「市川八百蔵 (4代目)」の版間の差分
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'''四代目 市川八百蔵'''(よだいめ いちかわ やおぞう、[[安永]]元年〈[[1772年]]〉 - [[弘化]]1年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]〈[[1844年]][[8月16日]]〉)とは、[[江戸時代]]後期の[[歌舞伎役者]]。[[俳名]]は扇蝶・[[市川中車|中車]]、[[屋号]]は江戸屋・立花屋。 |
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[[舞踊]][[藤間流]]の初代[[藤間勘十郎]]の弟。天明4年([[1782年]])に[[岩井半四郎 (4代目)|4代目岩井半四郎]]の門下に入り岩井かるもを名乗る。天明7年([[1787年]])11月、[[岩井喜世太郎]]と改名し[[若女形]]として舞台を勤める。[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])11月、三代目八百蔵が[[助高屋高助 (2代目)|二代目助高屋高助]]を襲名した時に四代目[[市川八百蔵]]を襲名し、[[立役]]に転じた。その後上方で舞台を勤め、文化10年江戸に戻る。文政元年([[1819年]])二代目助高屋高助が没したのを機に市川伊達十郎と名乗り旅回りに出るが、文政10年([[1827年]]) |
[[舞踊]][[藤間流]]の[[家元]]初代[[藤間勘十郎]]の弟。天明4年([[1782年]])に[[岩井半四郎 (4代目)|4代目岩井半四郎]]の門下に入り岩井かるもを名乗る。天明7年([[1787年]])11月、[[岩井喜世太郎]]と改名し[[若女形]]として舞台を勤める。[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])11月、三代目八百蔵が[[助高屋高助 (2代目)|二代目助高屋高助]]を襲名した時に四代目[[市川八百蔵]]を襲名し、[[立役]]に転じた。その後上方で舞台を勤め、文化10年江戸に戻る。文政元年([[1819年]])二代目助高屋高助が没したのを機に市川伊達十郎と名乗り旅回りに出るが、文政10年([[1827年]])[[江戸]]に戻るとふたたび八百蔵を名乗っている。天保5年([[1834年]])以降舞台を引退。容姿にすぐれ華のある役者で[[実事]]、[[和事]]、[[所作事]]を得意とした。 |
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== 参考文献 == |
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2013年7月3日 (水) 03:00時点における版
四代目 市川八百蔵(よだいめ いちかわ やおぞう、安永元年〈1772年〉 - 弘化1年7月3日〈1844年8月16日〉)とは、江戸時代後期の歌舞伎役者。俳名は扇蝶・中車、屋号は江戸屋・立花屋。
舞踊藤間流の家元初代藤間勘十郎の弟。天明4年(1782年)に4代目岩井半四郎の門下に入り岩井かるもを名乗る。天明7年(1787年)11月、岩井喜世太郎と改名し若女形として舞台を勤める。文化元年(1804年)11月、三代目八百蔵が二代目助高屋高助を襲名した時に四代目市川八百蔵を襲名し、立役に転じた。その後上方で舞台を勤め、文化10年江戸に戻る。文政元年(1819年)二代目助高屋高助が没したのを機に市川伊達十郎と名乗り旅回りに出るが、文政10年(1827年)江戸に戻るとふたたび八百蔵を名乗っている。天保5年(1834年)以降舞台を引退。容姿にすぐれ華のある役者で実事、和事、所作事を得意とした。
参考文献
- 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年