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2007-08シーズン序盤は苦しむも、徐々に[[ホアキン・カパロス]]新監督の戦術が浸透し、11位で残留を手にした。2008-09シーズンのアスレティックは再び見映えしない結果となり、前シーズンと比べれば早く残留を確実にしたが、順位表の中位でシーズンを終えた。しかしコパ・デル・レイでは、ライバルのオサスナや強豪の[[セビージャFC]]など厄介な相手との対戦を切り抜け、同大会で24年ぶりに決勝に進出した。[[エスタディオ・デ・メスタージャ]]で行われたバルセロナとの決勝には1-4で敗れたが、まったく不名誉な結果ではなく、高額年俸選手揃いのバルセロナはリーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグで傑出した結果を残していた。この準優勝により、アスレティックはUEFAカップから名称が変更された[[UEFAヨーロッパリーグ]]の出場権を得た。
2007-08シーズン序盤は苦しむも、徐々に[[ホアキン・カパロス]]新監督の戦術が浸透し、11位で残留を手にした。2008-09シーズンのアスレティックは再び見映えしない結果となり、前シーズンと比べれば早く残留を確実にしたが、順位表の中位でシーズンを終えた。しかしコパ・デル・レイでは、ライバルのオサスナや強豪の[[セビージャFC]]など厄介な相手との対戦を切り抜け、同大会で24年ぶりに決勝に進出した。[[エスタディオ・デ・メスタージャ]]で行われたバルセロナとの決勝には1-4で敗れたが、まったく不名誉な結果ではなく、高額年俸選手揃いのバルセロナはリーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグで傑出した結果を残していた。この準優勝により、アスレティックはUEFAカップから名称が変更された[[UEFAヨーロッパリーグ]]の出場権を得た。


2009-10シーズンは国内リーグでも欧州の舞台でも着実な進歩を遂げた。レアル・マドリードを破るなど、ホームでは立派な成績を残し、安定して順位表の上半分に位置した。UEFAヨーロッパリーグのグループリーグ、[[ヴェルダー・ブレーメン]](ドイツ)との試合はホーム・アウェーともに完敗したが、[[CDナシオナル]](ポルトガル)と[[FKアウストリア・ウィーン]](オーストリア)からは計4試合で勝ち点10を獲得し、グループ2位で決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦では[[RSCアンデルレヒト]](ベルギー)と対戦し、ホームでのファーストレグには1-1で引き分けたが、アウェーのセカンドレグに0-4と大敗し、2試合合計1-5で敗退となった。リーグ戦ではアウェーの試合で脆さを見せたが、ホームでは11勝4分4敗の好成績を残し、わずかに欧州カップ戦出場権に及ばない8位でシーズンを終えた。若手有望株の[[ハビ・マルティネス]]、[[マルケル・スサエタ]]、[[オスカル・デ・マルコス]]などが好パフォーマンスを披露し、エースの[[フェルナンド・ジョレンテ]]や16歳の[[イケル・ムニアイン]]がトップチームで飛躍的な成長を遂げた。シーズン終了後には、過去15シーズンに渡ってアスレティックで500試合以上に出場したエチェベリアが現役引退し、赤白のシャツを着て300試合以上に出場した[[フランシスコ・ジェステ]]が突然チームを離れた。
2009-10シーズンは国内リーグでも欧州の舞台でも着実な進歩を遂げた。レアル・マドリードを破るなど、ホームでは立派な成績を残し、安定して順位表の上半分に位置した。UEFAヨーロッパリーグのグループリーグ、[[ヴェルダー・ブレーメン]](ドイツ)との試合はホーム・アウェーともに完敗したが、[[CDナシオナル]](ポルトガル)と[[FKアウストリア・ウィーン]](オーストリア)からは計4試合で勝ち点10を獲得し、グループ2位で決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦では[[RSCアンデルレヒト]](ベルギー)と対戦し、ホームでのファーストレグには1-1で引き分けたが、アウェーのセカンドレグに0-4と大敗し、2試合合計1-5で敗退となった。リーグ戦ではアウェーの試合で脆さを見せたが、ホームでは11勝4分4敗の好成績を残し、わずかに欧州カップ戦出場権に及ばない8位でシーズンを終えた。若手有望株の[[ハビ・マルティネス]]、[[マルケル・スサエタ]]、[[オスカル・デ・マルコス]]などが好パフォーマンスを披露し、エースの[[フェルナンド・ジョレンテ]]や16歳の[[イケル・ムニアイン]]がトップチームで飛躍的な成長を遂げた。シーズン終了後には、過去15シーズンに渡ってアスレティックで500試合以上に出場したエチェベリアが現役引退し<ref>[http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/season=2010/matches/round=2000037/match=2000893/prematch/focus/ 最終章を満喫するエチェベリア]Goal.com、2009年12月15日</ref>、赤白のシャツを着て300試合以上に出場した[[フランシスコ・ジェステ]]が突然チームを離れた。


2010-11シーズン序盤にはジョレンテが何度も得点してチームを引っ張り、前向きなスタートを切った。アウェーでの成績は不安定であり、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できる4位への挑戦には不十分であったが、他クラブの不振からUEFAヨーロッパリーグ出場権獲得の可能性が生まれた。シーズン中盤には守備陣に負傷者や出場停止者が多発したが、それまで[[ビルバオ・アスレティック]](Bチーム)のメンバーでしかなかった[[ボルハ・エキサ]]がセンターバックのポジションに入り、堅実なプレーでシーズン終了までレギュラーを務めた。10代のムニアインはほとんどすべての試合に左ウイングとして先発出場し、巧妙なプレーでジョレンテや[[ガイスカ・トケーロ]]などのフォワードにパスを供給した。18歳の[[ホン・アウルテネチェ]]もまたカパロス監督に強い印象を残し、深刻な怪我でシーズンを一足早く終えるまでは左サイドバックのレギュラーを務めた。シーズン終了前にはU-21スペイン代表の[[アンデル・エレーラ]]との契約が順調に進み、アスレティックはリーグ戦6位で欧州カップ戦の舞台への復帰を決めた。
2010-11シーズン序盤にはジョレンテが何度も得点してチームを引っ張り、前向きなスタートを切った。アウェーでの成績は不安定であり、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できる4位への挑戦には不十分であったが、他クラブの不振からUEFAヨーロッパリーグ出場権獲得の可能性が生まれた。シーズン中盤には守備陣に負傷者や出場停止者が多発したが、それまで[[ビルバオ・アスレティック]](Bチーム)のメンバーでしかなかった[[ボルハ・エキサ]]がセンターバックのポジションに入り、堅実なプレーでシーズン終了までレギュラーを務めた。10代のムニアインはほとんどすべての試合に左ウイングとして先発出場し、巧妙なプレーでジョレンテや[[ガイスカ・トケーロ]]などのフォワードにパスを供給した。18歳の[[ホン・アウルテネチェ]]もまたカパロス監督に強い印象を残し、深刻な怪我でシーズンを一足早く終えるまでは左サイドバックのレギュラーを務めた。シーズン終了前にはU-21スペイン代表の[[アンデル・エレーラ]]との契約が順調に進み、アスレティックはリーグ戦6位で欧州カップ戦の舞台への復帰を決めた。


==== ビエルサ監督時代 ====
==== ビエルサ監督時代 ====
2011-12シーズン前にはソシオ(クラブ会員)全員が参加した会長選が行われ、現職のフェルナンド・ガルシア・マクア会長は、選手として長くアスレティックに在籍した[[ホス・ウルティア]]に敗北。ウルティア新会長の公約には[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]前監督の[[マルセロ・ビエルサ]]招聘が含まれており、その公約通りビエルサが監督に就任した。ビエルサ監督は[[2010 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーチリ代表|チリ代表]]をベスト16へと導いており、2002-03シーズンまで指揮を執ったハインケス監督(ドイツ)以来、8シーズンぶりの外国人監督であった<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/179420 伝統を放棄して180度の方向転換。“革新派”A・ビルバオの魅力。] Number Web、2011年12月15日</ref><ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/213854 バルサファンも絶賛するA・ビルバオ。欧州で話題沸騰中の超攻撃サッカー。] Number Web、2012年4月4日</ref>。在任期間中にアスレティックの名声を回復したカパロス監督は契約満了によりアスレティックを去った。ビエルサ監督は型にはまらないフォーメーションや戦術を採用し、チームの変革に取り組んだ。何人かの選手は本来のポジションとは異なるポジションでプレー。[[2010 FIFAワールドカップ]]優勝メンバーのハビ・マルティネスは足元の技術を見込まれてセンターバックに転向し、デ・マルコスは本来ミッドフィールダーであるが左サイドバックとしても起用された。シーズン序盤の成績は不安定であり、エレーラの負傷離脱などもあったが、シーズンが進むにつれて選手たちは戦術変更に適応し始め、7節のバスク・ダービーに勝利してシーズン初勝利を挙げると、2011年秋には[[パリ・サンジェルマンFC]](UEFAヨーロッパリーグ)、オサスナ、セビージャなどに勝利し、[[バレンシアCF]]やバルセロナなどから勝ち点1をもぎ取った。6節から19節までの15試合で敗れたのは[[グラナダCF]]戦の1試合のみであった。UEFAヨーロッパリーグではグループリーグを首位で通過し、決勝トーナメント1回戦では[[FCロコモティフ・モスクワ]](ロシア)を撃破。決勝トーナメント2回戦では[[マンチェスター・ユナイテッドFC]](イングランド)と対戦し、[[オールド・トラッフォード]]で行われたファーストレグに3-2で勝利すると、ホームで行われたセカンドレグに2-1で勝利して2試合合計5-3での勝ち上がりを決めた。[[シャルケ04]](ドイツ)と対戦した準々決勝ファーストレグでは、相手フォワードの[[ラウール・ゴンサレス]]が2得点を挙げるなど、72分の時点で1-2とリードされていたが、その後アスレティックが立て続けに得点して4-2で勝利した。セカンドレグは2-2の引き分けで終え、2試合合計6-4で[[スポルティング・リスボン]]との準決勝進出を決めた。ポルトガルで行われた準決勝ファーストレグには1-2で敗れたが、セカンドレグは89分のジョレンテの得点などで3-1と勝利し、2試合合計4-3で決勝進出を決めた。5月9日にルーマニアの首都ブカレストにある[[スタディオヌル・ナツィオナル|アレーナ・ナツィオナラ]]で行われた決勝では、[[アトレティコ・マドリード]]に0-3で敗れて準優勝に終わった。
2011-12シーズン前にはソシオ(クラブ会員)全員が参加した会長選が行われ、現職のフェルナンド・ガルシア・マクア会長は、選手として長くアスレティックに在籍した[[ホス・ウルティア]]に敗北<ref>[http://novajika.com/news/detail_soccer.cgi?id=509 A・ビルバオ、新会長就任で大変革]WOWOWリーガニュース、2011年7月8日</ref>。ウルティア新会長の公約には[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]前監督の[[マルセロ・ビエルサ]]招聘が含まれており<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2011/07/01/2555228/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%AA%E4%BC%9A%E9%95%B7%E5%80%99%E8%A3%9C%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E6%8B%9B%E3%81%B8%E3%81%84%E3%82%92%E5%85%AC%E7%B4%84 ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約]Goal.com、2011年7月1日</ref>、その公約通りビエルサが監督に就任した。ビエルサ監督は[[2010 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーチリ代表|チリ代表]]をベスト16へと導いており、2002-03シーズンまで指揮を執ったハインケス監督(ドイツ)以来、8シーズンぶりの外国人監督であった<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/179420 伝統を放棄して180度の方向転換。“革新派”A・ビルバオの魅力。] Number Web、2011年12月15日</ref><ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/213854 バルサファンも絶賛するA・ビルバオ。欧州で話題沸騰中の超攻撃サッカー。] Number Web、2012年4月4日</ref>。在任期間中にアスレティックの名声を回復したカパロス監督は契約満了によりアスレティックを去った。ビエルサ監督は型にはまらないフォーメーションや戦術を採用し、チームの変革に取り組んだ。何人かの選手は本来のポジションとは異なるポジションでプレー。[[2010 FIFAワールドカップ]]優勝メンバーのハビ・マルティネスは足元の技術を見込まれてセンターバックに転向し、デ・マルコスは本来ミッドフィールダーであるが左サイドバックとしても起用された。シーズン序盤の成績は不安定であり、エレーラの負傷離脱などもあったが、シーズンが進むにつれて選手たちは戦術変更に適応し始め、7節のバスク・ダービーに勝利してシーズン初勝利を挙げると、2011年秋には[[パリ・サンジェルマンFC]](UEFAヨーロッパリーグ)、オサスナ、セビージャなどに勝利し、[[バレンシアCF]]やバルセロナなどから勝ち点1をもぎ取った。6節から19節までの15試合で敗れたのは[[グラナダCF]]戦の1試合のみであった。UEFAヨーロッパリーグではグループリーグを首位で通過し、決勝トーナメント1回戦では[[FCロコモティフ・モスクワ]](ロシア)を撃破。決勝トーナメント2回戦では[[マンチェスター・ユナイテッドFC]](イングランド)と対戦し、[[オールド・トラッフォード]]で行われたファーストレグに3-2で勝利すると、ホームで行われたセカンドレグに2-1で勝利して2試合合計5-3での勝ち上がりを決めた。[[シャルケ04]](ドイツ)と対戦した準々決勝ファーストレグでは、相手フォワードの[[ラウール・ゴンサレス]]が2得点を挙げるなど、72分の時点で1-2とリードされていたが、その後アスレティックが立て続けに得点して4-2で勝利した。セカンドレグは2-2の引き分けで終え、2試合合計6-4で[[スポルティング・リスボン]]との準決勝進出を決めた。ポルトガルで行われた準決勝ファーストレグには1-2で敗れたが、セカンドレグは89分のジョレンテの得点などで3-1と勝利し、2試合合計4-3で決勝進出を決めた。5月9日にルーマニアの首都ブカレストにある[[スタディオヌル・ナツィオナル|アレーナ・ナツィオナラ]]で行われた決勝では、[[アトレティコ・マドリード]]に0-3で敗れて準優勝に終わった<ref>[http://www.goal.com/jp/match/79438/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC-vs-%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%AA/report 轟くファルカオの咆哮、アトレティコが2シーズンぶりのEL制覇]Goal.com、2012年5月10日</ref>


== スタジアム ==
== スタジアム ==

2014年1月13日 (月) 02:53時点における版

アスレティック・ビルバオ
原語表記 Athletic Club
愛称 Los Leones ロス・レオーネス(ライオン)
クラブカラー 赤と白
創設年 1898年
所属リーグ リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビション
ホームタウン ビルバオ
ホームスタジアム サン・マメス・バリア
収容人数 53,332
代表者 スペインの旗 ホス・ウルティア
監督 スペインの旗 エルネスト・バルベルデ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

アスレティック・ビルバオAthletic Bilbao)、正式名称アスレティック・クラブAthletic Club)は、スペインバスク州ビルバオに本拠地を置くサッカークラブである。2012-13シーズンはリーガ・エスパニョーラプリメーラ・ディビシオン(1部)に所属している。

1929年以来継続してプリメーラ・ディビシオンに在籍しており、8回優勝している。コパ・デル・レイ(国王杯)では24回の優勝を誇る。ラ・リーガ通算順位表ではレアル・マドリードFCバルセロナバレンシアCFに次ぐ4位に位置し、レアル・マドリード、バルセロナとともに一度もセグンダ・ディビシオン(2部)に降格したことがない3クラブのうちのひとつである[1]レアル・ソシエダとの対戦はバスク・ダービーとして盛り上がりを見せる。

ロス・レオネス(Los Leones、ライオンズ)というニックネームがある。マメスはローマ人によってライオンの群れの中に投げ入れられたキリスト教徒であるが、ライオンたちはマメスの捕食を拒み、そうして彼は後に聖人となった。

アスレティックはスペインにおいて株式会社化を行っていない4つのクラブ(その他はレアル・マドリード、バルセロナ、CAオサスナ)のうちのひとつであり、ソシオ(socios)と呼ばれる組合員によって所有され経営されている。女子チームはスーペルリーガ(女子1部)で4回優勝している。

クラブ方針

1912年に最後の外国人選手がクラブから去って以降、アスレティックは選手をバスク人に限定するというクラブ方針を守っており[1]、契約するプロ選手はバスク自治州ビスカヤ県ギプスコア県アラバ県)、ナバーラ州ラ・リオハ州出身者か、フランス領バスクラブールスールバス=ナヴァール出身者のみである。近年では規制が多少緩められ、直系の先祖にバスク出身者がいる選手はプレー可能となっている。この方針は賛否両論であるが、地元出身者を積極的にトップチームに昇格させることや、クラブの忠誠心などが称賛されている。かつてはライバルのソシエダもアスレティック同様の方針を持っていたが、1989年以降のソシエダはバスク人以外の選手(スペイン国外出身選手)とも契約を交わすようになった。アスレティックは外国人監督を招くことには積極的で、クラブ創設以降、多くのスペイン国外出身者が監督を務めた。クラブには、レサマ(Lezama)と呼ばれる下部組織のピラミッドを通して若いバスク人選手を育成するというカンテラ方針があり、また、ホセバ・エチェベリアハビ・マルティネスなど、他クラブからの優秀なバスク人選手のリクルートも行っている。

歴史

前身2クラブの合併

コパ・デル・レイ初優勝時の選手達(1903年)

イギリスに繋がりがある異なる2つの集団によって、ビルバオにサッカーがもたらされた。製鉄業や造船業などに従事したイギリス人労働者と、イギリス留学帰りのバスク人学生である。19世紀後半のビルバオは、近隣に鉄鉱石鉱山や造船所を抱えた一級の工業港湾であった。この地域はスペイン経済の推進力となり、結果として多くの労働者移民を引きつけ、中にはイングランド北東部から移住した炭鉱労働者、サウサンプトンポーツマスサンダランドから移住した造船業従事者もいた。彼らはサッカーとともに育ち、1890年代初頭にイギリス人労働者が集ってビルバオFC(Bilbao Football Club)を形成。バスク人学生らがイギリス人労働者たちの対戦相手となっていたが、学生らは土木工学や商学を修めるためにイギリスに渡った。イギリスでサッカーへの興味を深め、ビルバオに戻るとイギリス人労働者たちとの試合に手を加え始めた。1898年、Gymnasium Zamacoisという総合スポーツクラブに所属していた学生たちは、英語のスペルを用いたサッカーチーム、アスレティック・クラブ(Athletic Club)を設立[1]。1901年4月5日、カフェ・ガルシアで集会が開かれて公式にクラブの設立が宣言された[1]。1902年に初開催されたコパ・デル・レイには、ビルバオFCとアスレティック・クラブの合同チーム(クラブ・ビスカヤ、Club Bizcaya)として参戦し、クラブ・ビスカヤは決勝でFCバルセロナを破って優勝した[1]。1903年、2つのクラブは正式に合併してアスレティック・クラブ(Athletic Club)となった[1]。同年にはバスクの学生がアスレティック・クラブ・マドリードを形成し、このクラブは後にアトレティコ・マドリードに発展した。アスレティック・クラブの創設日はサッカー史家の間で議論の対象となっており、クラブ自身は1898年創立であると発表しているが、本当の設立年は1901年もしくは1903年であるとする意見もある。

初期のコパ・デル・レイでの躍進

アスレティックは初期のコパ・デル・レイで顕著な活躍を見せた。クラブ・ビスカヤによる第1回大会優勝に続いて、新しく形成されたアスレティック・ビルバオは1903年の第2回大会でも優勝を果たした。1904年には対戦相手のクルブ・エスパニョール・デ・マドリードがスタジアムに到着できず、アスレティックが自動的に優勝となった。1907年、ウニオン・ビスカイーノとの合同チームとしてクラブ・ビスカヤという名称が復活した。数年間の停滞期を挟み、1911年に再び優勝すると、1914年から1916年までは3年連続で優勝。このチームのスター選手は卓越したゴールスコアラーのピチーチであり、1915年のコパ・デル・レイ決勝ではハットトリックを達成した。彼の功績を称え、1953年以降のリーガ・エスパニョーラの得点王にはピチーチ賞というトロフィーが与えられている。

全国選手権創設と参入

1920年のバスク地方には、アスレティック以外にもレアル・ウニオンアレナス・クルブ・デ・ゲチョレアル・ソシエダなどのクラブがあった。これら4クラブは1928年の全国選手権(リーガ・エスパニョーラ)の創設メンバーとなり、1930年にはCDアラベスも加わった。当時のプリメーラ・ディビシオン(1部)は10クラブで構成されていたため、全国選手権のトップリーグの半数をバスク地方のクラブが占めることとなった。初期のアスレティックはCon cantera y afición, no hace falta importación(地元出身のチームやサポーターとともに! 外国人選手は必要ない)をスローガンとした。

ペントランド監督時代

1930-31シーズンのラ・リーガ優勝メンバー

1921年にはイングランド出身のフレッド・ペントランド監督が就任。彼はエル・ボンビンという愛称で知られ、ショートパスを多用するサッカーを好んでアスレティックのプレースタイルに変革を起こすと、1922-23シーズンにチームをコパ・デル・レイ優勝に導いた。ペントランド監督は1927年にアスレティックを離れ、アスレティック・マドリード(現在のアトレティコ・マドリード)、レアル・オビエドスペイン代表などの監督を歴任したが、1929年には再びアスレティックの監督に就任し、1929-30シーズンと1930-31シーズンには2シーズン連続でリーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成。特に前者のシーズンでは18試合12勝6分という成績でシーズン無敗優勝を果たしている。1930年から1933年まで4シーズン連続でコパ・デル・レイを制し、1932年と1933年には2シーズン連続でリーグ戦2位となった。1931年にはバルセロナに12-1で圧勝したが、これは現在でもバルセロナの最大得点差敗北記録として残っている。ペントランド監督は2度の在任期間中にチームを2回のリーグ優勝と5回のカップ優勝に導いた。

アトレティコ・ビルバオへの強制改名

フランシスコ・フランコの独裁時代には非スペイン語の名前の使用が禁止され、またバスク出身選手のみにプレーを許すというチーム方針が撤廃された(グランドペアレント・ルールの発端とされる)ため、1941年から1973年までの間は、アトレティコ・ビルバオ(Atlético Bilbao)に改名した。様々な面で厳しい時代であった1940年代には、下部組織で優秀な選手を育成することでクラブとしての競争力維持に努めた[1]。1941年にはテルモ・サラがデビューを飾り、以来13シーズンをアトレティコでプレーして公式戦通算294得点を積みあげた。サラはスペイン代表でも多くの試合に出場して20得点を挙げた。サラは1950-51シーズンに38得点を挙げたが、2010-11シーズンにレアル・マドリードのクリスティアーノ・ロナウドに塗り替えられるまで、この記録は50年間も1シーズン最多得点記録であり続けた。サラと同時代の著名選手にはホセ・ルイス・パニーソなどもいる。1942-43シーズンには、リーグ戦とカップ戦のダブル(2冠)を達成し、1944年と1945年にもコパ・デル・レイを獲得した。

1950年代前半にはラファ・イリオンドベナンシオ・ペレスアグスティン・ガインサなどの伝説的なフォワードが次々と現れ、彼らは1949-50シーズンのコパ・デル・ヘネラリシモ(現在のコパ・デル・レイ)優勝に貢献。1955年にはチェコスロバキア人のファーディナンド・ダウチク監督が就任し、クラブにいっそうの繁栄をもたらした。ダウチク監督は1955-56シーズンにリーグ戦とカップ戦のダブルを達成し、さらに1955年と1958年にもコパ・デル・ヘネラリシモで優勝。1956-57シーズンにはUEFAチャンピオンズカップに初出場し、準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)に敗れて敗退した。1957-58シーズンのコパ・デル・レイ決勝は栄華を極めていたレアル・マドリードとの対戦となったが、相手のホームであるエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウで勝利して優勝した。1930年代から1950年代にクラブの成功を助けたのは、各クラブに課された厳しい外国人選手数制限であった。多くの場合、クラブはメンバーの中に外国人選手を3人までしか入れられず、全ての試合で少なくとも8人のスペイン人選手がプレーした。レアル・マドリードとバルセロナは、アルフレッド・ディ・ステファノ(アルゼンチン出身)、プシュカーシュ・フェレンツ(ハンガリー出身)、ホセ・サンタマリア(ウルグアイ出身)、クバラ・ラースロー(ハンガリー出身)などの選手に二重国籍を取得させることでルールの裏をかいたが、アトレティコは自らのカンテラ方針を頑なに固持し、わずかの柔軟さも示さなかった。

1960年代のスペインサッカー界はレアル・マドリードに支配され、アトレティコはわずかに1度、1968-69シーズンにコパ・デル・レイを獲得しただけであった。国際的なクラブのように、アトレティコはグランドペアレント・ルールを採用し、バスク地域に先祖がいる選手の獲得を許容した。このルールにより、バルセロナ出身のアルマンド・メロディオのアトレティコでのプレーが可能となった。1960年代にはメロディオの他にも、ヘスス・マリア・ペレーダミゲル・ホネスホセ・エウロヒオ・ガラテなどがプレーを許された。この3選手はいずれもバスク生まれではなかったが(ガラテの両親はバスク人である)、いずれもバスク地域で育ち、バスク帰化人に区分された。1960年代前半にはホセ・アンヘル・イリバルが台頭し、守護神としてクラブのレジェンドの地位まで上り詰めた。

1970年代はあまり良い期間ではなく、1972-73シーズンに1度コパ・デル・レイを獲得しただけであった。1975年11月20日にフランコが死去して独裁体制が終焉すると、12月5日のレアル・ソシエダとの試合直前、アトレティコのキャプテンであるイリバルとソシエダのキャプテンであるイグナシオ・コルタバリアは、イクリニャと呼ばれるバスク国旗をセンターサークルまで運んで儀式的に広げた。フランコの死去以来、公共の場でバスク国旗が掲げられた初めての出来事であった。1976-77シーズンにはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴール差でユヴェントスFC(イタリア)に敗れた。これ以後、クラブはアスレティック・ビルバオに再改名した。

クレメンテ監督の黄金期とその後

1981年、ハビエル・クレメンテ監督が就任した。彼はすぐにチームの組織化に取り組み、クラブの歴史上最も成功を収めたチームのひとつを築いた。サンティアゴ・ウルキアガミゲル・デ・アンドレスイスマエル・ウルティビエスタニスラオ・アルゴーテアンドニ・スビサレッタマヌ・サラビアなどのカンテラ出身の若手選手が、ダニアンドニ・ゴイコエチェアなどのベテラン選手とうまく融合。クレメンテ監督の指揮下最初のシーズンはリーグ戦で4位となり、1982-83シーズンには27年ぶりのリーグタイトルを手にし、1983-84シーズンにはリーグとコパ・デル・レイのダブルを達成した。1984-85シーズンと1985-86シーズンにはリーグ戦で4位となった。クレメンテ監督のアスレティックは、頑強なゴイコエチェアに象徴されるような荒々しいプレースタイルで悪名高かった。クレメンテ監督は、2人の守備的ミッドフィールダーを計3人のディフェンダー(2人のセンターバックと1人のスイーパー)の前に配置することを好み、守備的だが効果的なフォーメーションであるとみなされた。クレメンテ監督退任後にはイリバル監督、ハワード・ケンドール監督、ユップ・ハインケス監督、ハビエル・イルレタ監督などが就任したが、加速度的に進んだ各クラブの国際化の波に飲まれ、主要なトロフィーを獲得できず、復帰したクレメンテ監督も2度目の成功は得られなかった。

フェルナンデス監督時代

クレメンテ監督以降で最も成功したアスレティックの監督は、1996年に就任したルイス・フェルナンデス監督である。1998年、彼はクラブをリーグ戦2位に導き、UEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得した。クラブがカンテラに対して採用した、それまでより柔軟なアプローチがフェルナンデスの利益となった。今日では、バスク地方のクラブの下部組織でプレーしさえすれば、誰もがアスレティックのトップチームでプレーすることができる。このように、1980年代後半には、サラマンカ出身のパチ・フェレイラや、ブラジル出身で幼少時代にバスク地方に移住したビセンテ・ビウルンなどがアスレティックでプレーした。フェルナンデス監督は初めてバスク系フランス人(ビセンテ・リザラズ)と契約し、イスマエル・ウルサイス、ホセ・マリなどがいたチームに加えた。バスク地方の他クラブの下部組織からも選手を引き抜きはじめたため、これらのクラブはアスレティックに対して領土侵害であると主張。1995年、アスレティックはバスク・ダービーを争うライバルのソシエダからホセバ・エチェベリアを引き抜き、両クラブ間に険悪な感情が引き起こされた。リザラズは1シーズン後にアスレティックを離れたが、ウルサイス、ホセ・マリ、エチェベリアなどが1997-98シーズンの中心選手となり、ラファエル・アルコルタジュレン・ゲレーロ、パチ・フェレイラなどとともに戦った。

21世紀

暗黒の2年間

2001年から2003年まで率いたハインケス監督時代(2度目)、2003年から2005年まで率いたエルネスト・バルベルデ監督時代を経て、2005-06シーズンと2006-07シーズンのアスレティックは残留争いに巻き込まれた。2005-06シーズンは苦戦を強いられ、クラブ史上初のセグンダ・ディビシオン降格の危機に遭った。最下位のチームの指揮を引き継いだクレメンテ監督(3度目の就任)は、指揮したチームに守備的な安定をもたらすことで広く知られており、降格からチームを救うことが期待された。37節、エスタディオ・リアソルで行われたデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦(2-1)に勝利してトップリーグ残留を決めると、残留を果たしたにもかかわらず、クレメンテ監督は2006-07シーズンの指揮を執ることなく退任。2006-07シーズンは前年度よりも厳しい戦いを強いられ、クラブ史上最悪のシーズンとなった。特にディフェンスが崩壊し、失点数は最下位のジムナスティック・タラゴナに次いでワースト2位の数字を記録。シーズン終盤まで降格圏付近に位置したが、シーズン最終節、サン・マメスでのレバンテUD戦(2-0)に勝利して辛くもトップリーグ残留を決めた。

カパロス監督時代

2007-08シーズン序盤は苦しむも、徐々にホアキン・カパロス新監督の戦術が浸透し、11位で残留を手にした。2008-09シーズンのアスレティックは再び見映えしない結果となり、前シーズンと比べれば早く残留を確実にしたが、順位表の中位でシーズンを終えた。しかしコパ・デル・レイでは、ライバルのオサスナや強豪のセビージャFCなど厄介な相手との対戦を切り抜け、同大会で24年ぶりに決勝に進出した。エスタディオ・デ・メスタージャで行われたバルセロナとの決勝には1-4で敗れたが、まったく不名誉な結果ではなく、高額年俸選手揃いのバルセロナはリーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグで傑出した結果を残していた。この準優勝により、アスレティックはUEFAカップから名称が変更されたUEFAヨーロッパリーグの出場権を得た。

2009-10シーズンは国内リーグでも欧州の舞台でも着実な進歩を遂げた。レアル・マドリードを破るなど、ホームでは立派な成績を残し、安定して順位表の上半分に位置した。UEFAヨーロッパリーグのグループリーグ、ヴェルダー・ブレーメン(ドイツ)との試合はホーム・アウェーともに完敗したが、CDナシオナル(ポルトガル)とFKアウストリア・ウィーン(オーストリア)からは計4試合で勝ち点10を獲得し、グループ2位で決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント1回戦ではRSCアンデルレヒト(ベルギー)と対戦し、ホームでのファーストレグには1-1で引き分けたが、アウェーのセカンドレグに0-4と大敗し、2試合合計1-5で敗退となった。リーグ戦ではアウェーの試合で脆さを見せたが、ホームでは11勝4分4敗の好成績を残し、わずかに欧州カップ戦出場権に及ばない8位でシーズンを終えた。若手有望株のハビ・マルティネスマルケル・スサエタオスカル・デ・マルコスなどが好パフォーマンスを披露し、エースのフェルナンド・ジョレンテや16歳のイケル・ムニアインがトップチームで飛躍的な成長を遂げた。シーズン終了後には、過去15シーズンに渡ってアスレティックで500試合以上に出場したエチェベリアが現役引退し[2]、赤白のシャツを着て300試合以上に出場したフランシスコ・ジェステが突然チームを離れた。

2010-11シーズン序盤にはジョレンテが何度も得点してチームを引っ張り、前向きなスタートを切った。アウェーでの成績は不安定であり、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できる4位への挑戦には不十分であったが、他クラブの不振からUEFAヨーロッパリーグ出場権獲得の可能性が生まれた。シーズン中盤には守備陣に負傷者や出場停止者が多発したが、それまでビルバオ・アスレティック(Bチーム)のメンバーでしかなかったボルハ・エキサがセンターバックのポジションに入り、堅実なプレーでシーズン終了までレギュラーを務めた。10代のムニアインはほとんどすべての試合に左ウイングとして先発出場し、巧妙なプレーでジョレンテやガイスカ・トケーロなどのフォワードにパスを供給した。18歳のホン・アウルテネチェもまたカパロス監督に強い印象を残し、深刻な怪我でシーズンを一足早く終えるまでは左サイドバックのレギュラーを務めた。シーズン終了前にはU-21スペイン代表のアンデル・エレーラとの契約が順調に進み、アスレティックはリーグ戦6位で欧州カップ戦の舞台への復帰を決めた。

ビエルサ監督時代

2011-12シーズン前にはソシオ(クラブ会員)全員が参加した会長選が行われ、現職のフェルナンド・ガルシア・マクア会長は、選手として長くアスレティックに在籍したホス・ウルティアに敗北[3]。ウルティア新会長の公約にはアルゼンチン代表前監督のマルセロ・ビエルサ招聘が含まれており[4]、その公約通りビエルサが監督に就任した。ビエルサ監督は2010 FIFAワールドカップチリ代表をベスト16へと導いており、2002-03シーズンまで指揮を執ったハインケス監督(ドイツ)以来、8シーズンぶりの外国人監督であった[5][6]。在任期間中にアスレティックの名声を回復したカパロス監督は契約満了によりアスレティックを去った。ビエルサ監督は型にはまらないフォーメーションや戦術を採用し、チームの変革に取り組んだ。何人かの選手は本来のポジションとは異なるポジションでプレー。2010 FIFAワールドカップ優勝メンバーのハビ・マルティネスは足元の技術を見込まれてセンターバックに転向し、デ・マルコスは本来ミッドフィールダーであるが左サイドバックとしても起用された。シーズン序盤の成績は不安定であり、エレーラの負傷離脱などもあったが、シーズンが進むにつれて選手たちは戦術変更に適応し始め、7節のバスク・ダービーに勝利してシーズン初勝利を挙げると、2011年秋にはパリ・サンジェルマンFC(UEFAヨーロッパリーグ)、オサスナ、セビージャなどに勝利し、バレンシアCFやバルセロナなどから勝ち点1をもぎ取った。6節から19節までの15試合で敗れたのはグラナダCF戦の1試合のみであった。UEFAヨーロッパリーグではグループリーグを首位で通過し、決勝トーナメント1回戦ではFCロコモティフ・モスクワ(ロシア)を撃破。決勝トーナメント2回戦ではマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)と対戦し、オールド・トラッフォードで行われたファーストレグに3-2で勝利すると、ホームで行われたセカンドレグに2-1で勝利して2試合合計5-3での勝ち上がりを決めた。シャルケ04(ドイツ)と対戦した準々決勝ファーストレグでは、相手フォワードのラウール・ゴンサレスが2得点を挙げるなど、72分の時点で1-2とリードされていたが、その後アスレティックが立て続けに得点して4-2で勝利した。セカンドレグは2-2の引き分けで終え、2試合合計6-4でスポルティング・リスボンとの準決勝進出を決めた。ポルトガルで行われた準決勝ファーストレグには1-2で敗れたが、セカンドレグは89分のジョレンテの得点などで3-1と勝利し、2試合合計4-3で決勝進出を決めた。5月9日にルーマニアの首都ブカレストにあるアレーナ・ナツィオナラで行われた決勝では、アトレティコ・マドリードに0-3で敗れて準優勝に終わった[7]

スタジアム

2013年までホームスタジアムであった旧サン・マメスは当時スペイン最古のスタジアムであった[1]。このスタジアムはサン・マメスという教会のそばに建てられたため、ラ・カテドラル(La Catedral、大聖堂)という愛称を持つ。当初の収容人数は7,000人であり、1913年8月21日のラシン・イルン戦(1-1)が初試合となった[1]。この試合ではセベ・スアソのキックオフによって試合が開始され、ピチーチがスタジアム最初の得点者となった[1]1982 FIFAワールドカップではグループリーグの数試合が行われた。2013年6月5日に長い歴史に幕を下ろし、翌日から取り壊された。2013年9月16日に新スタジアムのサン・マメス・バリアセルタ・デ・ビーゴ戦でこけら落としとなった。

ユニフォーム

デザインの変遷

1903 1910 1913 1950 1970 1982 1996 2004 2009
1921年のコパ・デル・レイ優勝時

黎明期のアスレティックは間に合わせの白いシャツでプレーしていたが、1902-03シーズン、ブラックバーン・ローヴァーズFC(イングランド)と似たような青色と白色の縦縞のシャツが、フアン・モセールによって提供された。1909年には、クリスマスをロンドンで過ごしていたフアン・エロルドゥイという名前のビルバオ出身学生が、25枚の新しいシャツを購入するようクラブに頼まれたが、彼は十分な量を探し出せなかった。手ぶらでビルバオ行きの船を待っている最中、エロルドゥイは港近くのサウサンプトンFCのチームカラーがビルバオの街と調和していると感じ、50枚の赤白のシャツを購入して持ち帰った。クラブの首脳陣はユニフォームカラ―変更を即決し、1910年以降は赤色と白色の縦縞のシャツを着てプレーするようになった。エロルドゥイが購入した50枚のうちの半分は兄弟クラブのアトレティコ・マドリードに送られた。青白のシャツから赤白のシャツに切り替わる前、スペインで赤白のシャツを採用していたのはスポルティング・ヒホン(1905年より)のみであった[8][9]

スポンサーとサプライヤー

期間[10] サプライヤー[10] 胸スポンサー[10]
1982–1990 アディダス なし
1990–1999 Kappa
1999–2001 アディダス
2001–2008 100% Athletic
2008–2009 ペトロノール(石油)
2009–2017 アンブロ

スペインの主要クラブの中では、バルセロナと同様に最後までユニフォーム広告を拒んだクラブであったが、2004-05シーズンのUEFAカップとコパ・デル・レイでは、バスク自治州政府から数十万ユーロのスポンサー料を得て、シャツの胸に緑色の文字でエウスカディ(Euskadi)と記した[11]。赤・白・緑はバスクカラーである。2008年には、クラブ史上初めてとなる胸スポンサーとの契約に踏み切り、年額200万ユーロ以上のスポンサー料を得て、ビスカヤ県に拠点を置く石油会社のペトロノールのロゴを胸に入れた[12]。また、ユニフォームは1990年から1999年までkappaが製造していたが、クラブ自身が製造していた時期もあり、国外で入手するのが困難であった。2009年、イギリスのスポーツ用品ブランドであるアンブロと、ユニフォームの提供に関して2017年までの長期契約を結んだ[13]

タイトル

国内タイトル

1929-30, 1930-31, 1933-34, 1935-36, 1942-43, 1955-56, 1982-83, 1983-84
1902, 1903, 1904, 1910, 1911, 1914, 1915, 1916, 1921, 1923, 1930, 1931, 1932, 1933, 1943, 1944, 1945, 1950, 1955, 1956, 1958, 1969, 1973, 1984
1984

国際タイトル

成績

優勝 準優勝 3位/ベスト4 ピチーチ賞
シーズン リーガ・エスパニョーラ 国王杯[14] 欧州カップ その他 最多得点者[15]
ディビジョン 順位 試合数 得点 失点 勝ち点 選手 得点数
1898–99 全国選手権発足前
1899–1900
1900–01
1901–02 優勝
1902–03 優勝
1903–04 優勝
1904–05 準優勝
1905–06 準優勝
1906–07
1907–08
1908–09
1909–10 優勝
1910–11 優勝
1911–12
1912–13 準優勝
1913–14 優勝 地域リーグ 優勝
1914–15 優勝 地域リーグ 優勝
1915–16 優勝 地域リーグ 優勝
1916–17 地域リーグ
1917–18 地域リーグ
1918–19 地域リーグ
1919–20 準優勝 地域リーグ 優勝
1920–21 優勝 地域リーグ 優勝
1921–22 地域リーグ
1922–23 優勝 地域リーグ 優勝
1923–24 ベスト4 地域リーグ 優勝
1924–25 GS敗退 地域リーグ
1925–26 GS敗退 地域リーグ 優勝
1926–27 GS敗退 地域リーグ
1927–28 GS敗退 地域リーグ 優勝
1928–29 ラ・リーガ 3位 18 8 4 6 43 33 20 ベスト4 地域リーグ 優勝 ウナムーノ 20
1929–30 ラ・リーガ 優勝 18 12 6 0 63 28 30 優勝 地域リーグ ゴロスティサ[16] 28
1930–31 ラ・リーガ 優勝 18 11 0 7 73 33 22 優勝 地域リーグ 優勝 バタ[17] 37
1931–32 ラ・リーガ 2位 18 11 3 4 47 23 25 優勝 地域リーグ 優勝 ゴロスティサ[18] 21
1932–33 ラ・リーガ 2位 18 13 0 5 63 30 26 優勝 地域リーグ 優勝 バタ 22
1933–34 ラ・リーガ 優勝 18 11 2 5 61 27 24 ベスト8 地域リーグ 優勝 バタ 19
1934–35 ラ・リーガ 4位 22 11 3 8 60 37 25 ベスト16 バスク・カップ 優勝 バタ 16
1935–36 ラ・リーガ 優勝 22 14 3 5 59 33 31 ベスト8 バスク・カップ バタ 24
1936–37 スペイン内戦のため開催されず
1937–38
1938–39
1939–40 ラ・リーガ 3位 22 11 4 7 57 44 26 2回戦敗退 ウナムーノ[19] 26
1940–41 ラ・リーガ 2位 22 13 5 4 49 24 31 ベスト16 ウナムーノ 12
1941–42 ラ・リーガ 7位 26 10 7 9 55 41 27 準優勝 サラ 29
1942–43 ラ・リーガ 優勝 26 16 4 6 73 38 36 優勝 サラ 27
1943–44 ラ・リーガ 10位 26 10 5 11 47 51 25 優勝 サラ 21
1944–45 ラ・リーガ 6位 26 14 2 10 54 41 30 優勝 サラ[16] 34
1945–46 ラ・リーガ 3位 26 15 5 7 63 38 33 ベスト16 コパ・デ・オロ 準優勝 サラ[20] 24
1946–47 ラ・リーガ 2位 26 15 4 7 72 38 34 ベスト4 サラ[21] 33
1947–48 ラ・リーガ 6位 26 12 4 10 56 44 28 ベスト16 パニーソ 17
1948–49 ラ・リーガ 6位 26 11 2 13 61 63 24 準優勝 サラ 31
1949–50 ラ・リーガ 6位 26 12 5 9 72 66 29 優勝 サラ[22] 36
1950–51 ラ・リーガ 7位 30 15 3 12 88 56 33 ベスト4 コパ・エバ・ドゥアルテ 優勝 サラ[23] 46
1951–52 ラ・リーガ 2位 30 17 6 7 78 46 40 ベスト16 ベナンシオ 18
1952–53 ラ・リーガ 6位 30 14 4 12 83 52 32 準優勝 サラ[20] 25
1953–54 ラ・リーガ 6位 30 12 8 10 54 44 32 ベスト8 E・アリエタ 17
1954–55 ラ・リーガ 3位 30 15 9 6 78 39 39 優勝 E・アリエタ 23
1955–56 ラ・リーガ 優勝 30 22 4 4 79 31 48 優勝 ラテン・カップ 準優勝 Artetxe 20
1956–57 ラ・リーガ 4位 30 16 5 9 59 45 37 ベスト16 チャンピオンズカップ ベスト8 マルカイダ 12
1957–58 ラ・リーガ 6位 30 14 4 12 56 48 32 優勝 Artetxe 17
1958–59 ラ・リーガ 3位 30 17 2 11 72 33 36 ベスト16 ウリベ 16
1959–60 ラ・リーガ 3位 30 19 1 10 74 45 39 ベスト4 E・アリエタ 20
1960–61 ラ・リーガ 7位 30 12 6 12 42 41 30 ベスト8 E・アリエタ 14
1961–62 ラ・リーガ 5位 30 12 8 10 52 38 32 ベスト8 E・アリエタ 15
1962–63 ラ・リーガ 10位 30 10 8 12 41 40 28 ベスト16 アルゴイティア 9
1963–64 ラ・リーガ 8位 30 12 5 13 43 40 29 2回戦敗退 E・アリエタ 8
1964–65 ラ・リーガ 7位 30 13 6 11 36 41 32 ベスト4 フェアーズカップ ベスト8 A・アリエタ 15
1965–66 ラ・リーガ 5位 30 14 6 10 43 32 34 準優勝 オルマサ 16
1966–67 ラ・リーガ 7位 30 11 9 10 43 36 31 準優勝 フェアーズカップ 1回戦敗退 ペケーニャ・コパ・デル・ムンド 優勝 アルゴイティア 16
1967–68 ラ・リーガ 7位 30 11 10 9 51 28 32 ベスト8 フェアーズカップ ベスト8 ウリアルテ[24] 26
1968–69 ラ・リーガ 11位 30 10 8 12 42 46 28 優勝 フェアーズカップ ベスト8 ウリアルテ 9
1969–70 ラ・リーガ 2位 30 17 7 6 44 20 41 ベスト4 カップウィナーズカップ 1回戦敗退 スビアガ 12
1970–71 ラ・リーガ 5位 30 14 7 9 40 31 35 ベスト16 フェアーズカップ 1回戦敗退 ウリアルテ 12
1971–72 ラ・リーガ 9位 34 15 4 15 39 32 34 ベスト4 UEFAカップ 2回戦敗退 ウリアルテ 17
1972–73 ラ・リーガ 9位 34 12 9 13 41 38 33 優勝 ロホ 9
1973–74 ラ・リーガ 5位 34 15 7 12 35 31 37 5回戦敗退 カップウィナーズカップ 2回戦敗退 ラサ 7
1974–75 ラ・リーガ 10位 34 13 7 14 40 42 33 ベスト4 ルイス[16] 21
1975–76 ラ・リーガ 5位 34 14 11 9 43 38 39 4回戦敗退 ダニ 14
1976–77 ラ・リーガ 3位 34 15 8 11 55 45 38 準優勝 UEFAカップ 準優勝 ダニ 29
1977–78 ラ・リーガ 3位 34 16 8 10 62 36 40 ベスト16 UEFAカップ 3回戦敗退 ダニ 25
1978–79 ラ・リーガ 9位 34 12 10 12 56 46 34 ベスト16 UEFAカップ 1回戦敗退 ダニ 15
1979–80 ラ・リーガ 7位 34 15 5 14 52 44 35 ベスト16 ダニ 30
1980–81 ラ・リーガ 9位 34 14 7 13 64 53 35 ベスト4 ルイス 21
1981–82 ラ・リーガ 4位 34 18 4 12 63 41 40 ベスト8 ダニ 18
1982–83 ラ・リーガ 1位 34 22 6 6 71 36 50 ベスト8 UEFAカップ 1回戦敗退 ダニ 22
1983–84 ラ・リーガ 1位 34 20 9 5 53 30 49 優勝 チャンピオンズカップ 2回戦敗退 スーペルコパ 準優勝 サラビア 10
1984–85 ラ・リーガ 3位 34 13 15 6 39 26 41 準優勝 チャンピオンズカップ 1回戦敗退 スーペルコパ 優勝 ダニ 9
1985–86 ラ・リーガ 3位 34 17 9 8 44 31 43 ベスト4 UEFAカップ 3回戦敗退 サラビア 8
1986–87 ラ・リーガ 13位 34 11 9 14 39 40 31 ベスト4 UEFAカップ 2回戦敗退 サラビア 12
1987–88 ラ・リーガ 4位 38 17 12 9 50 43 46 ベスト16 ウラルデ 17
1988–89 ラ・リーガ 7位 38 15 12 11 45 35 42 ベスト16 UEFAカップ 2回戦敗退 ウラルデ 17
1989–90 ラ・リーガ 12位 38 11 15 12 37 39 37 ベスト16 ガリターノ 7
1990–91 ラ・リーガ 12位 38 15 6 17 41 50 36 5回戦敗退 バルベルデ 16
1991–92 ラ・リーガ 14位 38 13 7 18 38 58 33 ベスト8 シガンダ 12
1992–93 ラ・リーガ 8位 38 17 6 15 53 49 40 3回戦敗退 シガンダ 16
1993–94 ラ・リーガ 5位 38 16 11 11 61 47 43 4回戦敗退 シガンダ 20
1994–95 ラ・リーガ 8位 38 16 10 12 39 42 42 ベスト8 UEFAカップ 3回戦敗退 ゲレーロ 16
1995–96 ラ・リーガ 15位 42 11 15 16 44 55 48 ベスト16 エチェベリア 10
1996–97 ラ・リーガ 6位 42 16 16 10 72 57 64 4回戦敗退 シガンダ 17
1997–98 ラ・リーガ 2位 38 17 14 7 52 42 65 ベスト8 UEFAカップ 2回戦敗退 エチェベリア 13
1998–99 ラ・リーガ 8位 38 17 9 12 53 47 60 ベスト16 チャンピオンズリーグ GS敗退 ウルサイス 17
1999–2000 ラ・リーガ 11位 38 12 14 12 47 57 50 2回戦敗退 エチェベリア 11
2000–01 ラ・リーガ 13位 38 11 10 17 44 60 43 ベスト16 ウルサイス 13
2001–02 ラ・リーガ 9位 38 14 11 13 54 66 53 ベスト4 ウルサイス 18
2002–03 ラ・リーガ 7位 38 15 10 13 63 61 55 ベスト32 ウルサイス 15
2003–04 ラ・リーガ 5位 38 15 11 12 53 53 56 ベスト64 ジェステ 11
2004–05 ラ・リーガ 9位 38 14 9 15 59 54 51 ベスト4 UEFAカップ ベスト32 ウルサイス 12
2005–06 ラ・リーガ 12位 38 11 12 15 40 46 45 ベスト16 インタートトカップ 2回戦敗退 アドゥリス 6
2006–07 ラ・リーガ 17位 38 10 10 18 44 62 40 ベスト32 ウルサイス 8
2007–08 ラ・リーガ 11位 38 13 11 14 40 43 50 ベスト8 F・ジョレンテ 12
2008–09 ラ・リーガ 13位 38 12 8 18 47 62 44 準優勝 F・ジョレンテ 18
2009–10 ラ・リーガ 8位 38 15 9 14 50 53 54 ベスト32 UEFAヨーロッパリーグ ベスト32 スーペルコパ 準優勝 F・ジョレンテ 22
2010–11 ラ・リーガ 6位 38 18 4 16 59 55 58 ベスト16 F・ジョレンテ 19
2011–12 ラ・リーガ 10位 38 12 13 13 49 52 49 準優勝 UEFAヨーロッパリーグ 準優勝 F・ジョレンテ 29
2012–13 ラ・リーガ 12位 38 12 9 17 44 65 45 アドゥリス 14

記録と統計

現所属メンバー

2013年9月3日時点

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK スペイン ゴルカ・イライソス
2 FW スペイン ガイスカ・トケーロ
4 DF フランス エメリック・ラポルト
5 DF スペイン エリク・モラン
6 DF スペイン ミケル・サン・ホセ
7 MF スペイン ベニャ・エチェバリア
8 MF スペイン アンデル・イトゥラスペ
9 FW スペイン キケ・ソラ
10 FW スペイン オスカル・デ・マルコス
11 FW スペイン イバイ・ゴメス
12 DF スペイン ウナイ・アルビスア
13 GK スペイン イアゴ・エレリン
No. Pos. 選手名
14 MF スペイン マルケル・スサエタ
15 DF スペイン アンドニ・イラオラ
16 DF スペイン シャビエル・エチェイタ
17 MF スペイン ミケル・リコ
18 MF スペイン カルロス・グルペギ ()
19 FW スペイン イケル・ムニアイン
20 FW スペイン アリツ・アドゥリス
21 MF スペイン アンデル・エレーラ
22 DF スペイン エンリク・サボリト
23 DF スペイン ボルハ・エキサ
24 DF スペイン ミケル・バレンシアガ
28 DF スペイン ギジェルモ・フェルナンデス

ローン移籍中の選手

in 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名

out 注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- GK スペイン ラウル・フェルナンデス (ヌマンシア)
-- DF スペイン ホナス・ラマーリョ (ジローナ)
-- DF スペイン ホン・アウルテネチェ (セルタ)
No. Pos. 選手名
-- MF スペイン イニゴ・ペレス (マヨルカ)
-- MF スペイン イニゴ・ルイス・デ・ガラレタ (ミランデス)

2013年夏の移籍

歴代監督

20世紀[25]
監督(1910–63)   監督(1963–00)
1910–14 イングランドの旗 シェパード 1963–64 スペインの旗 フアン・オチョアンテサーナ
1914–15 イングランドの旗 ビリー・バーンズ 1964–65 スペインの旗 アントニオ・バリオス(2度目)
1915–19 監督不在 1965–68 スペインの旗 アグスティン・ガインサ
1919–21 イングランドの旗 ビリー・バーンズ (2度目) 1968–69 スペインの旗 ラファエル・イリオンド
1921–22 イングランドの旗 バートン 1969–71 イングランドの旗 ロニー・アレン
1922–25 スペインの旗 フアン・アルスアガ 1971–72 スペインの旗 サルバドール・アルティガス
1925–26 イングランドの旗 ラルフ・カービィ / イングランドの旗 フレッド・ペントランド 1972–74 ユーゴスラビアの旗 Milorad Pavić
1926–29 ハンガリーの旗 Lippo Hertzka 1974–75 スペインの旗 ラファエル・イリオンド (2度目)
1929–33 イングランドの旗 フレッド・ペントランド(2度目) 1975–79 スペインの旗 コルド・アギーレ
1933–35 スペインの旗 パトリシオ・カイセド 1979–81 オーストリアの旗 ヘルムート・ゼネコウィッツ
1935–37 イングランドの旗 ウィリアム・ガーバット / スペインの旗 ホセ・マリア・オラバリア 1981 スペインの旗 イニャキ・サエス
1939–41 スペインの旗 ロベルト・エチェバリア 1981年7月-1986年6月 スペインの旗 ハビエル・クレメンテ
1940–47 スペインの旗 フアン・ウルキース 1986–87 スペインの旗 ホセ・アンヘル・イリーバル
1947–49 イングランドの旗 ヘンリー・ジョン・バッジ 1987年7月-1989年11月 イングランドの旗 ハワード・ケンドール
1949–52 スペインの旗 ホセ・イララゴーリ 1989年11月-1990年6月 スペインの旗 ホセ・フランシスコ・ロホ
1952–54 スペインの旗 アントニオ・バリオス 1990年7月-1991年3月 スペインの旗 ハビエル・クレメンテ(2度目)
1955–57 チェコスロバキアの旗 ファーディナンド・ダウチク 1991年-1992年6月 スペインの旗 イニャキ・サエス(2度目) / スペインの旗 ヘスス・アラングレン
1957–58 スペインの旗 バルタサール・アルベニス 1992年7月-1994年6月 ドイツの旗 ユップ・ハインケス
1958–60 ブラジルの旗 マルティム・フランシスコ 1994年7月-1995年3月 スペインの旗 ハビエル・イルレタ
1960–62 スペインの旗 フアン・アントニオ・イピーニャ 1995年7月-1996年6月 ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ドラゴスラヴ・ステパノヴィッチ / スペインの旗 ホセ・マリア・アモロルトゥ
1962–63 スペインの旗 アンヘル・スビエタ 1996年7月-2000年6月 フランスの旗 ルイス・フェルナンデス
21世紀[25]
監督
2000年7月-2001年6月 スペインの旗 ホセ・フランシスコ・ロホ
2001年7月-2003年6月 ドイツの旗 ユップ・ハインケス(2度目)
2003年7月-2005年6月 スペインの旗 エルネスト・バルベルデ
2005年7月-2005年10月 スペインの旗 ホセ・ルイス・メンディリバル
2005年10月-2006年6月 スペインの旗 ハビエル・クレメンテ(3度目)
2006年7月-2006年11月 スペインの旗 フェリクス・サリウガルテ
2006年11月-2007年6月 スペインの旗 マネ
2007年7月-2011年6月 スペインの旗 ホアキン・カパロス
2011年7月-2013年6月 アルゼンチンの旗 マルセロ・ビエルサ
2013年6月- スペインの旗 エルネスト・バルベルデ(2度目)

歴代所属選手

GK

DF

MF

FW

脚註

  1. ^ a b c d e f g h i j Athletic Bilbao FIFA.com
  2. ^ 最終章を満喫するエチェベリアGoal.com、2009年12月15日
  3. ^ A・ビルバオ、新会長就任で大変革WOWOWリーガニュース、2011年7月8日
  4. ^ ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約Goal.com、2011年7月1日
  5. ^ 伝統を放棄して180度の方向転換。“革新派”A・ビルバオの魅力。 Number Web、2011年12月15日
  6. ^ バルサファンも絶賛するA・ビルバオ。欧州で話題沸騰中の超攻撃サッカー。 Number Web、2012年4月4日
  7. ^ 轟くファルカオの咆哮、アトレティコが2シーズンぶりのEL制覇Goal.com、2012年5月10日
  8. ^ Agiriano, Jon. “Los Colores del Siglo”. 2011年2月28日閲覧。
  9. ^ Camisetas Inglesas (In Spanish)”. Athletic Club. 2011年2月28日閲覧。
  10. ^ a b c http://www.athletic-club.net/pdfsrevista/234.pdf
  11. ^ La estrenan mañanaDeia daily、2004年11月30日
  12. ^ El Athletic firma con Petronor un acuerdo para lucir publicidad en su camiseta por 2 millones de euros Europa Press、2008年7月29日
  13. ^ Acuerdo con Umbro”. Athletic-club.net. 2012年3月10日閲覧。
  14. ^ Spanish Cup Winners
  15. ^ リーガ・エスパニョーラ, コパ・デル・レイ, スーペルコパ・デ・エスパーニャ, コパ・デ・ラ・リーガ, コパ・エバ・ドゥアルテ, UEFAチャンピオンズリーグ, UEFAカップウィナーズカップ, UEFAヨーロッパリーグ, ラテン・カップでの総得点
  16. ^ a b c ラ・リーガで19得点を挙げている 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "19 goals"が異なる内容で複数回定義されています
  17. ^ ラ・リーガで27得点を挙げている
  18. ^ ラ・リーガで12得点を挙げている
  19. ^ ラ・リーガで26得点している
  20. ^ a b ラ・リーガで24得点している
  21. ^ ラ・リーガで34得点している
  22. ^ ラ・リーガで25得点している
  23. ^ ラ・リーガで38得点している
  24. ^ ラ・リーガで22している
  25. ^ a b Athletic Club trainers”. Athletic-club.net. 2009年12月3日閲覧。

外部リンク


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