「松平忠啓」の版間の差分

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| 戒名 = 崇巌院殿功運道惇大居士
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
延享3年(1746年)12月15日、第2代藩主・松平忠刻の次男として[[江戸]][[浅草]]の鳥越下屋敷で生まれる。[[宝暦]]13年([[1763年]])1月に長兄の[[松平忠泰 (桑名藩嫡子)|忠泰]]が早世したため、3月27日に世子に指名された。[[明和]]8年([[1771年]])6月14日、父が病気で隠居したため、家督を継いだ。
延享3年(1746年)12月15日、第2代藩主・[[松平忠刻 (桑名藩主)|松平忠刻]]の次男として[[江戸]][[浅草]]の鳥越下屋敷で生まれる。幼名は岩次郎、初名は'''松平清盈'''(きよみつ)。[[宝暦]]13年([[1763年]])1月に長兄の[[松平忠泰 (桑名藩嫡子)|忠泰]]が早世したため、3月27日に世子に指名され、[[諱]]を'''忠啓'''に改める(奥平松平家の家督を継ぐものだけが冠する「忠」の字を与えられた<ref>奥平松平家における「清」、「忠」の字については[[松平清照]]の項を参照。清照は清盈(忠啓)の曽祖父にあたる人物だが、病弱を理由に家を継ぐことができず「忠」の字を冠した名前を名乗ることもできなかった。また、父・忠刻も初めは清種と名乗っていたし、忠啓が初め「清盈」と名乗っていたのも元々兄の忠泰が奥平松平家を継ぐ予定だったからである。</ref>)。[[明和]]8年([[1771年]])6月14日、父が病気で隠居したため、家督を継いだ。


しかし、[[安永]]元年([[1772年]])には[[桑名城]]下で火災が起こり、安永2年([[1773年]])にも大洪水で被害を受け、前者は3000両、後者は5000両の被害を出した。このため藩財政が悪化し、再建のために家臣の半知借上や[[年貢]]増徴を行っている。安永5年([[1776年]])や安永9年([[1780年]])にも桑名城下で火災が起こり、天明2年([[1782年]])にも大洪水を受けるなどしている。しかも同年12月には、洪水の被害と重なって年貢増徴に不満を持った百姓一揆までも起こる有様だった。天明4年([[1784年]])には[[天明の大飢饉]]で多数の餓死者を出している。
しかし、[[安永]]元年([[1772年]])には[[桑名城]]下で火災が起こり、安永2年([[1773年]])にも大洪水で被害を受け、前者は3000両、後者は5000両の被害を出した。このため藩財政が悪化し、再建のために家臣の半知借上や[[年貢]]増徴を行っている。安永5年([[1776年]])や安永9年([[1780年]])にも桑名城下で火災が起こり、天明2年([[1782年]])にも大洪水を受けるなどしている。しかも同年12月には、洪水の被害と重なって年貢増徴に不満を持った百姓一揆までも起こる有様だった。天明4年([[1784年]])には[[天明の大飢饉]]で多数の餓死者を出している。


天明6年(1786年)12月10日に死去した。享年41。実子は早世していたため、跡を婿養子の[[松平忠功|忠功]]が継いだ。
天明6年(1786年)12月10日に死去した。享年41。実子は早世していたため、跡を婿養子の[[松平忠功|忠功]]が継いだ。


== 脚注 ==
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2013年8月26日 (月) 14:37時点における版

 
松平 忠啓
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享3年12月15日1747年1月25日
死没 天明6年12月10日1787年1月28日
改名 岩次郎(幼名)→清盈(初名)→忠啓
別名 民部、兵庫(通称)
戒名 崇巌院殿功運道惇大居士
墓所 東京都台東区谷中天眼寺
官位 従四位下、下総
幕府 江戸幕府
伊勢桑名藩
氏族 奥平松平家
父母 父:松平忠刻、母:純性院(市原氏)
兄弟 忠泰忠啓
正室:蘭恵院毛利重就の娘)
側室:関口氏
男子(早世)、桃仙院(松平忠功正室)、娘(亀井矩賢正室)、娘(黒田長舒正室)、国姫(松平忠翼正室)
養子:忠功
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松平 忠啓(まつだいら ただひら)は、伊勢桑名藩の第3代藩主。奥平松平家5代。

生涯

延享3年(1746年)12月15日、第2代藩主・松平忠刻の次男として江戸浅草の鳥越下屋敷で生まれる。幼名は岩次郎、初名は松平清盈(きよみつ)。宝暦13年(1763年)1月に長兄の忠泰が早世したため、3月27日に世子に指名され、忠啓に改める(奥平松平家の家督を継ぐものだけが冠する「忠」の字を与えられた[1])。明和8年(1771年)6月14日、父が病気で隠居したため、家督を継いだ。

しかし、安永元年(1772年)には桑名城下で火災が起こり、安永2年(1773年)にも大洪水で被害を受け、前者は3000両、後者は5000両の被害を出した。このため藩財政が悪化し、再建のために家臣の半知借上や年貢増徴を行っている。安永5年(1776年)や安永9年(1780年)にも桑名城下で火災が起こり、天明2年(1782年)にも大洪水を受けるなどしている。しかも同年12月には、洪水の被害と重なって年貢増徴に不満を持った百姓一揆までも起こる有様だった。天明4年(1784年)には天明の大飢饉で多数の餓死者を出している。

天明6年(1786年)12月10日に死去した。享年41。実子は早世していたため、跡を婿養子の忠功が継いだ。


脚注

  1. ^ 奥平松平家における「清」、「忠」の字については松平清照の項を参照。清照は清盈(忠啓)の曽祖父にあたる人物だが、病弱を理由に家を継ぐことができず「忠」の字を冠した名前を名乗ることもできなかった。また、父・忠刻も初めは清種と名乗っていたし、忠啓が初め「清盈」と名乗っていたのも元々兄の忠泰が奥平松平家を継ぐ予定だったからである。