「矢口陽子」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
YuanataIvander (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
→人物: 詳細追加 |
||
47行目: | 47行目: | ||
==人物== |
==人物== |
||
昭和高等女学校(現・[[昭和女子大学附属昭和中学校・高等学校|昭和女子大学附属昭和高等学校]])中退。1937年に若園照美の芸名で[[松竹歌劇団|松竹少女歌劇団]]入団。1940年[[東宝映画]]に移籍。1944年に黒澤の2本目の監督作品『[[一番美しく]]』に主演する。1945年に黒澤と結婚(挙式は[[明治神宮]]。[[媒酌人]]は[[山本嘉次郎]]夫妻。)して女優を引退した。 |
昭和高等女学校(現・[[昭和女子大学附属昭和中学校・高等学校|昭和女子大学附属昭和高等学校]])中退。1937年に若園照美の芸名で[[松竹歌劇団|松竹少女歌劇団]]入団。1940年[[東宝映画]]に移籍。1944年に黒澤の2本目の監督作品『[[一番美しく]]』に主演する。1945年に黒澤と結婚(挙式は[[明治神宮]]。[[媒酌人]]は[[山本嘉次郎]]夫妻。)して女優を引退した。引退後は家庭に入り、黒澤が気持ちよく映画を撮れるように、内助の功を発揮した。女優から嫁に来ているが、料理が出来ないと監督の嫁は務まらないと思い料理を勉強し、宴会の準備、黒澤だけでなくスタッフの弁当作りまでやっていたという。周りからはゴッドマザーの愛称で呼ばれ、娘の和子によると、唯一黒澤が頭が上がらなかった人だと言う。黒澤との結婚のいきさつについては諸説あるものの、矢口によると、黒澤の方が積極的で、たくさんの手紙をもらい口説かれたと語っている。 |
||
結婚後は、黒澤が外国の土産に妻のために服を買ってきた時、それが小柄な矢口にはとても大きすぎて、「何十年も一緒に暮らしているのに、私の大きさも知らないで」と嘆いたが、それほど当時の黒澤の頭には映画のことしかなかったというエピソードになっている。[[『黒澤明「夢は天才である』文藝春秋1999年]] |
|||
== 出演作品 == |
== 出演作品 == |
2014年1月3日 (金) 10:08時点における版
やぐち ようこ 矢口 陽子 | |
---|---|
本名 | 黒澤喜代 |
別名義 | 若園照美 |
生年月日 | 1921年8月27日 |
没年月日 | 1985年2月1日(63歳没) |
出生地 | 香港 |
活動期間 | 1937-1945 |
配偶者 | 黒澤明 |
著名な家族 |
黒澤久雄(息子) 黒澤和子(娘) |
主な作品 | |
『一番美しく』 |
矢口 陽子(やぐち ようこ、1921年8月27日 - 1985年2月1日)は日本の女優。戸籍上の本名は黒澤喜代(旧姓:加藤)だが、実生活では「喜代子」と名乗っていた。夫は映画監督の黒澤明。
人物
昭和高等女学校(現・昭和女子大学附属昭和高等学校)中退。1937年に若園照美の芸名で松竹少女歌劇団入団。1940年東宝映画に移籍。1944年に黒澤の2本目の監督作品『一番美しく』に主演する。1945年に黒澤と結婚(挙式は明治神宮。媒酌人は山本嘉次郎夫妻。)して女優を引退した。引退後は家庭に入り、黒澤が気持ちよく映画を撮れるように、内助の功を発揮した。女優から嫁に来ているが、料理が出来ないと監督の嫁は務まらないと思い料理を勉強し、宴会の準備、黒澤だけでなくスタッフの弁当作りまでやっていたという。周りからはゴッドマザーの愛称で呼ばれ、娘の和子によると、唯一黒澤が頭が上がらなかった人だと言う。黒澤との結婚のいきさつについては諸説あるものの、矢口によると、黒澤の方が積極的で、たくさんの手紙をもらい口説かれたと語っている。 結婚後は、黒澤が外国の土産に妻のために服を買ってきた時、それが小柄な矢口にはとても大きすぎて、「何十年も一緒に暮らしているのに、私の大きさも知らないで」と嘆いたが、それほど当時の黒澤の頭には映画のことしかなかったというエピソードになっている。『黒澤明「夢は天才である』文藝春秋1999年
出演作品
外部リンク