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[[中央大学]]進学後に[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]へ転向。4年次には主将を務め1966年の[[関東大学サッカーリーグ戦|関東大学リーグ]]制覇に貢献した。
[[中央大学]]進学後に[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]へ転向。4年次には主将を務め1966年の[[関東大学サッカーリーグ戦|関東大学リーグ]]制覇に貢献した。


また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の[[東京オリンピックにおけるサッカー競技|東京オリンピック]]1次リーグ[[サッカーガーナ代表|ガーナ]]戦で国際Aマッチデビュー<ref>代表デビューは1964年7月31日の[[ウクライナ]]選抜戦。</ref>を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。1968年のメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献したのを始め、1974年に退くまで国際Aマッチ49試合に出場した。堅実で激しいディフェンスで、[[スッポン]]の異名で呼ばれた。そのDF能力を買われ1972年5月26日の日本対[[サントスFC]]戦では世界的スター選手の[[ペレ]]のマンマークを担当したが、2得点を許し完敗している。
また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の[[東京オリンピックにおけるサッカー競技|東京オリンピック]]1次リーグ[[サッカーガーナ代表|ガーナ]]戦で国際Aマッチデビュー<ref>代表デビューは1964年7月31日の[[ウクライナ]]選抜戦。</ref>を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。1968年のメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献したのを始め、1974年に退くまで国際Aマッチ49試合に出場した。堅実で激しいディフェンスで、[[スッポン]]の異名で呼ばれた<ref>{{cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2342|title=東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)|work=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2013.8.31}}</ref>。そのDF能力を買われ1972年5月26日の日本対[[サントスFC]]戦では世界的スター選手の[[ペレ]]のマンマークを担当したが、2得点を許し完敗している。
大学卒業後は[[日立製作所本社サッカー部|日立製作所]](現在の[[柏レイソル]])に加入。1972年シーズンの[[日本サッカーリーグ]]初優勝に貢献するなど、121試合出場15得点の記録を残した。また1968年から7年連続でベストイレブンに選出される等、日本を代表するDFの一人であった。
大学卒業後は[[日立製作所本社サッカー部|日立製作所]](現在の[[柏レイソル]])に加入。1972年シーズンの[[日本サッカーリーグ]]初優勝に貢献するなど、121試合出場15得点の記録を残した。また1968年から7年連続でベストイレブンに選出される等、日本を代表するDFの一人であった。



2013年8月31日 (土) 05:38時点における版

山口 芳忠
名前
カタカナ ヤマグチ ヨシタダ
ラテン文字 YAMAGUCHI Yoshitada
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1944-09-28) 1944年9月28日(79歳)
出身地 静岡県藤枝市
身長 167cm
体重 62kg
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1967-75 日立製作所 121 (15)
代表歴
1964-73[1] 日本の旗 日本 49 (0)
監督歴
19??-??
19??-??
19??-??
1989-92
1993
2000-05
日本ジュニア代表
日本B代表
ユニバーシアード日本代表
バルセロナ五輪日本代表
柏レイソル
中央大学
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。1968年のメキシコオリンピックにおいて日本代表が銅メダルを獲得した時の選手の一人。父親の山口森三は藤枝市長を務めた人物である。

略歴

藤枝東高校時代はフォワードとしてプレー。日本ユース代表に選出され、1962年、1963年のアジアユース大会に出場した。

中央大学進学後にディフェンダーへ転向。4年次には主将を務め1966年の関東大学リーグ制覇に貢献した。

また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の東京オリンピック1次リーグガーナ戦で国際Aマッチデビュー[2]を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。1968年のメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献したのを始め、1974年に退くまで国際Aマッチ49試合に出場した。堅実で激しいディフェンスで、スッポンの異名で呼ばれた[3]。そのDF能力を買われ1972年5月26日の日本対サントスFC戦では世界的スター選手のペレのマンマークを担当したが、2得点を許し完敗している。 大学卒業後は日立製作所(現在の柏レイソル)に加入。1972年シーズンの日本サッカーリーグ初優勝に貢献するなど、121試合出場15得点の記録を残した。また1968年から7年連続でベストイレブンに選出される等、日本を代表するDFの一人であった。

引退後は指導者としてユニバーシアード代表U-23日本代表など若い世代の指導を長く務め、1993年に古巣の柏レイソルへ復帰。2000年からは中央大学の監督を務めていた。

これらの功績により2007年日本サッカー殿堂入りをした。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1967 日立 6 JSL 14 1 -
1968 日立 6 JSL 14 2 -
1969 日立 6 JSL 13 3 -
1970 日立 3 JSL 14 2 -
1971 日立 3 JSL 8 1 -
1972 日立 3 JSL1部 14 2 -
1973 日立 3 JSL1部 16 3
1974 日立 3 JSL1部 16 1 -
1975 日立 JSL1部 12 0 -
通算 日本 JSL1部 121 15
総通算 121 15

指導歴

  • 日本ジュニア代表監督
  • 日本B代表監督
  • 日本ユニバーシアード代表監督
  • 1989年 - 1992年 : 日本五輪代表監督
  • 1993年 : 柏レイソル監督
  • 1994年 - 199?年 : 柏レイソルテクニカルディレクター
  • 2000年 - 2005年 : 中央大学監督

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1993 旧JFL1部 5位 18 - 9 - 9 予選リーグ 1回戦
  • 1993年の成績は通年(一時代行の期間をはさむ)。

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 49試合 0得点(1964-1973)[1]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1964 1 0 8 0 9 0
1965 4 0 7 0 11 0
1966 7 0 9 0 16 0
1967 4 0 8 0 12 0
1968 3 0 15 1 18 1
1969 4 0 17 0 21 0
1970 12 0 14 0 26 0
1971 6 0 10 0 16 0
1972 5 0 6 0 11 0
1973 3 0 5 0 8 0
1974 0 0 3 0 3 0
通算 49 0 102 1 151 1

脚注

  1. ^ a b “山口 芳忠”. サッカー日本代表データベース. http://www.japannationalfootballteam.com/players_ya/yoshitada_yamaguchi.html 
  2. ^ 代表デビューは1964年7月31日のウクライナ選抜戦。
  3. ^ 東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)”. 賀川サッカーライブラリー. 2013年8月31日閲覧。