「興玉神」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
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興玉神は、内宮の所管社30社のうち、[[滝祭神]]に次ぐ第2位である。御垣内の西北隅にある石畳の上に西向きに鎮座する<ref name="gk"/><ref name="ic3"/>。6月と12月の[[月次祭]]および10月の[[神嘗祭]]の際には、奉仕する者全員が、まず興玉神に誠心誠意奉仕することを祈念する<ref name="gk"/>。


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祭神は社名と同じ興玉神(おきたまのかみ)<ref name="ic3"/>。正宮の守護神である<ref name="gk"/>。『神名秘書』によれば、[[サルタヒコ|猿田彦大神]]またはその[[子孫]]である大田命の別名であるという<ref name="ic3"/>。鎌倉時代には宮域の[[地主]]神・猿田彦大神として興玉神を祀り、[[神嘗祭]]と[[月次祭]]の御贄供進の際に祭祀が行われ、重視されてきた<ref name="ss"/>。


== 宮比神 ==
== 宮比神 ==
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祭神は社名と同じ屋乃波比伎神(やのはひきのかみ)<ref name="ic4"/>。正宮の神庭の守護神である<ref name="ic4"/>。『[[古事記]]』には[[スサノオ|須佐乃乎命]](すさのおのみこと)の子である[[年神|大年神]]の子の中に「波比伎神」がいる<ref name="ic4"/>。
祭神は社名と同じ屋乃波比伎神(やのはひきのかみ)<ref name="ic4"/>。正宮の神庭の守護神である<ref name="ic4"/>。『[[古事記]]』には[[スサノオ|須佐乃乎命]](すさのおのみこと)の子である[[年神|大年神]]の子の中に「波比伎神」がいる<ref name="ic4"/>。

== 歴史 ==
[[延暦]]23年([[804年]])の『延暦儀式帳』には記載されていないが、[[平安時代]]末期の[[文献]]には3社の名前が記されている<ref name="ss"/>。興玉神・宮比神は現社名と同じであるが、屋乃波比伎神は「矢乃波々岐神」となっている<ref name="ss"/>。

興玉神・宮比神は[[寛文]]9年([[1669年]])以降、内宮の内玉垣外の北西の位置に鎮座したが、[[明治2年]]([[1869年]]/[[1870年]])からは板垣内北西端に鎮座することとなった<ref name="ss"/>。


== 交通 ==
== 交通 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[学研パブリッシング]]『伊勢神宮に行こう』Gakken Mook神社紀行セレクションvol.1、[[薗田稔]]監修、学研マーケティング、2013年7月4日、82p. ISBN 978-4-05-610047-1
* [[学研パブリッシング]]『伊勢神宮に行こう』Gakken Mook神社紀行セレクションvol.1、[[薗田稔]]監修、学研マーケティング、2013年7月4日、82p. ISBN 978-4-05-610047-1
* [[福山敏男]]・[[稲垣栄三|稲垣榮三]]・村瀬美樹・胡麻鶴醇之『神宮―第六十回神宮式年遷宮―』[[小学館]]、昭和50年4月20日、246p.
* 『お伊勢さん125社めぐり』別冊『伊勢人』、[[伊勢文化舎]]、平成20年12月23日、151p. ISBN 978-4-900759-37-4
* 『お伊勢さん125社めぐり』別冊『伊勢人』、[[伊勢文化舎]]、平成20年12月23日、151p. ISBN 978-4-900759-37-4



2013年10月16日 (水) 15:25時点における版

興玉神・宮比神・屋乃波比伎神

内宮の拝殿(この奥に3社が鎮座する)
所在地 三重県伊勢市宇治館町1 内宮御正宮内
位置 北緯34度30分43.6秒 東経136度44分12.7秒 / 北緯34.512111度 東経136.736861度 / 34.512111; 136.736861 (興玉神)座標: 北緯34度30分43.6秒 東経136度44分12.7秒 / 北緯34.512111度 東経136.736861度 / 34.512111; 136.736861 (興玉神)
主祭神 興玉神:興玉神
宮比神:宮比神
屋乃波比伎神:屋乃波比伎神
社格 皇大神宮末社
創建 平安時代
本殿の様式 なし
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興玉神(おきたまのかみ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の所管社およびその祭神。内宮の御垣内に鎮座する[1]。本項目では、興玉神と同じく正宮御垣内に鎮座する、内宮所管社の宮比神(みやびのかみ)および屋乃波比伎神(やのはひきのかみ)についても記述する。

3社とも社殿を持たない神社であり、祭神は内宮の守護神である[1]

概要

三重県伊勢市宇治館町、内宮の御垣内に鎮座する[1]。御垣内には一般参拝者が立ち入ることはできない[1]ため、付近の参道から遥拝する[2]。内宮の御垣内にあるため、式年遷宮で内宮が遷御するのに合わせて、20年に1度、3社も移動する[3]

3社のうち、興玉神と宮比神は同じ石畳の上に祀られている[2]。ただし、興玉神は西向きに、宮比神は北向きに鎮座している[1]

興玉神

興玉神は、内宮の所管社30社のうち、滝祭神に次ぐ第2位である。御垣内の西北隅にある石畳の上に西向きに鎮座する[1][2]。6月と12月の月次祭および10月の神嘗祭の際には、奉仕する者全員が、まず興玉神に誠心誠意奉仕することを祈念する[1]

祭神は社名と同じ興玉神(おきたまのかみ)[2]。正宮の守護神である[1]。『神名秘書』によれば、猿田彦大神またはその子孫である大田命の別名であるという[2]。鎌倉時代には宮域の地主神・猿田彦大神として興玉神を祀り、神嘗祭月次祭の御贄供進の際に祭祀が行われ、重視されてきた[3]

宮比神

宮比神は、内宮の所管社30社のうち、滝祭神・興玉神に次いで第3位である。御垣内の西北隅にある石畳の上に北向きに鎮座する[1][2]

祭神は社名と同じ宮比神(みやびのかみ)[2]。正宮の守護神である[1]。大宮売命(おおみやのめのみこと)または猿田彦大神のである天鈿女命の別名であるという[2]

屋乃波比伎神

屋乃波比伎神は、内宮の所管社30社のうち、滝祭神・興玉神・宮比神に次ぐ第5位である。御正宮の石階(せっかい)東側に、南向きに鎮座する[1]。興玉神・宮比神と同じく石畳の上に祀られており、板垣御門の外側に鎮座する[4]

祭神は社名と同じ屋乃波比伎神(やのはひきのかみ)[4]。正宮の神庭の守護神である[4]。『古事記』には須佐乃乎命(すさのおのみこと)の子である大年神の子の中に「波比伎神」がいる[4]

歴史

延暦23年(804年)の『延暦儀式帳』には記載されていないが、平安時代末期の文献には3社の名前が記されている[3]。興玉神・宮比神は現社名と同じであるが、屋乃波比伎神は「矢乃波々岐神」となっている[3]

興玉神・宮比神は寛文9年(1669年)以降、内宮の内玉垣外の北西の位置に鎮座したが、明治2年1869年/1870年)からは板垣内北西端に鎮座することとなった[3]

交通

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 学研パブリッシング(2013):56ページ
  2. ^ a b c d e f g h 伊勢文化舎(2008):113ページ
  3. ^ a b c d e 福山ほか(1975):229ページ
  4. ^ a b c d 伊勢文化舎(2008):114ページ
  5. ^ a b 三重県観光連盟"伊勢神宮(内宮)の観光施設・周辺情報 - 観光三重"(2013年9月12日閲覧。)

参考文献

関連項目

外部リンク