一次工区として太田川 - 成岩間の建設が開始された[5]。同時期に発生した世界恐慌の影響により日本国内においても不況が深まり、中途資金調達が困難となった時期もあったものの、愛電による技術・資金両面の援助により工事は順調に進み[3]、1931年(昭和6年)4月に太田川 - 成岩間15.8 kmが暫定開業した[4]

知多鉄道線は高速運転を目的として[6]、高速運転時の高負荷に耐えうる重軌条や、保安度の高い自動閉塞方式および3位式信号機を採用するなど、高規格の路線として建設された[5]。また、太田川 - 知多半田間14.8 kmについては複線規格とし、保安度向上のほか高頻度の列車運行を可能とした[3]。また、開業に際しては半鋼製車体を採用する2軸ボギー構造電車を8両導入した[12]。この電車は形式称号を「デハ910形」としたが[12]、これは製造年の1931年(昭和6年)が皇紀2591年に相当することに因み、下2桁の「91」を採って形式称号としたものであった[12]

直流1,500 V電化・軌間1,067 mm狭軌)の路線として開業した知多鉄道線は、当初より愛電常滑線と相互直通運転を行い[6]知多半田から愛電の名古屋市内における拠点駅である神宮前までを最速35分で結び[3]、従来知多半島東岸における唯一の公共交通機関であった武豊線が半田 - 熱田間に1時間半を要していたのと比較して大幅な所要時分短縮を実現した[3]。さらに知多半田 - 神宮前間の運賃を、武豊線の半田 - 熱田間と同額に設定したこともあり、知多鉄道線は武豊線に代わって半田地区における主たる公共交通手段として定着した[3]。また前述の通り、知多鉄道線の運営は愛電に委託され、実質的に愛電の一路線として愛電との連絡運輸を緊密に行った[5]

1932年(昭和7年)7月には成岩 - 河和口間10.0 kmが延伸開業した[4]。同時期には鉄道省によって武豊線武豊駅から南知多方面への乗合バスの運行が計画された[6]。そのため、知多鉄道は対抗策として列車増発のほか、1933年(昭和8年)7月に農学校前南成岩浦島の3駅を開業し半田地区における利便性を向上させた[6]。さらに知多半島一円において乗合バス事業を展開した知多自動車(現・知多乗合)の発行株式の過半を取得して子会社化するなど対抗手段を講じた結果、鉄道省による乗合バス運行計画は撤回されるに至った[6]

河和口以南は用地買収の遅れから建設が停滞し[6]、約3年後の1935年(昭和10年)8月に河和口 - 河和間3.0 kmが延伸開業し、全線が開通した[4]。河和より先、知多半島を横断して半島西岸の知多郡内海町に至る路線延伸計画も検討されたが、こちらは具現化することなく終わった[6][注釈 3]

全線開通後

知多鉄道線の開業により、知多半島東岸の各地区における対名古屋方面への移動の利便性が大幅に向上したほか、南知多地区における観光開発が進捗することとなった[6]。特に河和周辺をはじめとして各地に点在する海水浴場は、名古屋地区からの手軽なレジャースポットとして注目され、夏季の海水浴客輸送需要が年々増大した[6]。また愛知商船(現・名鉄海上観光船)と連携して河和港を拠点とした日間賀島篠島および伊勢志摩方面への観光ルートを確立するなど[6]、知多鉄道線は都市間輸送路線のほか観光路線としての機能も担った[3]

1935年(昭和10年)8月に知多鉄道の親会社である愛電は名岐鉄道と対等合併し、現・名古屋鉄道(名鉄)が成立した[13]。この結果、知多鉄道は名鉄の傘下事業者となり、従来愛電に委託された知多鉄道線の運営は名鉄へそのまま継承された[5]

その後、1941年(昭和16年)に勃発した太平洋戦争の激化に伴う戦時体制への移行により、知多鉄道は陸上交通事業調整法に基いて1943年(昭和18年)2月1日付で名鉄へ吸収合併された[4]合併比率は名鉄10に対して知多7.5とされ[14]、従業員は待遇・報酬とも知多鉄道在籍当時の条件のまま名鉄へ転籍したほか、保有路線および保有車両も全て名鉄へ継承された[14]

なお、知多鉄道線は名鉄へ継承された当初「知多線」と称されたが[14]、戦後の1948年(昭和23年)5月に路線名称を「河和線」と改称した[14]

年表

  • 1926年(大正15年)11月20日 知多電気鉄道に対し鉄道免許状下付(知多郡横須賀町 - 同郡河和町間)[15]
  • 1927年(昭和2年)11月24日 知多鉄道に名称変更(届出)[16]
  • 1931年(昭和6年)4月1日 太田川 - 成岩間 (15.8 km) 開業(旅客運輸)[17]
  • 1932年(昭和7年)
    • 7月1日 成岩 - 河和口間 (10.0 km) 開業(旅客運輸)[18]
    • 9月21日 鉄道免許状下付(知多郡武豊町地内)[19]
  • 1933年(昭和8年)
    • 7月10日 半田口 - 知多半田間に農学校前駅、成岩 - 上ゲ間に南成岩駅、知多武豊 - 富貴間に浦島駅開業。
    • 10月1日 貨物運輸開始(成岩 - 河和口間)[20]
  • 1935年(昭和10年)8月1日 河和口 - 河和間 (3.0 km) が開業し全通[21]
  • 1943年(昭和18年)2月1日 名古屋鉄道に吸収合併[4]。路線名称は「知多線」となる[14]
  • 1948年(昭和23年)5月16日 路線名称を「河和線」と改称[14]

名鉄合併後の知多鉄道線の動向については名鉄河和線#年表を参照

運行ダイヤ

1934年(昭和9年)12月当時のダイヤにおいては、特急が1日1往復設定され、急行が7 - 22時台まで上下とも60分間隔で運行、その間に普通列車が設定された[12]。特急は知多半田 - 神宮前間27.3 kmを27分(表定速度60.7 km/h)、急行は同区間を32分(表定速度51.2 km/h)で結び[12]、開業当初の所要時分(特急30分・急行35分)と比較して2 - 3分の時間短縮が図られている[12]。急行は1940年(昭和15年)9月時点では同区間の所要時分が30分とさらに短縮され、表定速度は54.6 km/hに向上した[12]

その他、1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけて、神宮前 - 河和間に臨時の海水浴特急「ちどり」が夏季限定で運行された[12]。同列車にはデハ910形の2両編成を充当、運行時には専用のイラスト入りヘッドマークが前頭部に掲出され、神宮前 - 河和間41.3 kmを44分で結んだ[12]

保有車両

2形式合計11両の電車を保有した[22]。いずれも制御電動車として設計・製造されたが、うち3両は制御車代用として運用された[22]

  • デハ910形 - 開業に際してデハ910 - デハ914・デハ916 - デハ918の8両が1931年(昭和6年)に新製された[7]。愛電の車両番号付与基準に準拠し、初番を0として末尾5は当初より欠番とされた[7]。名鉄継承後は記号のみを改め、モ910形となった[22]
  • デハ950形 - 1942年(昭和17年)にデハ950 - デハ952の3両が新製された[23]。同時期に名鉄が発注したモ3500形と同一設計の車体を備え、同形式と同じく太平洋戦争激化に伴う民間向け物資の不足により電装品が調達できなかったことから暫定的に制御車として導入された[22]。名鉄継承後はク950形と制御車形式が付与され、正式に制御車化された[23]

脚注

注釈

  1. ^ 会社設立総会開催日[2]。1926年(大正15年)11月に発起人集会を開催、当時の社名は知多電気鉄道[2]
  2. ^ これは既存路線と競合関係となる半田線の建設を見送り、半田線と比較して敷設距離がより短く、かつ沿線人口の多い有松線(後の愛電豊橋線、現・名鉄名古屋本線の一部)の建設に注力するという経営判断が下されたことによるものであった[10]
  3. ^ 内海町への鉄道路線延伸は、過去には愛電が前述半田線敷設計画と同時期に常滑線を半島西岸沿いに延伸する形で計画し、1912年(大正元年)8月に敷設免許を取得していたが[9]、こちらも半田線と同様の事情により1915年(大正4年)11月に免許が失効していた[10]。内海町(後の南知多町内海地区)への鉄道路線延伸が実現したのは、現・名鉄成立後に河和線富貴駅より分岐する知多新線が建設され[4]内海までの全線が開通した1980年(昭和55年)6月のことであった[4]

出典

  1. ^ 「株券無効公告」『官報』1931年5月19日(国立国会図書館デジタル化資料)
  2. ^ a b c d e f g h i j 『名古屋鉄道社史』 p.302
  3. ^ a b c d e f g h 「名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-」 (1986) p.73
  4. ^ a b c d e f g h 「名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-」 (1986) p.81
  5. ^ a b c d e f 「名車の軌跡 知多鉄道デハ910物語」 (1979) p.149
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『名古屋鉄道社史』 p.303
  7. ^ a b c 『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 p.153
  8. ^ 『名古屋鉄道社史』 p.153
  9. ^ a b 『名古屋鉄道社史』 pp.149 - 150
  10. ^ a b c d e 『名古屋鉄道社史』 pp.155 - 156
  11. ^ 『半田町史』 p.279(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  12. ^ a b c d e f g h i 「名車の軌跡 知多鉄道デハ910物語」 (1979) p.150
  13. ^ 『名古屋鉄道社史』 pp.201 - 202
  14. ^ a b c d e f 『名古屋鉄道社史』 p.304
  15. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1926年11月25日(国立国会図書館デジタル化資料)
  16. ^ 『鉄道統計資料. 昭和2年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  17. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年5月5日(国立国会図書館デジタル化資料)
  18. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1932年7月8日(国立国会図書館デジタル化資料)
  19. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1932年9月24日(国立国会図書館デジタル化資料)
  20. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  21. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1935年8月14日(国立国会図書館デジタル化資料)
  22. ^ a b c d 『日本の私鉄4 名鉄』 p.124
  23. ^ a b 「私鉄車両めぐり(27) 名古屋鉄道 2」 (1956) p.35

参考資料

電子資料

書籍

雑誌記事

  • 鉄道ピクトリアル鉄道図書刊行会
    • 渡辺肇 「私鉄車両めぐり(27) 名古屋鉄道 2」 1956年11月号(通巻64号) pp.33 - 37
    • 徳田耕一 「名車の軌跡 知多鉄道デハ910物語」 1979年12月臨時増刊号(通巻370号) pp.149 - 153
    • 青木栄一 「名古屋鉄道のあゆみ -その路線網の形成と地域開発-」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.65 - 81