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[[File:DARBAR OF AKBAR II.jpg|thumb|アクバル2世と廷臣]]
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[[1806年]]に父[[シャー・アーラム2世]]の死をうけて即位した。当時のムガル帝国はすでに[[デリー]]周辺を支配するだけの小国となり、一方で[[シク教国]]や[[マラーター同盟]]、[[ラージプート]]を制圧しつつあった[[イギリス東インド会社]]の勢力が増大していた。
[[1806年]]に父{{仮リンク|シャー・アーラム2世|en|Shah Alam II}}の死をうけて即位した。当時のムガル帝国はすでに[[デリー]]周辺を支配するだけの小国となり、一方で[[シク教国]]や[[マラーター同盟]]、[[ラージプート]]を制圧しつつあった[[イギリス東インド会社]]の勢力が増大していた。


そんな中、宮廷では[[ウルドゥー語]]を用いた文芸活動が流行し、ムガル皇帝たちもまた数々のウルドゥー詩を詠んだ。アクバル2世も例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送った。彼はウルドゥー詩に長じた文学者として有名である。
そんな中、宮廷では[[ウルドゥー語]]を用いた文芸活動が流行し、ムガル皇帝たちもまた数々のウルドゥー詩を詠んだ。アクバル2世も例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送った。彼はウルドゥー詩に長じた文学者として有名である。

2013年6月22日 (土) 12:20時点における版

ファイル:Akbar Shah II.jpg
アクバル2世

アクバル・シャー2世Akbar Shah II, 1760年 - 1837年9月28日)は、ムガル帝国の第16代皇帝(在位:1806年 - 1837年)。アクバル2世(Akbar II)ともよばれる。本名ムイーヌッディーン・ムハンマド・アクバル(Mu'in ud-din Muhammad Akbar)。

生涯

アクバル2世と廷臣

1806年に父シャー・アーラム2世の死をうけて即位した。当時のムガル帝国はすでにデリー周辺を支配するだけの小国となり、一方でシク教国マラーター同盟ラージプートを制圧しつつあったイギリス東インド会社の勢力が増大していた。

そんな中、宮廷ではウルドゥー語を用いた文芸活動が流行し、ムガル皇帝たちもまた数々のウルドゥー詩を詠んだ。アクバル2世も例外ではなく、政治を諦め、一地方勢力としてそこに落ち着き、詩作にふけって日々を送った。彼はウルドゥー詩に長じた文学者として有名である。

ムガル帝国の存在が形骸化する一方で、イギリス東インド会社は確実に勢力を増大させ、1818年には帝国とイギリスにとって長きにわたり目の上のたんこぶとなっていたマラーター同盟を滅ぼした。だが、約40年後にはムガル帝国本体に攻撃の矛先が向けられることになる(インド大反乱)。

在地勢力と列強の勢力が入り乱れるなか、帝国の権威を回復する術も見当らず、1837年77歳で死亡。帝位は子のバハードゥル・シャー2世がそのまま引き継いだ。