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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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母の矢部禅尼は最初[[北条泰時]]に嫁いでいたが、離縁して[[佐原盛連]]に再縁したという経緯を持つ。両者との間に[[北条時氏]]盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった。
母の矢部禅尼は最初[[北条泰時]]に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。両者との間に[[北条時氏]]盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった。


そのか、宝治合戦では嫡流の[[三浦泰村|泰村]]らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の[[北条時頼]]に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を[[陸奥国]]糠部五戸郡の[[地頭代]]に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて[[得宗被官]]になっていたという。
そのためか、宝治合戦では嫡流の[[三浦泰村|泰村]]らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の[[北条時頼]]に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を[[陸奥国]]糠部五戸郡の[[地頭代]]に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて[[得宗被官]]になっていたという。


宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、[[奥州合戦]]の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『[[吾妻鏡]]』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている<ref>『時頼と時宗』55ページ、『吾妻鏡事典』275ページ</ref>
宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、[[奥州合戦]]の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『[[吾妻鏡]]』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている<ref>『時頼と時宗』55ページ、『吾妻鏡事典』275ページ</ref>


合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜った。
合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜った。
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宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や[[放生会]]などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという<ref>『北条氏系譜人名辞典』三浦盛時の項</ref>。
宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や[[放生会]]などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという<ref>『北条氏系譜人名辞典』三浦盛時の項</ref>。


[[1263年]]に時頼が没すると、兄弟の光盛時連と揃って出家し、浄蓮と号した。
[[弘長]]3年([[1263年]]に時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・新宮時連と揃って出家し、浄蓮と号した。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2013年10月19日 (土) 16:19時点における版

 
三浦 盛時
時代 鎌倉時代中期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 浄蓮(法名)
別名 五郎(通称)、三浦介
官位 従五位下、左衛門尉、相模介
幕府 鎌倉幕府
主君 藤原頼経頼嗣宗尊親王
氏族 佐原氏相模三浦氏
父母 父:佐原盛連、母:矢部禅尼
兄弟 猪苗代経連、北田広盛、藤倉盛義、蘆名光盛、盛時、新宮時連
異父兄:北条時氏
正室:北条時員の娘
重連、頼盛
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三浦 盛時(みうら もりとき)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人三浦氏佐原流の出身。

生涯

貞永元年(1232年)、将軍藤原頼経鶴岡八幡宮を参詣する際に供奉人として参列したのが史料上の初見となる。仁治2年(1241年)、頼経が明王院北斗堂の供養の為に行列を組んだ時は御家人役の一人に名が見える。宝治元年(1247年)、宝治合戦後の京都大番役の再編の際には三浦介として御家人役を分担し、建長4年(1252年)に宗尊親王が鶴岡八幡宮に参詣した際には後陣の随兵として名が見える。

母の矢部禅尼は最初北条泰時に嫁いでいたが、離縁して佐原盛連に再縁したという経緯を持つ。両者との間に北条時氏・盛時ら兄弟を儲けており、盛時は時氏と異父兄弟の関係にあった。それゆえ得宗との血縁的な結びつきが強かった。

そのためか、宝治合戦では嫡流の泰村らとは袂を分かち、佐原流三浦一族を率いて甥の北条時頼に与した。合戦に先んじて、時頼は盛時を陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命しており、既に盛時は時頼に懐柔されて得宗被官になっていたという。

宝治合戦の直前、津軽の海辺に「人間の死骸のような」魚が漂着するという事件があった。盛時はこの顛末を時頼に報告し、更に、奥州合戦の直前にも酷似した現象があったことから、合戦の予兆であるとも指摘した。この話は『吾妻鏡』に収録されており、盛時が宗家の泰村の「征伐」を時頼に教唆したことを示すものではないかとも解釈されている[1]

合戦当日、盛時の兄弟を含む佐原一族は時頼の与党と共に時頼の館に結集したが、盛時自身は何らかの事情があって参戦に遅刻したらしい。遅れた盛時は屋敷の塀を乗り越えて時頼の館に到着し、この行動に感嘆した時頼から盛時は鎧を賜った。

宝治合戦で三浦一族が滅びると、三浦介に任命され、三浦宗家の家督を継承した。盛時は三浦介、三浦家棟梁としての扱いを受ける一方で、将軍の鶴岡八幡宮参詣や放生会などでは随兵の役目しか回されず、宝治合戦で滅びる前、三浦氏がまだ隆盛していた頃の厚遇を受けることはなかった。三浦介となり、三浦宗家を継承したが、待遇そのものはあくまで佐原氏時代のものが踏襲されたという[2]

弘長3年(1263年)に時頼が没すると、兄弟の蘆名光盛・新宮時連と揃って出家し、浄蓮と号した。

脚注

  1. ^ 『時頼と時宗』55ページ、『吾妻鏡事典』275ページ
  2. ^ 『北条氏系譜人名辞典』三浦盛時の項

参考文献

  • 佐藤和彦・谷口榮『吾妻鏡事典』東京堂出版
  • 奥富敬之『時頼と時宗』NHK出版
  • 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社