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第一次世界大戦と第二次世界大戦時にイギリスの[[元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]となる。 |
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当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市のはずれに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。ユダヤ人のシオニズム運動に協力的であり、 |
当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市のはずれに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。ユダヤ人のシオニズム運動に協力的であり、国際連盟のパレスチナ委任統治決議ではバルフォア宣言の条文が使われた。1926年に刊行している『[[ホーリズム]]と進化(Holism and Evolution)』では、生物学における個的機械主義的原子論的な姿勢を問題化して、人格的全体論的姿勢を訴えている。首相として両大戦の間の幾年間に、[[アパルトヘイト]]を進めたかった大部分の[[アフリカーナー]]に反対した。[[第二次世界大戦]]後、彼はファーガン委員会を設立した。それは、南アフリカの全ての隔離政策を放棄することを支持していた。しかしながら、スマッツが提案を実行できる以前に彼は1948年に選挙に破れアパルトヘイトの政策が実行され、1950年死去する。 |
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スマッツは、第二次[[ボーア戦争]]の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間は[[ドイツ]]に対して南アフリカの軍隊を仕向け[[南西アフリカ]]を占拠し東アフリカでは[[イギリス軍]]を指揮した。[[1917年]]から[[1919年]]まで英国戦争内閣の一員であり[[イギリス空軍]]創設にも助力している。彼は[[1941年]]に[[イギリス軍]]の陸軍元帥となり、[[ウィンストン・チャーチル]]の下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]両方の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては[[国際連盟]]の設立に係わったことも上げられる。国連憲章に前文を書いて、国際連盟と国連憲章に署名する唯一の人物でもあった。イギリスと[[イギリス連邦]]を樹立する時、いままでの関係を再検討した。 |
スマッツは、第二次[[ボーア戦争]]の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間は[[ドイツ]]に対して南アフリカの軍隊を仕向け[[南西アフリカ]]を占拠し東アフリカでは[[イギリス軍]]を指揮した。[[1917年]]から[[1919年]]まで英国戦争内閣の一員であり[[イギリス空軍]]創設にも助力している。彼は[[1941年]]に[[イギリス軍]]の陸軍元帥となり、[[ウィンストン・チャーチル]]の下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]両方の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては[[国際連盟]]の設立に係わったことも上げられる。国連憲章に前文を書いて、国際連盟と国連憲章に署名する唯一の人物でもあった。イギリスと[[イギリス連邦]]を樹立する時、いままでの関係を再検討した。 |
2013年10月14日 (月) 02:05時点における版
ヤン・スマッツ Jan Christiaan Smuts | |
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ヤン・クリスティアン・スマッツ | |
生年月日 | 1870年5月24日 |
出生地 | ケープ植民地、マルベズベリー近郊、ボーフェンプラッツ |
没年月日 | 1950年9月11日(80歳没) |
死没地 | プレトリア近郊、イレーネ、ドームクローフ |
所属政党 | 南アフリカ党、統一党 |
第4代首相 | |
内閣 | 第2次スマッツ内閣 |
在任期間 | 1939年9月5日 - 1948年7月4日 |
内閣 | 第1次スマッツ内閣 |
在任期間 | 1919年9月3日 - 1924年6月30日 |
ヤン・クリスティアン・スマッツ(英語: Jan Christiaan Smuts、1870年5月24日 – 1950年9月11日)は、南アフリカおよびイギリス連邦の政治家、軍人、哲学者である。
略歴
スマッツは1870年5月24日、英領ケープ植民地のマームズベリーでアフリカーナーの大農園主の息子として生まれた。ステレンボッシュにあるヴィクトリア・カレッジ(のちのステレンボッシュ大学)に進学した後、さらに奨学金を得てケンブリッジ大学に進学した。
1895年にケープ植民地に戻ると、彼はケープタウンで弁護士を開業したが、1896年のジェームソン襲撃事件に憤激したスマッツはケープタウンからトランスヴァール共和国の首都プレトリアへ移住し、トランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに才能を認められて司法長官の地位に就いた。 スマッツは1899年、トランスヴァール共和国がイギリスに突きつけた最後通牒を起草した。
ボーア戦争が開戦すると、スマッツはトランスヴァール軍の指揮官の一人としてイギリス軍と戦い、首都陥落後もジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォークやルイス・ボータ、クース・デ・ラ・レイらと抗戦を続け、戦争末期にはケープ植民地の奥深くを転戦してケープのアフリカーナーの反乱を起こそうとしたが、これは失敗に終わった。
ボーア戦争敗北後、スマッツはボータとともにトランスヴァールのアフリカーナーの指導者となり、オレンジ川植民地(旧オレンジ自由国)のアフリカーナー指導者となったヘルツォークと協力して自治回復の運動を繰り広げた。1907年の選挙でアフリカーナー勢力は大勝し、スマッツはトランスヴァール植民地の指導者となった。
トランスヴァールの政権を握ると、スマッツとボータは南アフリカ4植民地の合同を提唱し、各植民地も賛同。1910年に南アフリカ連邦が成立すると、スマッツは内相及び国防相となった。
彼は様々な内閣に参加し、1919年から1924年と1939年から1948年に南アフリカ連邦の首相となった。
第一次世界大戦と第二次世界大戦時にイギリスの陸軍元帥となる。 当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市のはずれに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。ユダヤ人のシオニズム運動に協力的であり、国際連盟のパレスチナ委任統治決議ではバルフォア宣言の条文が使われた。1926年に刊行している『ホーリズムと進化(Holism and Evolution)』では、生物学における個的機械主義的原子論的な姿勢を問題化して、人格的全体論的姿勢を訴えている。首相として両大戦の間の幾年間に、アパルトヘイトを進めたかった大部分のアフリカーナーに反対した。第二次世界大戦後、彼はファーガン委員会を設立した。それは、南アフリカの全ての隔離政策を放棄することを支持していた。しかしながら、スマッツが提案を実行できる以前に彼は1948年に選挙に破れアパルトヘイトの政策が実行され、1950年死去する。
スマッツは、第二次ボーア戦争の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間はドイツに対して南アフリカの軍隊を仕向け南西アフリカを占拠し東アフリカではイギリス軍を指揮した。1917年から1919年まで英国戦争内閣の一員でありイギリス空軍創設にも助力している。彼は1941年にイギリス軍の陸軍元帥となり、ウィンストン・チャーチルの下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは第一次世界大戦と第二次世界大戦両方の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては国際連盟の設立に係わったことも上げられる。国連憲章に前文を書いて、国際連盟と国連憲章に署名する唯一の人物でもあった。イギリスとイギリス連邦を樹立する時、いままでの関係を再検討した。
2004年、南アフリカ放送協会による古今の南アフリカで一番の偉人を選ぶ投票でその中の一人に選ばれた。政治的な理由により放送には利用されなかったが、最終的なトップ10は第2ラウンドで決定されるが第1ラウンドではネルソン・マンデラが1位となった。スマッツは6位であった。
人物
脚注
関連項目
- 南アフリカの首相
- ヨハネスブルグ国際空港 - 旧名称がヤン・スマッツ国際空港
外部リンク
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