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2013年9月1日 (日) 16:42時点における版
西ヶ原遊郭(にしがはらゆうかく)は、かつて岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に存在した遊廓。
概要
岐阜の金津遊郭、大垣の旭遊郭と並ぶ東濃随一の遊郭であった。現在の新羅神社北側、広小路2丁目南存在した。
歴史・沿革
1889年(明治22年)町制施行により誕生した多治見町は街の開発に力を入れていた。同時期に岐阜市では金津遊郭設立による都市開発が行われており、多治見町も開発事業の一環として新田地域(現在の多治見市坂上町付近)「字西ノ原」の地に遊郭を設立を決定した。当時、町民約800名が遊郭の設立に反対して署名活動を行い、県に聴許取り消しを申請する等の動きもあったが、遊郭の設立に踏み切った。
しかし、開業したものの多治見の主要産業であった陶器業の不況もあり繁栄はしなかった。1893年(明治26年)多治見西部、現在の新羅神社北側辺りに遊郭が移転された。 この際、従来遊郭があった新田地域の「西ノ原」をとって西ヶ原遊郭と呼ばれるようになった。遊郭を中心に道路や町の開発が進み、町の賑わいが東部から西部にある遊郭周辺へと移り行き、当時は「西盛東弱」と呼ばれたという。 1904年(明治37年)7月9日から11日までの大雨で土岐川・笠原川合流地点が決壊し、多治見西部が浸水し遊郭一帯も床上3、4尺(約0.9m~1.2m)浸水した。
昭和初期には遊郭も最盛期を迎え、遊女の数も100人を超えた。
戦時中、多治見周辺は空襲の被害が少なかったが、西ヶ原の遊女たちは「弥生連国防婦人会」を結成し、慰問袋などを戦地に送り続けたという。
1958年(昭和33年)、売春防止法施行により全軒廃業した。その後、何軒かは公衆浴場として残っていたが、現在は廃墟と化している。
年 | 軒数 | 遊女 |
---|---|---|
1927年 | 18軒 | 100人以上 |
1929年 | 11軒 | 89人 |
1958年 | 23人 |
西ヶ原遊廓を描いた作品
テレビドラマ
- ドラマの廓は多治見の西ヶ原遊郭がモデルとなっている[1]。
参考文献
- 『多治見市史』(多治見市・多治見市史編纂室)1980年
- 『日本全国遊廓一覧』(上村行彰)1929年
- 『日本遊里史』(上村行彰)1929年