「ウジェーヌ・ヴォロ」の版間の差分

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| 渾名 =
| 渾名 = Gégèna<ref>Ernst-Günther Krätschmer '''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"'''(NATION EUROPA VERLAG, 2003) p929</ref><ref>Tony Le Tissier '''"SS-Charlemagne: The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS"'''(Pen & Sword, 2010) p127</ref> / ゲヘナ〔焦熱地獄〕<ref name="kanraku">アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社、2004年)p516</ref>
*ゲヘナ(Gégèna<ref name="Mourir_a_Berlin_p221">Jean Mabire '''« Mourir à Berlin »'''(réédition : Grancher, 1995)p221</ref>:[[十六小地獄 (焦熱地獄)|焦熱地獄]]<ref name="Beevor_Berlin">アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社、2004年)p516</ref>)<br>
| 生誕地 = {{flagicon|France}} [[フランス共和国]]・[[パリ]]
*[[マイスター]]・デア・[[パンツァーファウスト]](Meister der Panzerfaust)<ref>Ernst-Günther Krätschmer '''« Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »'''<br>
| 死没地 = {{flagicon|DEU1935}} [[ドイツ]]・[[ベルリン]]
*NATION EUROPA VERLAG, 2003(第5版)p929
| 所属政体 = {{flagicon|DEU1935}} [[ナチス・ドイツ]]<br />
*Edition Zeitgeschichte, 2012(第6版:2012年度新装改訂版)p783</ref><br>ル・[[チャンピオン|シャンピオン]]・デュ・[[パンツァーファウスト]](Le champion du ''Panzerfaust'')<ref name="Mourir_a_Berlin_p222">Mabire, '''« Mourir à Berlin »a'''(réédition : Grancher, 1995)p222</ref>
| 所属組織 = [[ファイル:Balkenkreuz.svg|26px]] [[ドイツ陸軍]]([[ファイル:Französiche Legion Mod1 .svg|26px]] [[反共フランス義勇軍団]])<br />[[ファイル:War_Ensign_of_Germany_1938-1945.svg|26px]] [[ドイツ海軍]]<br />[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|26px]] [[武装親衛隊]]
| 生誕地 = {{Flagicon|FRA}} [[フランス共和国]]<br>[[パリ]]
| 軍歴 = 1941年 - 1943年(反共フランス義勇軍団)<br />1944年(ドイツ海軍)<br />1944年 - 1945年(武装親衛隊)
| 死没地 = {{Flagicon|DEU1935}} [[ドイツ国]]([[ナチス・ドイツ]])<br>[[ベルリン]]
| 所属政体 = {{Flagicon|DEU1935}} [[ナチス・ドイツ]]<br>
| 所属組織 = [[ファイル:Balkenkreuz.svg|26px]] [[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]<br>
*[[File:Französische Legion Mod1.svg|26px]] [[反共フランス義勇軍団]]<br>
[[ファイル:War_Ensign_of_Germany_1938-1945.svg|26px]] [[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]<br>
*第28海軍基幹(訓練)大隊
[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|26px]] [[武装親衛隊]]<br>
*[[ファイル:33divss.gif|26px]] [[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]
*[[フランスSS突撃大隊]]
| 軍歴 = 1941年 - 1943年(反共フランス義勇軍団)<br>1944年(ドイツ海軍)<br>1944年 - 1945年(武装親衛隊)
| 最終階級 = [[ファイル:SS-Unterscharführer.svg|26px]] [[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]]
| 最終階級 = [[ファイル:SS-Unterscharführer.svg|26px]] [[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]]
| 部隊 =
| 部隊 =
| 戦闘 = '''[[独ソ戦]]'''<br />[[ポメラニア]]の戦い(1945年)<br />[[ベルリン市街戦]]
| 戦闘 = '''[[独ソ戦]]'''<br>[[ポメラニア]]の戦い(1945年)<br>[[ベルリン市街戦]]
| 戦功 = [[ベルリン市街戦]]で[[パンツァーファウスト]]を用いて[[赤軍|ソビエト赤軍]][[戦車]]8輌を撃破
| 戦功 = [[ベルリン市街戦]]で[[パンツァーファウスト]]を用いて[[ソビエト連邦|ソビエト]][[赤軍]][[戦車]]8輌を撃破
| 賞罰 = '''[[騎士鉄十字章]]'''
| 賞罰 = '''[[騎士鉄十字章]]'''
| 除隊後 =
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| 廟 =
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}}
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'''ウジェーヌ・ギュスターヴ・ヴォロ'''('''Eugène Gustave Vaulot'''<ref name="EFdWSSp163">Patrick Agte '''"Europas Freiwillige der Waffen-SS"'''(Munin Verlag, 2000)p163</ref>, [[1923年]][[6月1日]] - [[1945年]][[5月2日]])は、[[第二次世界大戦]]期の[[ドイツ国防軍]]([[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]・[[ドイツ海軍|海軍]])と[[武装親衛隊]]に所属した[[フランス人]][[義勇兵]]で、フランス人初の[[騎士鉄十字章]]受章者。
'''ウジェーヌ・ギュスターヴ・ヴォロ'''('''Eugène Gustave Vaulot'''<ref name="Agte_p163">Patrick Agte '''« Europas Freiwillige der Waffen-SS »'''(Munin Verlag, 2000)p163</ref>, [[1923年]][[6月1日]] - [[1945年]][[5月2日]])は、[[第二次世界大戦]]期[[ドイツ国]]([[ナチス・ドイツ]])の[[ドイツ国防軍|国防軍]]([[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]・[[ドイツ海軍 (国防軍)|海軍]])と[[武装親衛隊]]に所属した[[フランス人]][[義勇兵]]。1945年4月末の[[ベルリン市街戦]]に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵の中[[ソビエト連邦|ソビエト]][[赤軍]][[戦車]]を最も多く撃破し'''フランス人初の[[騎士鉄十字章]]受章者'''となった<br><br>
1941年下旬から1943年初旬までは[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]のフランス人義勇兵部隊「[[反共フランス義勇軍団]]」([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]]:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)に所属し、[[独ソ戦|東部戦線]]での戦功によって[[二級鉄十字章]]を受章。1944年5月からは[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]([[:de:Kriegsmarine|Kriegsmarine]])に所属していたが、1944年9月、再編成に伴って[[武装親衛隊]]([[:de:Waffen-SS|Waffen-SS]])へ移籍した。<br><br>
[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]](33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne”)では師団司令部直属[[エリート]][[歩兵]][[中隊]]'''「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)'''の第2[[小隊|小隊長]]を務め、1945年2月下旬の[[独ソ戦|東部戦線]]・[[ポメラニア]]へ出陣。2月25日午後、エルゼナウ(''Elsenau''、現[[オルシャノボ]]([[:pl:Olszanowo|Olszanowo]]))の戦いで「シャルルマーニュ」師団司令部に迫った[[赤軍]][[戦車]]部隊のうち、[[IS-2|IS-2(スターリン重戦車)]]を含む2輌の赤軍戦車を撃破した([[一級鉄十字章]]受章)。<br><br>
[[独ソ戦]]の最終局面である1945年4月末、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、'''「[[フランスSS突撃大隊]]」(Französische SS-Sturmbataillon)'''に配属された'''「戦術学校」(Kampfschule)'''(旧称:名誉中隊)の第6分隊長(6. Truppführer)として[[ベルリン市街戦]]に参加。[[市街戦]]中に[[パンツァーファウスト]]を用いた近接戦闘で[[赤軍]][[戦車]]を合計8輌撃破した功績により、1945年4月29日、フランス人として初めて[[騎士鉄十字章]]を受章した。最終階級は[[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]](Waffen-Unterscharführer der SS)<ref name="WSSFv2_Vaulot">Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : '''Eugène VAULOT'''" </ref><ref group="注">「SS所属武装***」(Waffen-*** der SS)の名称を義勇兵の氏名と併記する場合は、「SS所属」(der SS)の部分が省略される。<br>
 例: ウジェーヌ・ヴォロ[[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Eugène Vaulot)</ref>。


他の日本語表記として、ウジェーヌ・ヴァンロー<ref name="Beevor_Berlin"/>、コージューヌ・ヴーロー<ref>ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳)'''『SS戦車隊・下』'''(大日本絵画、1994年)p282</ref>、ファウロート<ref>高橋慶史'''『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』'''(大日本絵画、2005年)p315</ref>がある。
1941年下旬から1943年初旬までは[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]指揮下のフランス人義勇兵部隊「[[反共フランス義勇軍団]]」([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]] / ドイツ陸軍第638歩兵連隊)、1944年5月からは[[ドイツ海軍]]に所属。1944年9月、再編制に伴って[[武装親衛隊]]に移籍し、後に[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]](33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne”)のエリート部隊'''「名誉中隊(戦術学校)」(Compagnie d'Honneur / Kampfschule)'''の一員となった。


== 第二次世界大戦初期~後期 ==
[[独ソ戦]]の最終局面である1945年4月29日、[[ベルリン市街戦]]中に[[パンツァーファウスト]]を用いて[[赤軍|ソビエト赤軍]][[戦車]]8輌を撃破した功績により、フランス人として初めて[[騎士鉄十字章]]を受章した。最終階級は[[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]](Waffen-Unterscharführer der SS)<ref name="WSSFv2_Vaulot">Grégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 2"'''(lulu, 2011)、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : '''Eugène VAULOT'''"</ref><ref group="注">「SS所属武装***」(Waffen-*** der SS)の名称を義勇兵の氏名と併記する場合は、「SS所属」(der SS)の部分が省略される。<br />
 例: ウジェーヌ・ヴォロ[[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Eugène Vaulot)<br /><br /></ref>。


=== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ===
他の日本語表記として、ウジェーヌ・ヴァンロー<ref name="kanraku"/>、コージューヌ・ヴーロー<ref>ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) '''『SS戦車隊・下』'''(大日本絵画、1994年)p282</ref>、ファウロート<ref>高橋慶史'''『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』'''(大日本絵画、2005年)p315</ref>がある。


[[1923年]][[6月1日]]<ref name="Agte_p163"/><ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Forbes_p447">Robert Forbes '''« FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS »'''(Helion & Co., 2006)p447</ref><ref>Ernst-Günther Krätschmer '''« Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »'''(Edition Zeitgeschichte, 2012)p782</ref>{{#tag:ref|出典は[[フランス官報]]([[:fr:Journal officiel de la République française|Jounal officiel]])2/3/48。<br>
== 1941年~1943年 ドイツ陸軍時代 ==
 なお、[[:en:Richard Landwehr|Richard Landwehr]]の著書 '''« Charlemagne's Legionnaires »'''<br>
*初版(Bibliophile Legion Books, 1989)
*新装改訂版('''« French Volunteers of the Waffen-SS »''' Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006)p151<br>
におけるヴォロの生年(1921年)は誤り<ref name="Forbes_p447"/>。|group=注}}、ウジェーヌ・ヴォロは[[フランス共和国]]の[[首都]][[パリ]]([[:fr:Paris|Paris]])に生まれた。


成長後は[[配管工]]<ref name="Beevor_Berlin"/><ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Forbes_p447"/>{{#tag:ref|Landwehrは著書でヴォロの職業を「[[電気工事士]]」(electrician)<ref name="Landwehr_2006">Richard Landwehr '''« French Volunteers of the Waffen-SS »'''(Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006)pp.150-152.</ref>としている。|group=注}}として働いていたが、[[独ソ戦]]開始後の1941年夏、[[ドイツ国防軍]][[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]の指揮下で[[共産主義]]([[ソビエト連邦]])と戦うフランス人義勇兵部隊'''「[[反共フランス義勇軍団]]」([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|Légion des Volontaires Français contre le bolchevisme (LVF)]])'''が[[ヴィシー政権|ヴィシー政権期フランス国]]内で創設されると、当時18歳のヴォロもこれに志願し、1941年下旬に入隊した<ref name="Forbes_p447"/>。
=== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ===


1942年から1943年にかけて、ヴォロは反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第Ⅰ大隊第1中隊の一員として[[独ソ戦|東部戦線]]に従軍した。その間の戦功によってヴォロは[[下士官]]に昇進し、1942年秋には[[東部戦線従軍記章]]([[:de:Medaille Winterschlacht im Osten 1941/42|Ostmedaille]])を受章し<ref name="Agte_p163"/>、併せて[[二級鉄十字章]]も受章した<ref name="Forbes_p447"/>。
[[1923年]][[6月1日]]<ref name="EFdWSSp163"/><ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="FEp447">Robert Forbes '''"FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS"'''(Helion & Co., 2006)p447</ref><ref group="注">''Jounal officiel'' 2/3/48による。Richard Landwehrの著書におけるヴォロの生年(1921年)は誤り(Robert Forbes '''"FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS"'''(Helion & Co., 2006)p447脚注参照)。<br /><br /></ref>、ウジェーヌ・ヴォロは[[フランス共和国]]の[[首都]][[パリ]]に生まれた。


その後の1943年初旬、[[外傷|戦傷]]が原因でヴォロは反共フランス義勇軍団を[[除隊]]し、[[フランス]]へ帰国した<ref name="Agte_p163"/>。
成長後は[[配管工]]<ref name="kanraku"/><ref name="FEp447"/><ref group="注">Richard Landwehr '''"French Volunteers of the Waffen-SS"'''(Siegrunen Publications/Merriam Press, 2006) p151によると、ヴォロは[[電気工事士]](electrician)として働いていたという。<br /><br /></ref>として働いていたが、[[ドイツ国防軍]][[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]の指揮下で[[共産主義]]([[ソビエト連邦]])と戦うフランス人義勇兵部隊「[[反共フランス義勇軍団]]」([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]])が1941年夏に創設されると、当時18歳のヴォロもこれに志願し、1941年の下旬に入隊した<ref name="FEp447"/>。


=== ドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊 ===
1942年から1943年にかけて、ヴォロは反共フランス義勇軍団第Ⅰ大隊第1中隊の一員として[[独ソ戦|東部戦線]]に従軍した。その間の戦功によってヴォロは[[下士官]]に昇進し、1942年秋には[[東部戦線従軍記章]]([[:de:Medaille Winterschlacht im Osten 1941/42|Ostmedaille]])を受章<ref name="EFdWSSp163"/>し、[[二級鉄十字章]]を受章した<ref name="FEp447"/>。その後の1943年初旬、戦傷が原因でヴォロは反共フランス義勇軍団を[[除隊]]し、フランスに帰国した<ref name="EFdWSSp163"/>。


[[反共フランス義勇軍団]]を[[除隊]]して東部戦線([[ロシア]])から[[フランス]]へ帰国した後、ウジェーヌ・ヴォロは[[民間人]]としての生活に戻った。
== 1944年9月 武装親衛隊への移籍 ==


しかし、「[[ヨーロッパ]]の運命がどうなるか分からない」([[ナチス・ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]のどちらが[[戦争]]に勝利するか分からない)状況での暮らしに満足できなかった<ref name="Landwehr_2006"/>ヴォロは再び[[義勇兵]]になることを選び、1944年5月3日<ref name="Agte_p163"/>、[[カルヴァドス県]][[カーン]]で[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]([[:de:Kriegsmarine|Kriegsmarine]])へ志願入隊した{{#tag:ref|[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]は1944年2月から[[フランス人]][[義勇兵]]の募集を開始しており、これに伴って3月中旬に[[ヴィシー政権]]はドイツ海軍へフランス国民(フランス人)が志願入隊することを認める法律を制定していた<ref>Forbes, p146</ref>。|group=注}}。
=== ドイツ海軍からの移籍 ===


しかし、1944年5月3日ウジェーヌ・ヴォロは[[フランス]][[ーン]][[ドイツ海軍]]に改めて志願入<ref name="EFdWSSp163"/>、Schiffsstammabteilung 28の第6中訓練を受け<ref name=FEp213>同上 p213</ref>、第2中隊に勤務した<ref name="FEp447"/><ref group="">ただし、Ernst-Günther Krätschmer '''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"''' p928、およびRichard Landwehr '''"French Volunteers of the Waffen-SS"''' p151によると、ヴォロは訓練期間中に第4中隊第3小隊の分隊長となったとされている。<br /><br /></ref>
入隊後、1944年5月~6月の間にヴォロは他のドイツ海軍フランス人義勇兵と同様に[[アルザス]][[セルネ|ゼハイム]]親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager [[:de:Cernay (Haut-Rhin)|Sennheim]])駐屯中の[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]'''第28海軍基幹(訓練)大隊(Schiffsstammabteilung 28)'''第6中隊<ref name="Forbes_p447"/>に配属され{{#tag:ref|ほとんど文献ではドイツ海軍28海軍基幹(訓練)大時代の訓練期間中のヴォロが「第4中隊第3小隊の[[分隊|分隊長]]」<ref name="Agte_p163"/><ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Landwehr_2006"/><ref>Ernst-Günther Krätschmer '''« Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »'''<br>
*NATION EUROPA VERLAG, 2003(第5版)p928
*Edition Zeitgeschichte, 2012(第6版:2012年度新装改訂版)p783</ref>とされているが、Forbesによるとドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊第4中隊は[[エストニア]]人および[[ラトビア]]人義勇兵中隊である(第3中隊と第6中隊がフランス人中隊)<ref name="Forbes_p147">Forbes, p147</ref>。|group=注}}、6~8週間に渡る過酷な訓練([[フィジカルトレーニング|肉体鍛錬]]・[[基本教練]])を受けた<ref name="Forbes_p147"/>。


ゼンハイムでの訓練期間終了後の1944年7月1日<ref name="Agte_p163"/>、訓練の次の段階へ進むために第6中隊は[[ドイツ]]西部の都市[[デュイスブルク]]([[:de:Duisburg|Duisburg]])へ送られた。ここで第6中隊は名称を「第2中隊」に変更され、ドイツ海軍フランス人義勇兵たちは数ヶ月間に渡って[[武器]]教練、[[海軍]]の専門訓練、[[湖]]や[[川|河川]]における[[ボート]]操作訓練を受けた<ref>Forbes, p148</ref>。<br><br>
1944年秋に[[反共フランス義勇軍団]]、[[第8フランスSS義勇突撃旅団]]、およびその他の組織([[ドイツ海軍]]、[[国家社会主義自動車軍団]]、[[民兵団 (フランス)|フランス民兵団]]など)のフランス人義勇兵が再編制によって[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]の前身であるSS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」に編入されると、これに伴ってヴォロも9月20日<ref name="EFdWSSp163"/>に[[武装親衛隊]]に移籍した。
なお、ドイツ海軍時代にウジェーヌ・ヴォロは次のフランス人義勇兵と知己の仲になった。<br>


*{{Flagicon|FRA}} '''[[フランソワ・アポロ]](François Appolot)'''<br>
=== 警備・訓練中隊 ===
: 元[[フランス陸軍]][[第28歩兵連隊 (フランス軍)|第28要塞歩兵連隊]]([[:fr:28e régiment d'infanterie#Seconde Guerre mondiale|28{{sup|&egrave;me}} RIF]])の[[フランス陸軍の階級一覧|上級軍曹]]であり、1940年6月、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスの戦い]]で[[ドイツ軍]]の[[捕虜]]となった。1942年末、[[ナチス・ドイツの経済#外国人労働者|ナチス・ドイツの外国人労働者]]になることを選んで捕虜収容所から釈放され、後に[[東プロイセン]]のドイツの[[軍港]]([[バルチースク|ピラウ]]、[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]])で働いていた時に諸事情によって[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]へ入隊した<ref>Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : '''François Appolot'''"</ref>。<br><br>
*{{Flagicon|FRA}} '''[[ロベール・スーラ]](Robert Soulat)'''<br>
: 元[[フランス陸軍]][[第24チュニジア狙撃兵連隊 (フランス軍)|第24チュニジア狙撃兵連隊]]([[:fr:24e régiment de tirailleurs tunisiens|24{{sup|&egrave;me}} RTT]])の[[フランス陸軍の階級一覧|伍長]]。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスの戦い]]の最中の1940年5月19日から20日にかけての夜、[[ノール県]][[ヴァランシエンヌ]]~[[カンブレー]]間の地区を奇襲した[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[第7装甲師団 (ドイツ国防軍)|第7装甲師団]]([[:de:7. Panzer-Division (Wehrmacht)|7. Panzer-Division]]:[[エルヴィン・ロンメル|エルヴィン・ロンメル少将]]の部隊)の[[捕虜]]となった。
: 1943年初旬に捕虜収容所から釈放された後は[[ナチス・ドイツによるフランス占領|ナチス・ドイツ占領下のフランス]]へ帰国し、フランス国内の[[トート機関]]([[:de:Organisation Todt|Organisation Todt]])で働いていたが、1944年5月15日に[[カーン]]で[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]へ志願入隊。まったく[[水泳|泳ぐ]]ことができない(いわゆる[[金槌#補足|カナヅチ]])にもかかわらずドイツ「[[海軍]]」へ志願入隊した<ref>Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Soldats & Caporaux : '''Robert SOULAT'''"</ref>変わり者であったが、[[ドイツ語]]の[[識字|読み書き]]・[[会話]]能力は極めて優秀。<br><br>
*{{Flagicon|FRA}} '''ピエール・スリエ(Pierre Soulier)'''<br>
: 1943年に[[トート機関]]労働者警備隊「シュッツコマンド」([[:fr:Schutzkommando|Schutzkommando (SK)]] / Organisation Todt)へ参加し、[[独ソ戦|東部戦線]]([[ロシア]])で数ヶ月間勤務していた[[フランス人]]。1944年初旬に[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]へ志願入隊した<ref>Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »'''(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : '''Pierre SOULIER'''"</ref>。


== 1944年9月 武装親衛隊への移籍 ==
1944年10月、「シャルルマーニュ」旅団フランスSS部隊査察部の最高査察官[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]](''SS-Brigf.'' [[:de:Gustav Krukenberg|Gustav Krukenberg]])は旅団の軍事訓練を促進し、旅団内の将兵の模範となるべきエリート部隊として「警備・訓練中隊」(Wach-und Ausbildungskompanie)を創設した。同中隊の初代指揮官は1ヶ月前にキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校を卒業した新任のフランス人将校[[クリスティアン・マルトレ]][[親衛隊少尉|SS義勇少尉]](''SS-Frw. Ustuf.'' Christian Martrès)が務めていたが、11月からは歴戦のドイツ人将校[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]](''SS-Ostuf.'' Wilhelm Weber)が指揮官の座に就いた。


1944年9月、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]・[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]・[[武装親衛隊]]・その他の組織に所属するフランス人義勇兵の再編・統合に伴い、ドイツ海軍フランス人義勇兵は1944年9月16日付で武装親衛隊の新設のフランス人義勇兵旅団(後の[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]])へ移籍した。これによってウジェーヌ・ヴォロも武装親衛隊へ移籍{{#tag:ref|ウジェーヌ・ヴォロが[[武装親衛隊]]へ移籍(入隊)した年月日は文献によって異なっている。<br>
創設当時、警備・訓練中隊は30名編制の[[小隊]]3個から構成されていたが、そのうち2個小隊の兵員は[[ドイツ海軍]]Schiffsstammabteilung 28の第2中隊から移籍したフランス人義勇兵であった(彼らはドイツ式の行進方法を知っていたため同中隊に配属されたのである)<ref name="FEp213"/>。そして、ヴォロ武装伍長もそのうちの1人として同中隊に配属され、第2小隊の指揮を任された。なお、Schiffsstammabteilung 28以来のヴォロの同僚[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]](''W-Oscha.'' François Appolot)は第1小隊の指揮を任された<ref>同上 p217</ref>。
*「1944年9月16日」(Entre à la Waffen-SS le 16.09.1944.)<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>
*「1944年9月20日」(Am 20. September 1944)<ref name="Agte_p163"/>|group=注}}し、正確な日付は不明であるが[[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]](Waffen-Unterscharführer der SS)に任官した<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>。


=== SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」警備・訓練中隊 ===
== 1945年2月下旬~3月 ポメラニア戦線 ==


1944年9月末から10月初旬にかけて、フランスSS部隊総監[[グスタフ・クルケンベルク]][[親衛隊少将|SS少将]](''SS-Brigf.'' [[:de:Gustav Krukenberg|Gustav Krukenberg]])は[[第33SS武装擲弾兵師団|SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」]]の将兵の模範となるべき[[エリート]][[歩兵]]部隊として、旅団の[[ドイツ人]]部署であるフランスSS部隊査察部(Inspektion der Französischen SS-Verbänd)に'''「警備・訓練中隊」(Wach-und Ausbildungskompanie)'''を創設した<ref name="Forbes_p213">Forbes, p213</ref>。
=== 名誉中隊 ===


初代中隊長[[クリスティアン・マルトレ]]SS義勇連隊付上級士官候補生(''SS-Frw. StdObJu.'' Christian Martrès:1944年11月9日付で[[親衛隊少尉|SS義勇少尉]]任官)の下、創設当初の警備・訓練中隊は30名編成の[[小隊]]3個で構成されていた。そのうち2個小隊は[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]第28海軍基幹(訓練)大隊第2中隊出身のフランス人義勇兵で構成されており、第1小隊長は[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]](''W-Oscha.'' François Appolot)が務め、ウジェーヌ・ヴォロ[[親衛隊伍長|武装伍長]]は第2小隊長を務めた。
1945年2月下旬、[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]](1945年2月10日に旅団から師団へ昇格)は[[独ソ戦|東部戦線]]の[[ポメラニア]]に出陣し、ウジェーヌ・ヴォロ[[親衛隊伍長|武装伍長]]は同師団本部直属のエリート部隊'''「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)'''(かつての警備・訓練中隊)の第2[[小隊]]長<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>として参戦した。


{{quotation|
=== 1945年2月25日 エルゼナウの戦い ===
[[ファイル:33divss.gif|26px]] '''SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」フランスSS部隊査察部所属警備・訓練中隊(Wach-und Ausbildungskompanie der Inspektion / Waffen-Grenadier-Brigade der SS „Charlemagne“):1944年10月 ヴィルトフレッケン演習場'''<br />


'''[[中隊|中隊長]] {{Flagicon|FRA}} [[クリスティアン・マルトレ]]SS義勇連隊付上級士官候補生(''SS-Frw. StdObJu.'' Christian Martrès)'''
1945年2月25日正午、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]はハマーシュタイン(Hammerstein、現[[ツァルネ]][[:pl:Czarne|Czarne]])~ベーレンヴァルデ(Bärenwalde、現[[ビンチェ]][[:pl:Bińcze|Bińcze]])[[線路 (鉄道)|鉄道線路]]に沿って防衛線を敷いた。しかし、重兵器も支援も予備兵力もない状態で強大な[[赤軍|ソビエト赤軍]]の猛攻を防ぐことは不可能であった。
*第1小隊 {{Flagicon|FRA}} [[フランソワ・アポロ]]武装曹長(''W-Oscha.'' François Appolot)
*第2小隊 {{Flagicon|FRA}} ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(''W-Uscha.'' Eugène Vaulot)
*第3小隊 {{Flagicon|FRA}} エドモン・シャルルSS義勇曹長(''SS-Frw. Oscha.'' Edmond Charles)
|}}


この時期、ヴォロは中隊長マルトレSS義勇連隊付上級士官候補生に気に入られて[[親衛隊曹長|曹長]](Oberscharführer)への昇進推薦を受けたが、この推薦はフランスSS部隊査察部によって却下された<ref name="Forbes_p213"/>。
数時間の激戦の後、防衛線を突破した赤軍は攻撃の矛先を「シャルルマーニュ」師団司令部が置かれているエルゼナウ(Elsenau、現[[オルシャノボ]][[:pl:Olszanowo|Olszanowo]])に向けた。この時、[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉が指揮を執る名誉中隊の約80名のフランス兵はエルゼナウ村の外周に布陣し、赤軍の来襲を待ち受けていた。


1944年11月初旬(11月9日から数日後)、[[第5SS装甲師団|第5SS装甲師団「ヴィーキング」]]出身の歴戦の[[ドイツ人]]将校[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]][[親衛隊中尉|SS中尉]](''SS-Ostuf.'' [[:en:Wilhelm Weber (SS officer)|Wilhelm Weber]])が警備・訓練中隊に着任した。初代中隊長[[クリスティアン・マルトレ]]SS義勇少尉はヴェーバーSS中尉との衝突・対立が原因で第57SS所属武装擲弾兵連隊本部へ転属となり、以後の警備・訓練中隊は新たな中隊長ヴェーバーSS中尉の過酷な訓練プログラムによって徹底的に鍛え上げられた<ref>Forbes, p214, 217.</ref>。
やがて14輌の赤軍戦車がエルゼナウへ迫ると、ヴェーバーSS中尉が[[ドイツ国防軍]]部隊から借り受けた1門の[[対戦車砲]]が先頭戦車を撃破し、後続戦車の進路を塞いだ。[[パンツァーファウスト]]を手にしたフランス兵は散開し、次々と後続戦車を撃破していった。


== 1945年2月下旬 ポメラニア戦線 ==
しかし、その後も大量に押し寄せる赤軍戦車と歩兵部隊によって名誉中隊は多数の死傷者を出した。全滅を回避するために、ヴェーバーSS中尉と名誉中隊はエルゼナウまで後退を開始した。


1945年2月下旬、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]](33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne”)師団司令部直属[[エリート]][[歩兵]][[中隊]]'''「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)'''(旧称:警備・訓練中隊)の第2[[小隊|小隊長]]として[[独ソ戦|東部戦線]]の[[ポメラニア]]へ出陣した<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>。
再び赤軍戦車が迫ったが、[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴェーバー]]SS中尉をはじめとする名誉中隊の生存者は奮戦し、多数の[[T-34]]戦車を撃破した。ヴォロの戦友ピエール・スリエ[[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Pierre Soulier)<ref name="WSSFv2">それぞれの氏名はGrégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 2"'''(lulu, 2011)を参照。</ref>は防衛線を突破した1輌をTマイン([[:en:Teller mine|Teller mine]]、[[地雷#対戦車地雷|対戦車地雷]])で撃破し、午後4時15分に[[パンツァーファウスト]]を用いて2輌目を、数分後に3輌目を仕留めた。彼がパンツァーファウストを補給するため中隊指揮所に戻った時、ヴェーバーSS中尉は自身の[[一級鉄十字章]]を取り外してスリエの軍服に取り付けた。24歳の第1小隊長[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]]と19歳のフォントネー[[親衛隊上等兵|武装上等兵]](''W-Strmm.'' Fontenay)はそれぞれ2輌を撃破した。20歳の元学生ジャン・ウダン(Jean Oudin)<ref name="WSSFv2"/>は1輌目を攻撃した際に負傷したが後送を拒否し、2輌目を仕留め損ねた際に戦死した。この時、ウジェーヌ・ヴォロは敵戦車1輌を撃破していた<ref name="FEp287">Forbes 前掲書 p287</ref>。


=== 2月25日 エルゼナウの戦い ===
そのような状況の中、1輌の[[IS-2|スターリン重戦車]]が出現した。しかし、故障のためか同戦車は歩兵の援護下で停車した。スリエとヴォロは匍匐前進で近付き、[[StG44 (突撃銃)|突撃銃]]の掃射を浴びせて戦車の周りの赤軍兵を追い散らした。やがてスリエとヴォロの戦友デュピュア(Dupuis)、ギャロ(Garrot)、シェニッツ(Schenitz)も戦闘騒音を耳にして集まり、彼らはスターリン重戦車を包囲した。スターリン重戦車は機銃を掃射してフランス兵を[[塹壕]]に釘付けにしたが、ヴォロが発射したパンツァーファウストの弾頭が直撃し、[[松明]]のごとく炎上した<ref name="FEp287"/>。


1945年2月25日、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]はハマーシュタイン(''Hammerstein''、現[[ツァルネ]]([[:pl:Czarne|Czarne]]))~ベーレンヴァルデ(''Bärenwalde''、現[[ビンチェ]]([[:pl:Bińcze|Bińcze]]))間の[[線路 (鉄道)|鉄道線路]]に沿って防衛線を敷いた。しかし、重装備([[戦車]]・[[榴弾砲]])も支援も予備兵力も無い状態で[[ソビエト連邦|ソビエト]][[赤軍]]の猛攻を防ぐことは不可能であった。数時間の激戦の後、防衛線を突破した赤軍は攻撃の矛先を「シャルルマーニュ」師団司令部が置かれているエルゼナウ(''Elsenau''、現[[オルシャノボ]]([[:pl:Olszanowo|Olszanowo]]))に向けた。
その後、ヴォロたちは重傷を負ったシェニッツ(スターリン重戦車を狙った友軍の銃撃の兆弾が命中)を引きずって中隊に帰還した(シェニッツは数分後に救護所で死亡)。スターリン重戦車を撃破したヴォロのためにヴェーバーSS中尉が授与できる勲章は無かったが、撃墜された後に地上で「シャルルマーニュ」師団名誉中隊と肩を並べて戦い、赤軍戦車を2輌撃破していた1人の[[ドイツ空軍]][[戦闘機]][[パイロット]]<ref name="FEp287"/>が自身の[[一級鉄十字章]]をヴォロに授与した<ref name="EFdWSSp163"/>。


この時、[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉が指揮を執る名誉中隊はエルゼナウ村の外周に布陣し、赤軍の来襲に備えた。やがて14輌の赤軍戦車がエルゼナウへ迫ると、ヴェーバーSS中尉が[[ドイツ国防軍]]部隊から借り受けていた1門の[[対戦車砲]]が先頭戦車を撃破し、後続戦車の進路を塞いだ。[[パンツァーファウスト]]を手にしたフランス兵は散開し、次々と後続戦車を撃破していった<ref>Forbes, pp.284-286.</ref>。
1945年2月25日午後5時30分、この時点においてエルゼナウで撃破された赤軍戦車は19輌を数えたが、そのうち17輌は「シャルルマーニュ」師団名誉中隊が多大な犠牲を払いつつ撃破したものであった。ヴォロの戦友ピエール・スリエは5輌目の敵戦車を攻撃する際に、カミーユ・ルーヴルSS義勇上等兵(''SS-Frw. Strmm.'' Camille Rouvre)<ref name="WSSFv2"/>は3輌目を撃破した時にそれぞれ戦死し、[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]]は負傷して後送された。ヴォロをはじめ、これら「戦車殺し」の多くの者がドイツ海軍出身の武装親衛隊フランス人義勇兵であった<ref>同上 p288</ref><ref group="注">Patrick Agte '''"Europas Freiwillige der Waffen-SS"'''(Munin Verlag, 2000)p163の記述では、日付は「1945年2月26日」(26. Februar 1945)で、フランス人義勇兵が撃破したソビエト赤軍戦車の数は「18輌」(18 Sowjetpanzer im Nahkampf vernichten)とされている。<br /><br /></ref>。


しかし、その後も大量に押し寄せる赤軍戦車と歩兵部隊によって名誉中隊は多数の死傷者を出した。全滅を回避するために、ヴェーバーSS中尉と名誉中隊はエルゼナウまで後退を開始した。
=== ポメラニア戦線撤退 ===


再び赤軍戦車が迫ったが、中隊長[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴェーバー]]SS中尉をはじめとする名誉中隊の生存者は奮戦し、多数の[[T-34]]を撃破した。ヴォロの戦友ピエール・スリエ[[親衛隊伍長|武装伍長]](''W-Uscha.'' Pierre Soulier)は防衛線を突破した1輌を[[テラーミーネ]]([[:en:Teller mine|Teller mine]]:[[地雷#対戦車地雷|対戦車地雷]])で撃破し、午後4時15分に[[パンツァーファウスト]]を用いて2輌目を、数分後に3輌目を仕留めた。スリエがパンツァーファウストを補給するために中隊指揮所まで戻ってきた時、ヴェーバーSS中尉は自身の[[一級鉄十字章]]を取り外してスリエの軍服に取り付けた<ref name="Forbes_p287">Forbes, p287</ref>。
しかし、名誉中隊の奮戦も甲斐なく、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]は1945年2月25日午後遅くにハマーシュタイン、翌26日にノイシュテッティン(Neustettin、現[[シュチェチネク]][[:pl:Szczecinek|Szczecinek]])まで後退した。


第1小隊長[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]]とフォントネー[[親衛隊上等兵|武装上等兵]](''W-Strmm.'' Fontenay)はそれぞれ2輌の敵戦車を撃破した。20歳の元学生ジャン・ウダン(Jean Oudin)は1輌目を攻撃した際に負傷したが後送を拒否して戦い続け、2輌目を仕留め損ねた際に[[戦死]]した。この時、第2小隊長ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は敵戦車1輌を撃破していた<ref name="Forbes_p287"/>。
1945年3月1日、[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将は不利な状況を打破するために「シャルルマーニュ」師団の戦地再編制を実施した。間もなく、クルケンベルクの命令を受けた第58SS所属武装擲弾兵連隊長[[エミール・レイボー]][[親衛隊少佐|武装少佐]](''W-Stubaf.'' Émile Raybaud)により、師団最良の部隊を集めた「行進連隊」(Régiment de Marche)、それ以外の部隊を集めた「予備連隊」(Régiment de Réserve)が編制された<ref>同上 p307</ref>。


そのような状況の中、1輌の[[IS-2|IS-2(スターリン重戦車)]]が出現した。しかし、故障のためか同戦車は歩兵の援護下で停車した。スリエとヴォロは匍匐前進で近付き、[[StG44 (突撃銃)|突撃銃]]の掃射を浴びせて戦車の周りの赤軍兵を追い散らした。やがてスリエとヴォロの戦友デュピュア(Dupuis)、ギャロ(Garrot)、シェニッツ(Schenitz)も戦闘騒音を耳にして集まり、彼らはスターリン重戦車を包囲した。スターリン重戦車は機銃を掃射してフランス兵を[[塹壕]]に釘付けにしたが、ヴォロが発射した[[パンツァーファウスト]]の弾頭が直撃し、[[松明]]のごとく炎上した<ref name="Forbes_p287"/>。
その後、ケーリン(Körlin、現[[カルリノ]][[:pl:Karlino|Karlino]])で[[赤軍|ソビエト赤軍]]に包囲された「シャルルマーニュ」師団は、3月4日から5日にかけての夜に包囲突破を開始した。しかし、師団の中核部隊である予備連隊は包囲突破の際に壊滅し、師団の生存者はいくつかのグループに分かれて陸路もしくは海路でポメラニア戦線から撤退した。


その後、ヴォロたちは重傷を負ったシェニッツ(スターリン重戦車を狙った友軍の銃撃の兆弾が命中)を引きずって中隊に帰還した(シェニッツは数分後に[[野外病院|救護所]]で死亡)。スターリン重戦車を撃破したヴォロのためにヴェーバーSS中尉が授与できる勲章は無かったが、撃墜された後に地上で「シャルルマーニュ」師団名誉中隊と肩を並べて戦い、赤軍戦車を2輌撃破していた1人の[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]][[戦闘機]][[パイロット]]<ref name="Forbes_p287"/>が自身の[[一級鉄十字章]]をヴォロに授与した<ref name="Agte_p163"/>。
なお、ヴォロの所属する名誉中隊はエルゼナウの戦いの後、[[バルト海]]沿岸部の都市コールベルク(Kolberg、現[[コウォブジェク]][[:pl:Kołobrzeg|Kołobrzeg]])に到達し、その後は鉄道でグライフェンベルク(Greifenberg、現[[グリフィツェ]][[:pl:Gryfice|Gryfice]])に移動<ref>同上 pp.356-357.</ref>、3月8日に[[ベルリン]]北方の[[アンクラム]]([[:de:Anklam|Anklam]])に到着した<ref>同上 p382</ref>。


1945年2月25日午後5時30分、この時点においてエルゼナウで撃破された赤軍戦車は19輌を数えたが、そのうち17輌は「シャルルマーニュ」師団名誉中隊が多大な犠牲を払いつつ撃破したものであった。ヴォロの戦友ピエール・スリエ武装伍長は5輌目の敵戦車を攻撃する際に、[[カミーユ・ルーヴル]]SS義勇上等兵(''SS-Frw. Strmm.'' Camille Rouvre)は3輌目を撃破した時にそれぞれ[[戦死]]し、第1小隊長[[フランソワ・アポロ]][[親衛隊曹長|武装曹長]]は2度負傷して後送された。ヴォロをはじめ、これら「戦車殺し」の多くの者がドイツ海軍出身の武装親衛隊フランス人義勇兵であった<ref>Forbes, p288</ref>{{#tag:ref|文献によってはエルゼナウの戦いの日付が「1945年2月26日」(26. Februar 1945)、フランス人義勇兵が撃破したソビエト赤軍戦車の数が「18輌」(18 Sowjetpanzer im Nahkampf vernichten)とされている<ref name="Agte_p163"/>。|group=注}}。
== 1945年4月 ベルリン市街戦 ==

=== ポメラニア戦線撤退 ===

しかし、名誉中隊の奮戦も甲斐なく、[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]は1945年2月25日午後遅くにハマーシュタイン、翌26日にノイシュテッティン(''Neustettin''、現[[シュチェチネク]]([[:pl:Szczecinek|Szczecinek]]))まで後退した。

ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長が所属する名誉中隊はエルゼナウの戦いで損害を被ったため、師団本隊に先んじてポメラニア戦線から引き揚げられた。エルゼナウの戦いの後、中隊は[[バルト海]]沿岸部の都市コールベルク(''Kolberg''、現[[コウォブジェク]]([[:pl:Kołobrzeg|Kołobrzeg]]))に到達し、その後は鉄道でグライフェンベルク(''Greifenberg''、現[[グリフィツェ]]([[:pl:Gryfice|Gryfice]]))に移動<ref>Forbes, pp.356-357.</ref>、3月8日に[[ドイツ]]北部の都市[[アンクラム]]([[:de:Anklam|Anklam]])へ到着した<ref>Forbes, p382</ref>。

== 1945年4月 ベルリン市街戦 ==


=== 戦術学校 ===
=== 戦術学校 ===


1945年3月中旬から4月中旬にかけ、先のポメラニア戦線で大損害を被った[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]は[[ベルリン]]北地域で1個[[連隊]]としての再編に着手した。これに伴って名誉中隊は'''「戦術学校」(Kampfschule)'''と名称を改め、再編後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)内で最初に[[迷彩服]]支給された<ref>同上 p392</ref>。
大損害を被っ[[ポメラニア]]戦線から撤退した[[第33SS武装擲弾兵師団|「シャルルマーニュ」師団]]の生存者、1945年3月中旬から4月中旬の間に[[ドイツ]]北地域で1個[[連隊]]としての再編に着手した。これに伴ってウジェーヌ・ヴォロ武装伍長が所属する名誉中隊は'''「戦術学校」(Kampfschule)'''と名称を改め、一兵卒に至るまで戦闘継続を希望した戦術学校には再編後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)内で最初に[[迷彩服]]支給された<ref>Forbes, p392</ref>。


1945年4月24日、「シャルルマーニュ」師団(連隊)の生存者で戦闘継続を希望した約300名の将兵で構された'''「[[フランスSS突撃大隊]]」(Französische SS-Sturmbataillon)'''が、[[赤軍|ソビエト赤軍]]に包囲されている[[ベルリン]]へ出発した。この時、ウジェーヌ・ヴォロは[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉が指揮を執る戦術学校の第6分隊長(Truppführer)としてベルリンへ向かった<ref name="FEp447"/>。
1945年4月24日、「シャルルマーニュ」師団(連隊)の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵から'''「[[フランスSS突撃大隊]]」(Französische SS-Sturmbataillon)'''が、[[ソビエト連邦|ソビエト]][[赤軍]]に包囲されている[[ドイツ国]]首都[[ベルリン]]([[:de:Berlin|Berlin]])へ出発した。この時、ウジェーヌ・ヴォロは[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉が指揮を執る戦術学校の第6分隊長(6. Truppführer)としてベルリンへ向かった<ref name="Forbes_p447"/>。


{{see also|ベルリン市街戦|フランスSS突撃大隊}}
{{see also|ベルリン市街戦|フランスSS突撃大隊}}
[[File:Berlin-Neukölln Karte.png|thumb|[[ベルリン]]・[[ノイケルン区]]の地図]]

[[ファイル:Panzerfaust helsinki.jpg|150px|right|thumb|[[パンツァーファウスト]]]]
[[ファイル:Panzerfaust helsinki.jpg|150px|right|thumb|[[パンツァーファウスト]]]]
1945年4月26日、[[ノイケルン区|ノイケルン]]の戦いで戦術学校はフランスSS突撃大隊の予備兵力として[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]からさほど離れていないヘルマン広場([[:de:Hermannplatz|Hermannplatz]])に展開した。この日の終わりまでにフランスSS突撃大隊はノイケルンで14輌の[[T-34]]を撃破したが、このうち2輌はヴォロが撃破した戦車であった。[[パンツァーファウスト]]を用いた対戦車戦闘の達人であるヴォロは、戦友たちから「ゲヘナ」(Gégène、焦熱地獄<ref name="kanraku"/>)という渾名で呼ばれていた<ref name="EFdWSSp164">Agte 前掲書 p164</ref>
1945年4月26日、[[ノイケルン区|ノイケルン]]の戦いで戦術学校はフランスSS突撃大隊の予備兵力として[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]からさほど離れていないヘルマン広場([[:de:Hermannplatz|Hermannplatz]])に展開した。


この日の終わりまでにフランスSS突撃大隊はノイケルンで14輌の[[T-34]]を撃破したが、このうち2輌はヴォロが撃破した戦車であった。[[パンツァーファウスト]]を用いた対戦車戦闘の達人であるヴォロは、戦友たちから「ゲヘナ」(Gégène<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/><ref name="Agte_p164">Agte, p164</ref>:[[十六小地獄 (焦熱地獄)|焦熱地獄]]<ref name="Beevor_Berlin"/>)、または賞賛と若干の嫉妬交じりに「ル・[[チャンピオン|シャンピオン]]・デュ・パンツァーファウスト」(Le champion du ''Panzerfaust'')<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/>という渾名で呼ばれていた。
=== 1945年4月29日 騎士鉄十字章受章 ===


=== 1945年4月29日 騎士鉄十字章受章 ===
1945年4月29日早朝、この日までにベルリンで4輌の赤軍戦車(26日にノイケルンで撃破した2輌のT-34を含む)を討ち取ったウジェーヌ・ヴォロは、戦術学校指揮官のヴェーバーSS中尉に紹介されて[[フランスSS突撃大隊]]指揮官[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]](''SS-Frw. Hstuf.'' [[:fr:Henri Fenet|Henri Fenet]])と対面した。この時、ヴォロは戦友のロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長(''SS-Frw. Uscha.'' Roger Albert-Brunet)(3輌撃破)と共に敵戦車の撃破数を競っていた<ref>Forbes 前掲書 p442</ref>。


1945年4月29日早朝、この日までにベルリンで(26日にノイケルンで撃破した2輌の[[T-34]]含む)4輌の赤軍戦車を撃破したウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は、戦術学校指揮官の[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉に紹介されて[[フランスSS突撃大隊]]指揮官[[アンリ・フネ]][[親衛隊大尉|SS義勇大尉]](''SS-Frw. Hstuf.'' [[:fr:Henri Fenet|Henri Fenet]])と対面した。この時、ヴォロは戦友のロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長(''SS-Frw. Uscha.'' Roger Albert-Brunet:フネの部下の1人で、4月29日朝までにベルリンで赤軍戦車3輌撃破)と共に敵戦車の撃破数を競っていた<ref>Forbes, p442</ref>。
それから24時間も経たないうちにヴォロはさらに4輌の赤軍戦車を仕留め、ベルリン市街戦での個人戦車撃破記録を8輌に伸ばした。これを知った[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将(ベルリン到着後、「ノルトラント」師団長に就任)は、ヴォロを[[騎士鉄十字章]]受章候補に推薦した。


それから24時間も経たないうちにヴォロはベルリン「Z」地区(官庁街)において[[総統官邸]]目指して進撃する赤軍戦車をさらに4輌撃破し、ベルリン市街戦での個人戦車撃破記録を8輌に伸ばした。これを知った[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将(ベルリン到着後、「ノルトラント」師団長に就任)は、ヴォロを[[騎士鉄十字章]]受章候補に推薦した。

{{quote box|width=30%|align=right|quote=- Sur tous les champs de bataille du monde, les soldats français ont fait la preuve de leur bravoure. ''Unterscharführer'' Vaulot, restez fidèle à cette tradition...<br>「[[世界]]中の[[戦場]]で[[フランス軍|フランス兵]]はその勇敢さを証明した。ヴォロ[[親衛隊伍長|伍長]]はこの伝統を如実に受け継いでいる・・・」|source=[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将(1945年4月29日、[[ベルリン地下鉄]]市中央駅)<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/>}}
[[Image:RK EK.png|100px|right|thumb|[[騎士鉄十字章]]]]
[[Image:RK EK.png|100px|right|thumb|[[騎士鉄十字章]]]]
1945年4月29日午後、[[ベルリン地下鉄]]市中央駅([[:de:U-Bahnhof Stadtmitte|U-Bahnhof Stadtmitte]])構内においてクルケンベルクは「短いローソクのゆらめく光のなかで」<ref name="kanraku"/>ヴォロに[[騎士鉄十字章]]を授与した。授章式にはクルケンベルクの側近とヴォロの戦友たちも居合わせており、クルケンベルクは短い演説を催して「この若い[[義勇兵]]の姿は我々が思い描いてきたフランス兵、まさに世界中の戦場で地位を獲得した男たちの姿そのものである」という旨の賞賛の言葉を[[フランス語]]で述べた<ref name="FEp447"/>。


1945年4月29日午後、[[ベルリン地下鉄]]市中央駅([[:de:U-Bahnhof Stadtmitte|U-Bahnhof Stadtmitte]])構内においてクルケンベルクは「短い[[ろうそく|ローソク]]のゆらめく光のなかで」<ref name="Beevor_Berlin"/>、「フランス人初の騎士鉄十字章受章者となることに喜びを隠せない」<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/>ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長に[[騎士鉄十字章]]を授与した。授章式にはクルケンベルクの側近とヴォロの戦友たちも居合わせており、クルケンベルクは[[フランス語]]で短い演説を催し、ヴォロを褒め称えた<ref name="Mourir_a_Berlin_p222"/><ref name="Forbes_p447"/>。
そしてヴォロの周りには戦友たちが集まり、騎士鉄十字章を佩用したこの若いパリジャンを大いに祝福した<ref name="EFdWSSp164"/>。授章式の後、ヴォロは戦友の[[ピエール・ロスタン]][[親衛隊上級曹長|武装上級曹長]](''W-Hscha.'' Pierre Rostaing)(フランスSS突撃大隊第3中隊長)に対して次のように言った<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="FEp447"/><ref group="注">出典はロスタンの回顧録'''"Le prix d'un serment"'''(La Table Ronde, 1975)p194。しかし、ロスタンは回顧録の中でヴォロの名前・階級・死の状況を間違って記している。また、Saint-Loupの著書によると、ロスタンは自身が[[騎士鉄十字章]]を受章できなかったことを非常に悔しがったという(Forbes 前掲書 p447脚注参照)。<br /><br /></ref>。

そしてヴォロの周りには戦友たちが集まり、騎士鉄十字章を佩用したこの若いパリジャンを大いに祝福した<ref name="Agte_p164"/>。授章式の後、ヴォロは戦友の[[ピエール・ロスタン]][[親衛隊上級曹長|武装上級曹長]](''W-Hscha.'' Pierre Rostaing:フランスSS突撃大隊第3中隊長)に対して次のように言った<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Forbes_p447"/><ref>Pierre Rostaing '''« Le prix d'un serment »'''(réédition : Editions du Paillon, 2008)p190</ref>{{#tag:ref|出典は[[ピエール・ロスタン]]の回顧録 '''« Le prix d'un serment »'''<br>
*初版(La Table Ronde, 1975)p194
*新装改訂版(Editions du Paillon, 2008)p190<br>
 しかし、ロスタンは回顧録の中でヴォロ(Vaulot)の綴りを « Volot » 、階級を「兵長」(caporal-chef)、死の状況を「彼は8輌目の敵戦車を攻撃中に戦死した」(il sera tué en abattant un huitièment char.)と誤って記している。また、[[:fr:Saint-Loup (écrivain)|Saint-Loup]]の著書 '''« Les Hérétiques »'''(Presses de la Cité, 1965)よると、ロスタンは自身が[[騎士鉄十字章]]を受章できなかったことを非常に悔しがったという<ref name="Forbes_p447"/>。|group=注}}。


{{Cquote|この勲章を手に入れる、その願いだけで俺は戦ってきた。それが果たされた今、俺はもう死んでもいい。<br />(J'ai combattu avec un unique désir : gagner cette décoration. Maintenant c'est fait. Je peux mourir.)}}
{{Cquote|この勲章を手に入れる、その願いだけで俺は戦ってきた。それが果たされた今、俺はもう死んでもいい。<br>(J'ai combattu avec un unique désir : gagner cette décoration. Maintenant c'est fait. Je peux mourir.)}}


かくして念願の騎士鉄十字章を手に入れたヴォロ武装伍長であったが、この騎士鉄十字章受章者に新たな命令が与えられた。それは斥候班を率いてホテル・カイザーホーフ([[:de:Hotel Kaiserhof (Berlin)|Hotel Kaiserhof]])に向かい、クルケンベルクの司令部で用いるテーブル[[リネン]]を探せというものであった。
かくして念願の騎士鉄十字章を手に入れたヴォロ武装伍長であったが、この騎士鉄十字章受章者に新たな命令が与えられた。それは斥候班を率いてホテル・カイザーホーフ([[:de:Hotel Kaiserhof (Berlin)|Hotel Kaiserhof]])に向かい、クルケンベルクの司令部で用いるテーブル[[リネン]]を探せというものであった。


赤軍が周囲一帯を[[砲撃]]している中、地下鉄駅から地上に出た斥候班はホテルの廃墟に向かって全力で走り始めた。途中で上等兵1名が[[迫撃砲]]によって負傷して地下室に運ばれた(彼は3日後に捕虜となった)が、任務は続けられた。ホテルの廃墟から出て戻ってきた斥候班は大量の[[ナプキン|テーブルナプキン]]をクルケンベルクに届けたが、同時に持ち帰った上物の[[ワイン]]ボトル数本はクルケンベルクに見つからぬようにしていた<ref>同上 pp.447-448.</ref>。
赤軍が周囲一帯を[[砲撃]]している中、地下鉄駅から地上に出た斥候班はホテルの廃墟に向かって全力で走り始めた。途中で上等兵1名が[[迫撃砲]]によって負傷して地下室に運ばれた(彼は3日後に捕虜となった)が、任務は続けられた。ホテルの廃墟から出て戻ってきた斥候班は大量の[[ナプキン|テーブルナプキン]]をクルケンベルクに届けたが、同時に持ち帰った上物の[[ワイン]]ボトル数本はクルケンベルクに見つからぬようにしていた<ref>Forbes, pp.447-448.</ref>。


=== 1945年5月2日 最期 ===
=== 1945年5月2日 最期 ===


[[ベルリン市街戦]]の最終局面である1945年5月1日から2日にかけての夜、ウジェーヌ・ヴォロは[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将が指揮を執小グループに加わってベルリン脱出を開始した。
[[ベルリン市街戦]]の最終局面である1945年5月1日から2日にかけての夜、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将が主導するベルリン北部(北西部)方面への脱出計画に参加した。


[[シュプレー川]]を渡る際、クルケンベルクはベルリン出身で地理に明るい2名の将校を偵察として先発させたが、彼らは戻ってこなかった。そのため5月2日午前3時、クルケンベルクはフランス人義勇兵を率いて自ら偵察に向かった。クルケンベルク一行はシャリテ病院([[:de:Charité|Charité]])を通過しようとしたが、院長がソビエト赤軍の指揮下に入ることに同意して同病院は[[中立]]地帯と化していたため、彼らは行き先をショセー通り([[:de:Chausseestraße|Chausseestraße]])に変更した<ref>Le Tissier 前掲書 p156</ref>。やがてクルケンベルク一行のもとに、前任の[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[ヨアヒム・ツィーグラー]]SS少将(''SS-Brigf.'' [[:de:Joachim Ziegler|Joachim Ziegler]])と「ノルトラント」師団の一部の将兵が合流した。これによってクルケンベルクのグループはヴォロも含め、[[騎士鉄十字章]]受章者が4人もしくは5人いる状況になった<ref>Forbes 前掲書 p458</ref>。
[[シュプレー川]]を渡る際、クルケンベルクはベルリン出身で地理に明るい2名の将校を偵察として先発させたが、彼らは戻ってこなかった。そのため5月2日午前3時、クルケンベルクはフランス人義勇兵を率いて自ら偵察に向かった。クルケンベルク一行はシャリテ病院([[:de:Charité|Charité]])を通過しようとしたが、院長がソビエト赤軍の指揮下に入ることに同意して同病院は[[中立]]地帯と化していたため、彼らは行き先をショセー通り([[:de:Chausseestraße|Chausseestraße]])に変更した<ref>Tony Le Tissier '''« SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS »'''(Pen & Sword Books, 2010.)p156</ref>。やがてクルケンベルク一行のもとに、前任の[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|「ノルトラント」師団]]長[[ヨアヒム・ツィーグラー]]SS少将(''SS-Brigf.'' [[:de:Joachim Ziegler|Joachim Ziegler]])と「ノルトラント」師団の一部の将兵が合流した。これによってクルケンベルクのグループはヴォロも含め、[[騎士鉄十字章]]受章者が4人もしくは5人いる状況になった<ref>Forbes, p458</ref>。


その後、クルケンベルクと共にシュプレー川を渡った者たちは[[小隊]]規模のいくつかのグループに分かれた。そのグループの1つは[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉、[[フランソワ・アポロ]]とヴォロを含む12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士と[[スカンディナヴィア]]人義勇兵から成っていた。西を目指して進む彼らのグループには2輌のティーガー重戦車<ref group="注">原文表記は « two Tiger tanks. »(出典はSaint-Loupの著書p495)。[[ティーガーI|ティーガーⅠ重戦車]]か[[ティーガーII|ティーガーⅡ重戦車]]かは明示されていない。<br /><br /></ref>が随伴していた<ref name="FEp459">同上 p459</ref>。
その後、クルケンベルクと共にシュプレー川を渡った者たちは[[小隊]]規模のいくつかのグループに分かれた。そのグループの1つは[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉、[[フランソワ・アポロ]]とヴォロを含む12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士と[[スカンディナヴィア]]人義勇兵から成っていた。西を目指して進む彼らのグループには2輌のティーガー重戦車<ref group="注">原文表記は « two Tiger tanks. »(出典はSaint-Loupの著書p495)。[[ティーガーI|ティーガーⅠ]]か[[ティーガーII|ティーガーⅡ]]かは明示されていない。</ref>が随伴していた<ref name="Forbes_p459">Forbes, p459</ref>。


しかし、[[ティーアガルテン]]まで辿り着いた彼らは[[シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区|シャルロッテンブルク]]へ続く道を塞ぐ[[赤軍]]の強固な抵抗に遭遇した。この戦闘でティーガー戦車2輌は敵陣の突破に成功したが、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は赤軍[[狙撃兵]]の[[銃弾]]<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="FEp459"/><ref>Richard Landwehr '''"French Volunteers of the Waffen-SS"'''(Siegrunen Publications/Merriam Press, 2006) p152</ref>(頭部命中)<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="EFdWSSp164"/>によって命を落とした<ref group="注">アントニー・ビーヴァー 前掲書 p566の記述では、砲火にさらされたウジェーヌ・ヴァンロー(ヴォロ)は「付近の地下室で三日後に死亡した」とされている。しかし、この箇所の出典は明記されていない。</ref>。満21歳没。
しかし、[[ティーアガルテン]]まで辿り着いた彼らは[[シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区|シャルロッテンブルク]]へ続く道を塞ぐ[[赤軍]]の強固な抵抗に遭遇した。この戦闘でティーガー戦車2輌は敵陣の突破に成功したが、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は赤軍[[狙撃兵]]の[[銃弾]]<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Forbes_p459"/><ref>Landwehr(2006), p152</ref>([[頭|頭部]]命中)<ref name="WSSFv2_Vaulot"/><ref name="Agte_p164"/>によって[[戦死|命を落とした]]<ref group="注">アントニー・ビーヴァー '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社、2004年)p566の記述では、砲火にさらされたウジェーヌ・ヴァンロー(ヴォロ)は「付近の地下室で三日後に死亡した」とされている。しかし、この箇所の出典は明記されていない。</ref>。満21歳没。


== キャリア ==
== キャリア ==
=== 党員・隊員番号 ===
=== 党員・隊員番号 ===
*{{flagicon|DEU1935}} [[ナチス]]党員番号(NSDAP-Nr.):無し
*{{Flagicon|DEU1935}} [[ナチス]]党員番号(NSDAP-Nr.):無し
*[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|26px]] [[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]隊員番号(SS-Nr.):無し(1944年9月20日、[[ドイツ海軍]]から[[武装親衛隊]]へ移籍したフランス人義勇兵)
*[[ファイル:Flag Schutzstaffel.svg|26px]] [[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]隊員番号(SS-Nr.):無し({{Flagicon|FRA}} 1944年9月16日もしくは20日、[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]から[[武装親衛隊]]へ移籍した[[フランス人]][[義勇兵]]。1941年下旬から1943年初旬までは[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[反共フランス義勇軍団]]([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]])の[[下士官]]


=== 階級 ===
=== 階級 ===
==== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ====
==== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ====
*[[ドイツ軍の階級#ドイツ国防軍(1935年~1945年) |上級伍長]](Obergefreiter)もしくは[[軍曹]](Sergeant)<ref name="FEp447"/>
*[[ドイツ軍の階級#ドイツ国防軍(1935年~1945年) |上級伍長]](Obergefreiter)もしくは[[軍曹]](Sergeant)<ref name="Forbes_p447"/>


==== ドイツ海軍 ====
==== ドイツ海軍 ====
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==== 武装親衛隊 ====
==== 武装親衛隊 ====
*1944 - 1945 [[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]](Waffen-Unterscharführer der SS)
*1944年9月以降~1945年5月 [[親衛隊伍長|SS所属武装伍長]](Waffen-Unterscharführer der SS)


=== 勲章 ===
=== 勲章 ===
==== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ====
==== ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 ====
*[[東部戦線従軍記章]](1942年秋)
*[[東部戦線従軍記章]](1942年秋)
*[[二級鉄十字章]](1942年 - 1943年)
*[[二級鉄十字章]](1942年~1943年)


==== ドイツ海軍 ====
==== ドイツ海軍 ====
153行目: 201行目:
==== 武装親衛隊 ====
==== 武装親衛隊 ====
*[[一級鉄十字章]](1945年2月25日)
*[[一級鉄十字章]](1945年2月25日)
*'''[[騎士鉄十字章]](1945年4月29日)''' <small>※[[ヨーロッパ]]における[[第二次世界大戦]]末期の1945年4月末・[[ベルリン市街戦]]で[[騎士鉄十字章]]授与を約束された数名の[[武装親衛隊]][[フランス人]][[義勇兵]]のうち、戦時中に実際に騎士鉄十字章を拝受・佩用した唯一のフランス人<ref name="WSSFv2_Vaulot"/>。</small>
*'''[[騎士鉄十字章]](1945年4月29日)'''


== 脚注 ==
== 脚注・出典 ==
;脚注
<references group="注"/>
{{reflist|group=注}}

== 出典 ==
;出典
{{reflist}}
{{Reflist|2}}


== 文献 ==
== 文献 ==
=== 英語 ===
=== 英語 ===
*Robert Forbes '''"FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS"''' U.K.: Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X
*Robert Forbes '''« FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS »''' U.K.: Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X
*Richard Landwehr '''"French Volunteers of the Waffen-SS"''' United States of America: Siegrunen Publications/Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3
*Richard Landwehr '''« French Volunteers of the Waffen-SS »''' United States of America : Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3
*Tony Le Tissier '''"SS-Charlemagne: The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS"''' South Yorkshire: Pen & Sword Books, 2010. ISBN 978-1-84884-231-1
*Tony Le Tissier '''« SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS »''' South Yorkshire : Pen & Sword Books, 2010. ISBN 978-1-84884-231-1


=== ドイツ語 ===
=== ドイツ語 ===
*Patrick Agte '''"Europas Freiwillige der Waffen-SS: Biographien aller Inhaber des Ritterkreuzes, des Deutschen Kreuzes in Gold, der Ehrenblattspange und der Nahkampfspange in Gold, die keine Deutschen waren"''' Deutschland: Munin Verlag, 2000. ISBN 3-9807215-0-7
*Patrick Agte '''« Europas Freiwillige der Waffen-SS : Biographien aller Inhaber des Ritterkreuzes, des Deutschen Kreuzes in Gold, der Ehrenblattspange und der Nahkampfspange in Gold, die keine Deutschen waren »''' Deutschland : Munin Verlag, 2000. ISBN 3-9807215-0-7
*Ernst-Günther Krätschmer '''"Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS"''' Coburg, Deutschland: NATION EUROPA VERLAG, 2003. ISBN 3-920677-43-9
*Ernst-Günther Krätschmer '''« Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »'''
**Coburg, Deutschland : NATION EUROPA VERLAG, 2003.(第5版) ISBN 3-920677-43-9
**Gedruckt, Österreich : Edition Zeitgeschichte, 2012.(第6版:2012年度新装改訂版) ISBN 978-3-942145-14-5


=== フランス語 ===
=== フランス語 ===
*Jean Mabire '''"La Division Charlemagne: Sur le front de l'Est 1944-1945"''' Jacques Grancher, 2005.(Paperback) ISBN 2-7339-0915-0
*Jean Mabire '''« La Division Charlemagne : Sur le front de l'Est 1944-1945 »''' réédition : Grancher, 2005. ISBN 2-7339-0915-0
*Jean Mabire '''"Mourir à Berlin"''' Grancher, 1995.(Paperback) ISBN 978-2-7339-1149-5
*Jean Mabire '''« Mourir à Berlin »''' réédition : Grancher, 1995. ISBN 978-2-7339-1149-5
*Georges Bernage '''"BERLIN 1945 - L'agonie du Reich"''' HEIMDAL, 2010. ISBN 978-2-84048-262-8
*Pierre Rostaing '''« Le prix d'un serment »''' réédition : Éditions du Paillon, 2008. ISBN 978-2-9531445-0-5
*Grégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 1: officiers"''' lulu, 2011. ISBN 978-1-4475-9358-4 [http://www.lulu.com/product/paperback/waffen-ss-fran%C3%A7ais-volume-1-officiers/15338972]
*Georges Bernage '''« BERLIN 1945 - L'agonie du Reich »''' HEIMDAL, 2010. ISBN 978-2-84048-262-8
*Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 1 : officiers »''' lulu, 2011. ISBN 978-1-4475-9358-4 [http://www.lulu.com/product/paperback/waffen-ss-fran%C3%A7ais-volume-1-officiers/15338972]
*Grégory Bouysse '''"Waffen-SS Français volume 2"''' lulu, 2011. ISBN 978-1-4709-2911-4 [http://www.lulu.com/product/paperback/waffen-ss-fran%c3%a7ais-volume-2/17435136]
*Grégory Bouysse '''« Waffen-SS Français volume 2 »''' lulu, 2011. ISBN 978-1-4709-2911-4 [http://www.lulu.com/product/paperback/waffen-ss-fran%c3%a7ais-volume-2/17435136]
</div>


=== 日本語 ===
=== 日本語 ===
*アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社2004年) ISBN 4-560-02600-9
*アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) '''『ベルリン陥落 1945』'''(白水社2004年) ISBN 4-560-02600-9
*ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) '''『SS戦車隊・下』'''(大日本絵画1994年) ISBN 4-499-22630-9
*ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) '''『SS戦車隊・下』'''(大日本絵画1994年) ISBN 4-499-22630-9
*高橋慶史'''『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』'''(大日本絵画2005年) ISBN 4-499-22748-8
*高橋慶史'''『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』'''(大日本絵画2005年) ISBN 4-499-22748-8


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[反共フランス義勇軍団]]([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]])
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*[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]

*[[ベルリン市街戦]]
;所属組織
*[[フランスSS突撃大隊]]
*[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]
*[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)]]
**[[反共フランス義勇軍団]]([[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|LVF]])
*[[グスタフ・クルケンベルク]]
*[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]
*[[フランソワ・アポロ]]
**第28海軍基幹(訓練)大隊
*[[ピエール・ロスタン]]
*[[武装親衛隊]]
**[[第33SS武装擲弾兵師団|第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」]]
**[[フランスSS突撃大隊]]

;戦闘
*[[第二次世界大戦]]
**1941年末~1943年初旬 [[独ソ戦|東部戦線]]・[[白ロシア]]
**1945年2月下旬 [[東ポメラニア攻勢|ポメラニア戦線]]([[:en:East Pomeranian Offensive|Pomerania 1945]])
**1945年4月末 [[ベルリン市街戦]]

;人物
*[[フランソワ・アポロ]]武装曹長
*[[ロベール・スーラ]]武装兵長
*[[ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)|ヴィルヘルム・ヴェーバー]]SS中尉
*[[グスタフ・クルケンベルク]]SS少将
*[[ピエール・ロスタン]]武装上級曹長

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2013年6月6日 (木) 21:30時点における版

ウジェーヌ・ヴォロ
Eugène Vaulot
渾名
生誕 (1923-06-01) 1923年6月1日
フランスの旗 フランス共和国
パリ
死没 (1945-05-02) 1945年5月2日(21歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ナチス・ドイツ
ベルリン
所属組織

ドイツ陸軍

ドイツ海軍

  • 第28海軍基幹(訓練)大隊

武装親衛隊

軍歴 1941年 - 1943年(反共フランス義勇軍団)
1944年(ドイツ海軍)
1944年 - 1945年(武装親衛隊)
最終階級 SS所属武装伍長
戦闘 独ソ戦
ポメラニアの戦い(1945年)
ベルリン市街戦
テンプレートを表示

ウジェーヌ・ギュスターヴ・ヴォロEugène Gustave Vaulot[5], 1923年6月1日 - 1945年5月2日)は、第二次世界大戦ドイツ国ナチス・ドイツ)の国防軍陸軍海軍)と武装親衛隊に所属したフランス人義勇兵。1945年4月末のベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵の中でソビエト赤軍戦車を最も多く撃破し、フランス人初の騎士鉄十字章受章者となった。

1941年下旬から1943年初旬まではドイツ陸軍のフランス人義勇兵部隊「反共フランス義勇軍団」(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)に所属し、東部戦線での戦功によって二級鉄十字章を受章。1944年5月からはドイツ海軍Kriegsmarine)に所属していたが、1944年9月、再編成に伴って武装親衛隊Waffen-SS)へ移籍した。

第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne”)では師団司令部直属エリート歩兵中隊「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)の第2小隊長を務め、1945年2月下旬の東部戦線ポメラニアへ出陣。2月25日午後、エルゼナウ(Elsenau、現オルシャノボ(Olszanowo))の戦いで「シャルルマーニュ」師団司令部に迫った赤軍戦車部隊のうち、IS-2(スターリン重戦車)を含む2輌の赤軍戦車を撃破した(一級鉄十字章受章)。

独ソ戦の最終局面である1945年4月末、「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、フランスSS突撃大隊」(Französische SS-Sturmbataillon)に配属された「戦術学校」(Kampfschule)(旧称:名誉中隊)の第6分隊長(6. Truppführer)としてベルリン市街戦に参加。市街戦中にパンツァーファウストを用いた近接戦闘で赤軍戦車を合計8輌撃破した功績により、1945年4月29日、フランス人として初めて騎士鉄十字章を受章した。最終階級はSS所属武装伍長(Waffen-Unterscharführer der SS)[6][注 1]

他の日本語表記として、ウジェーヌ・ヴァンロー[2]、コージューヌ・ヴーロー[7]、ファウロート[8]がある。

第二次世界大戦初期~後期

ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団

1923年6月1日[5][6][9][10][注 2]、ウジェーヌ・ヴォロはフランス共和国首都パリParis)に生まれた。

成長後は配管工[2][6][9][注 3]として働いていたが、独ソ戦開始後の1941年夏、ドイツ国防軍陸軍の指揮下で共産主義ソビエト連邦)と戦うフランス人義勇兵部隊反共フランス義勇軍団」(Légion des Volontaires Français contre le bolchevisme (LVF)ヴィシー政権期フランス国内で創設されると、当時18歳のヴォロもこれに志願し、1941年下旬に入隊した[9]

1942年から1943年にかけて、ヴォロは反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第Ⅰ大隊第1中隊の一員として東部戦線に従軍した。その間の戦功によってヴォロは下士官に昇進し、1942年秋には東部戦線従軍記章Ostmedaille)を受章し[5]、併せて二級鉄十字章も受章した[9]

その後の1943年初旬、戦傷が原因でヴォロは反共フランス義勇軍団を除隊し、フランスへ帰国した[5]

ドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊

反共フランス義勇軍団除隊して東部戦線(ロシア)からフランスへ帰国した後、ウジェーヌ・ヴォロは民間人としての生活に戻った。

しかし、「ヨーロッパの運命がどうなるか分からない」(ナチス・ドイツソビエト連邦のどちらが戦争に勝利するか分からない)状況での暮らしに満足できなかった[11]ヴォロは再び義勇兵になることを選び、1944年5月3日[5]カルヴァドス県カーンドイツ海軍Kriegsmarine)へ志願入隊した[注 4]

入隊後、1944年5月~6月の間にヴォロは他のドイツ海軍フランス人義勇兵と同様にアルザスゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)駐屯中のドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊(Schiffsstammabteilung 28)第6中隊[9]に配属され[注 5]、6~8週間に渡る過酷な訓練(肉体鍛錬基本教練)を受けた[14]

ゼンハイムでの訓練期間終了後の1944年7月1日[5]、訓練の次の段階へ進むために第6中隊はドイツ西部の都市デュイスブルクDuisburg)へ送られた。ここで第6中隊は名称を「第2中隊」に変更され、ドイツ海軍フランス人義勇兵たちは数ヶ月間に渡って武器教練、海軍の専門訓練、河川におけるボート操作訓練を受けた[15]

なお、ドイツ海軍時代にウジェーヌ・ヴォロは次のフランス人義勇兵と知己の仲になった。

 元フランス陸軍第28要塞歩兵連隊28ème RIF)の上級軍曹であり、1940年6月、フランスの戦いドイツ軍捕虜となった。1942年末、ナチス・ドイツの外国人労働者になることを選んで捕虜収容所から釈放され、後に東プロイセンのドイツの軍港ピラウケーニヒスベルク)で働いていた時に諸事情によってドイツ海軍へ入隊した[16]

 元フランス陸軍第24チュニジア狙撃兵連隊24ème RTT)の伍長フランスの戦いの最中の1940年5月19日から20日にかけての夜、ノール県ヴァランシエンヌカンブレー間の地区を奇襲したドイツ陸軍第7装甲師団7. Panzer-Divisionエルヴィン・ロンメル少将の部隊)の捕虜となった。
 1943年初旬に捕虜収容所から釈放された後はナチス・ドイツ占領下のフランスへ帰国し、フランス国内のトート機関Organisation Todt)で働いていたが、1944年5月15日にカーンドイツ海軍へ志願入隊。まったく泳ぐことができない(いわゆるカナヅチ)にもかかわらずドイツ「海軍」へ志願入隊した[17]変わり者であったが、ドイツ語読み書き会話能力は極めて優秀。

  • フランスの旗 ピエール・スリエ(Pierre Soulier)
 1943年にトート機関労働者警備隊「シュッツコマンド」(Schutzkommando (SK) / Organisation Todt)へ参加し、東部戦線ロシア)で数ヶ月間勤務していたフランス人。1944年初旬にドイツ海軍へ志願入隊した[18]

1944年9月 武装親衛隊への移籍

1944年9月、ドイツ陸軍ドイツ海軍武装親衛隊・その他の組織に所属するフランス人義勇兵の再編・統合に伴い、ドイツ海軍フランス人義勇兵は1944年9月16日付で武装親衛隊の新設のフランス人義勇兵旅団(後の第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」)へ移籍した。これによってウジェーヌ・ヴォロも武装親衛隊へ移籍[注 6]し、正確な日付は不明であるがSS所属武装伍長(Waffen-Unterscharführer der SS)に任官した[6]

SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」警備・訓練中隊

1944年9月末から10月初旬にかけて、フランスSS部隊総監グスタフ・クルケンベルクSS少将SS-Brigf. Gustav Krukenberg)はSS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」の将兵の模範となるべきエリート歩兵部隊として、旅団のドイツ人部署であるフランスSS部隊査察部(Inspektion der Französischen SS-Verbänd)に「警備・訓練中隊」(Wach-und Ausbildungskompanie)を創設した[19]

初代中隊長クリスティアン・マルトレSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Christian Martrès:1944年11月9日付でSS義勇少尉任官)の下、創設当初の警備・訓練中隊は30名編成の小隊3個で構成されていた。そのうち2個小隊はドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊第2中隊出身のフランス人義勇兵で構成されており、第1小隊長はフランソワ・アポロ武装曹長W-Oscha. François Appolot)が務め、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は第2小隊長を務めた。

SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」フランスSS部隊査察部所属警備・訓練中隊(Wach-und Ausbildungskompanie der Inspektion / Waffen-Grenadier-Brigade der SS „Charlemagne“):1944年10月 ヴィルトフレッケン演習場

中隊長 フランスの旗 クリスティアン・マルトレSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Christian Martrès)

  • 第1小隊 フランスの旗 フランソワ・アポロ武装曹長(W-Oscha. François Appolot)
  • 第2小隊 フランスの旗 ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot)
  • 第3小隊 フランスの旗 エドモン・シャルルSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Edmond Charles)

この時期、ヴォロは中隊長マルトレSS義勇連隊付上級士官候補生に気に入られて曹長(Oberscharführer)への昇進推薦を受けたが、この推薦はフランスSS部隊査察部によって却下された[19]

1944年11月初旬(11月9日から数日後)、第5SS装甲師団「ヴィーキング」出身の歴戦のドイツ人将校ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉SS-Ostuf. Wilhelm Weber)が警備・訓練中隊に着任した。初代中隊長クリスティアン・マルトレSS義勇少尉はヴェーバーSS中尉との衝突・対立が原因で第57SS所属武装擲弾兵連隊本部へ転属となり、以後の警備・訓練中隊は新たな中隊長ヴェーバーSS中尉の過酷な訓練プログラムによって徹底的に鍛え上げられた[20]

1945年2月下旬 ポメラニア戦線

1945年2月下旬、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne”)師団司令部直属エリート歩兵中隊「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)(旧称:警備・訓練中隊)の第2小隊長として東部戦線ポメラニアへ出陣した[6]

2月25日 エルゼナウの戦い

1945年2月25日、「シャルルマーニュ」師団はハマーシュタイン(Hammerstein、現ツァルネ(Czarne))~ベーレンヴァルデ(Bärenwalde、現ビンチェ(Bińcze))間の鉄道線路に沿って防衛線を敷いた。しかし、重装備(戦車榴弾砲)も支援も予備兵力も無い状態でソビエト赤軍の猛攻を防ぐことは不可能であった。数時間の激戦の後、防衛線を突破した赤軍は攻撃の矛先を「シャルルマーニュ」師団司令部が置かれているエルゼナウ(Elsenau、現オルシャノボ(Olszanowo))に向けた。

この時、ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉が指揮を執る名誉中隊はエルゼナウ村の外周に布陣し、赤軍の来襲に備えた。やがて14輌の赤軍戦車がエルゼナウへ迫ると、ヴェーバーSS中尉がドイツ国防軍部隊から借り受けていた1門の対戦車砲が先頭戦車を撃破し、後続戦車の進路を塞いだ。パンツァーファウストを手にしたフランス兵は散開し、次々と後続戦車を撃破していった[21]

しかし、その後も大量に押し寄せる赤軍戦車と歩兵部隊によって名誉中隊は多数の死傷者を出した。全滅を回避するために、ヴェーバーSS中尉と名誉中隊はエルゼナウまで後退を開始した。

再び赤軍戦車が迫ったが、中隊長ヴェーバーSS中尉をはじめとする名誉中隊の生存者は奮戦し、多数のT-34を撃破した。ヴォロの戦友ピエール・スリエ武装伍長W-Uscha. Pierre Soulier)は防衛線を突破した1輌をテラーミーネTeller mine対戦車地雷)で撃破し、午後4時15分にパンツァーファウストを用いて2輌目を、数分後に3輌目を仕留めた。スリエがパンツァーファウストを補給するために中隊指揮所まで戻ってきた時、ヴェーバーSS中尉は自身の一級鉄十字章を取り外してスリエの軍服に取り付けた[22]

第1小隊長フランソワ・アポロ武装曹長とフォントネー武装上等兵W-Strmm. Fontenay)はそれぞれ2輌の敵戦車を撃破した。20歳の元学生ジャン・ウダン(Jean Oudin)は1輌目を攻撃した際に負傷したが後送を拒否して戦い続け、2輌目を仕留め損ねた際に戦死した。この時、第2小隊長ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は敵戦車1輌を撃破していた[22]

そのような状況の中、1輌のIS-2(スターリン重戦車)が出現した。しかし、故障のためか同戦車は歩兵の援護下で停車した。スリエとヴォロは匍匐前進で近付き、突撃銃の掃射を浴びせて戦車の周りの赤軍兵を追い散らした。やがてスリエとヴォロの戦友デュピュア(Dupuis)、ギャロ(Garrot)、シェニッツ(Schenitz)も戦闘騒音を耳にして集まり、彼らはスターリン重戦車を包囲した。スターリン重戦車は機銃を掃射してフランス兵を塹壕に釘付けにしたが、ヴォロが発射したパンツァーファウストの弾頭が直撃し、松明のごとく炎上した[22]

その後、ヴォロたちは重傷を負ったシェニッツ(スターリン重戦車を狙った友軍の銃撃の兆弾が命中)を引きずって中隊に帰還した(シェニッツは数分後に救護所で死亡)。スターリン重戦車を撃破したヴォロのためにヴェーバーSS中尉が授与できる勲章は無かったが、撃墜された後に地上で「シャルルマーニュ」師団名誉中隊と肩を並べて戦い、赤軍戦車を2輌撃破していた1人のドイツ空軍戦闘機パイロット[22]が自身の一級鉄十字章をヴォロに授与した[5]

1945年2月25日午後5時30分、この時点においてエルゼナウで撃破された赤軍戦車は19輌を数えたが、そのうち17輌は「シャルルマーニュ」師団名誉中隊が多大な犠牲を払いつつ撃破したものであった。ヴォロの戦友ピエール・スリエ武装伍長は5輌目の敵戦車を攻撃する際に、カミーユ・ルーヴルSS義勇上等兵(SS-Frw. Strmm. Camille Rouvre)は3輌目を撃破した時にそれぞれ戦死し、第1小隊長フランソワ・アポロ武装曹長は2度負傷して後送された。ヴォロをはじめ、これら「戦車殺し」の多くの者がドイツ海軍出身の武装親衛隊フランス人義勇兵であった[23][注 7]

ポメラニア戦線撤退

しかし、名誉中隊の奮戦も甲斐なく、「シャルルマーニュ」師団は1945年2月25日午後遅くにハマーシュタイン、翌26日にノイシュテッティン(Neustettin、現シュチェチネク(Szczecinek))まで後退した。

ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長が所属する名誉中隊はエルゼナウの戦いで損害を被ったため、師団本隊に先んじてポメラニア戦線から引き揚げられた。エルゼナウの戦いの後、中隊はバルト海沿岸部の都市コールベルク(Kolberg、現コウォブジェク(Kołobrzeg))に到達し、その後は鉄道でグライフェンベルク(Greifenberg、現グリフィツェ(Gryfice))に移動[24]、3月8日にドイツ北部の都市アンクラムAnklam)へ到着した[25]

1945年4月 ベルリン市街戦

戦術学校

大損害を被ってポメラニア戦線から撤退した「シャルルマーニュ」師団の生存者は、1945年3月中旬から4月中旬の間にドイツ北部地域で1個連隊としての再編成に着手した。これに伴ってウジェーヌ・ヴォロ武装伍長が所属する名誉中隊は「戦術学校」(Kampfschule)と名称を改め、一兵卒に至るまで戦闘継続を希望した戦術学校には再編後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)内で最初に迷彩服が支給された[26]

1945年4月24日、「シャルルマーニュ」師団(連隊)の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵から成るフランスSS突撃大隊」(Französische SS-Sturmbataillon)が、ソビエト赤軍に包囲されているドイツ国首都ベルリンBerlin)へ出発した。この時、ウジェーヌ・ヴォロはヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉が指揮を執る戦術学校の第6分隊長(6. Truppführer)としてベルリンへ向かった[9]

ベルリンノイケルン区の地図
パンツァーファウスト

1945年4月26日、ノイケルンの戦いで戦術学校はフランスSS突撃大隊の予備兵力としてテンペルホーフ空港からさほど離れていないヘルマン広場(Hermannplatz)に展開した。

この日の終わりまでにフランスSS突撃大隊はノイケルンで14輌のT-34を撃破したが、このうち2輌はヴォロが撃破した戦車であった。パンツァーファウストを用いた対戦車戦闘の達人であるヴォロは、戦友たちから「ゲヘナ」(Gégène[4][27]焦熱地獄[2])、または賞賛と若干の嫉妬交じりに「ル・シャンピオン・デュ・パンツァーファウスト」(Le champion du Panzerfaust[4]という渾名で呼ばれていた。

1945年4月29日 騎士鉄十字章受章

1945年4月29日早朝、この日までにベルリンで(26日にノイケルンで撃破した2輌のT-34含む)4輌の赤軍戦車を撃破したウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は、戦術学校指揮官のヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉に紹介されてフランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネSS義勇大尉SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet)と対面した。この時、ヴォロは戦友のロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Roger Albert-Brunet:フネの部下の1人で、4月29日朝までにベルリンで赤軍戦車3輌撃破)と共に敵戦車の撃破数を競っていた[28]

それから24時間も経たないうちにヴォロはベルリン「Z」地区(官庁街)において総統官邸目指して進撃する赤軍戦車をさらに4輌撃破し、ベルリン市街戦での個人戦車撃破記録を8輌に伸ばした。これを知った「ノルトラント」師団グスタフ・クルケンベルクSS少将(ベルリン到着後、「ノルトラント」師団長に就任)は、ヴォロを騎士鉄十字章受章候補に推薦した。

- Sur tous les champs de bataille du monde, les soldats français ont fait la preuve de leur bravoure. Unterscharführer Vaulot, restez fidèle à cette tradition...
世界中の戦場フランス兵はその勇敢さを証明した。ヴォロ伍長はこの伝統を如実に受け継いでいる・・・」
グスタフ・クルケンベルクSS少将(1945年4月29日、ベルリン地下鉄市中央駅)[4]
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騎士鉄十字章

1945年4月29日午後、ベルリン地下鉄市中央駅(U-Bahnhof Stadtmitte)構内においてクルケンベルクは「短いローソクのゆらめく光のなかで」[2]、「フランス人初の騎士鉄十字章受章者となることに喜びを隠せない」[4]ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長に騎士鉄十字章を授与した。授章式にはクルケンベルクの側近とヴォロの戦友たちも居合わせており、クルケンベルクはフランス語で短い演説を催し、ヴォロを褒め称えた[4][9]

そしてヴォロの周りには戦友たちが集まり、騎士鉄十字章を佩用したこの若いパリジャンを大いに祝福した[27]。授章式の後、ヴォロは戦友のピエール・ロスタン武装上級曹長W-Hscha. Pierre Rostaing:フランスSS突撃大隊第3中隊長)に対して次のように言った[6][9][29][注 8]

この勲章を手に入れる、その願いだけで俺は戦ってきた。それが果たされた今、俺はもう死んでもいい。
(J'ai combattu avec un unique désir : gagner cette décoration. Maintenant c'est fait. Je peux mourir.)

かくして念願の騎士鉄十字章を手に入れたヴォロ武装伍長であったが、この騎士鉄十字章受章者に新たな命令が与えられた。それは斥候班を率いてホテル・カイザーホーフ(Hotel Kaiserhof)に向かい、クルケンベルクの司令部で用いるテーブルリネンを探せというものであった。

赤軍が周囲一帯を砲撃している中、地下鉄駅から地上に出た斥候班はホテルの廃墟に向かって全力で走り始めた。途中で上等兵1名が迫撃砲によって負傷して地下室に運ばれた(彼は3日後に捕虜となった)が、任務は続けられた。ホテルの廃墟から出て戻ってきた斥候班は大量のテーブルナプキンをクルケンベルクに届けたが、同時に持ち帰った上物のワインボトル数本はクルケンベルクに見つからぬようにしていた[30]

1945年5月2日 最期

ベルリン市街戦の最終局面である1945年5月1日から2日にかけての夜、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は「ノルトラント」師団グスタフ・クルケンベルクSS少将が主導するベルリン北部(北西部)方面への脱出計画に参加した。

シュプレー川を渡る際、クルケンベルクはベルリン出身で地理に明るい2名の将校を偵察として先発させたが、彼らは戻ってこなかった。そのため5月2日午前3時、クルケンベルクはフランス人義勇兵を率いて自ら偵察に向かった。クルケンベルク一行はシャリテ病院(Charité)を通過しようとしたが、院長がソビエト赤軍の指揮下に入ることに同意して同病院は中立地帯と化していたため、彼らは行き先をショセー通り(Chausseestraße)に変更した[31]。やがてクルケンベルク一行のもとに、前任の「ノルトラント」師団ヨアヒム・ツィーグラーSS少将(SS-Brigf. Joachim Ziegler)と「ノルトラント」師団の一部の将兵が合流した。これによってクルケンベルクのグループはヴォロも含め、騎士鉄十字章受章者が4人もしくは5人いる状況になった[32]

その後、クルケンベルクと共にシュプレー川を渡った者たちは小隊規模のいくつかのグループに分かれた。そのグループの1つはヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉、フランソワ・アポロとヴォロを含む12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士とスカンディナヴィア人義勇兵から成っていた。西を目指して進む彼らのグループには2輌のティーガー重戦車[注 9]が随伴していた[33]

しかし、ティーアガルテンまで辿り着いた彼らはシャルロッテンブルクへ続く道を塞ぐ赤軍の強固な抵抗に遭遇した。この戦闘でティーガー戦車2輌は敵陣の突破に成功したが、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は赤軍狙撃兵銃弾[6][33][34]頭部命中)[6][27]によって命を落とした[注 10]。満21歳没。

キャリア

党員・隊員番号

階級

ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団

ドイツ海軍

不明

武装親衛隊

勲章

ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団

ドイツ海軍

不明

武装親衛隊

脚注・出典

脚注
  1. ^ 「SS所属武装***」(Waffen-*** der SS)の名称を義勇兵の氏名と併記する場合は、「SS所属」(der SS)の部分が省略される。
     例: ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長W-Uscha. Eugène Vaulot)
  2. ^ 出典はフランス官報Jounal officiel)2/3/48。
     なお、Richard Landwehrの著書 « Charlemagne's Legionnaires »
    • 初版(Bibliophile Legion Books, 1989)
    • 新装改訂版(« French Volunteers of the Waffen-SS » Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006)p151
    におけるヴォロの生年(1921年)は誤り[9]
  3. ^ Landwehrは著書でヴォロの職業を「電気工事士」(electrician)[11]としている。
  4. ^ ドイツ海軍は1944年2月からフランス人義勇兵の募集を開始しており、これに伴って3月中旬にヴィシー政権はドイツ海軍へフランス国民(フランス人)が志願入隊することを認める法律を制定していた[12]
  5. ^ ほとんどの文献ではドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊時代の訓練期間中のヴォロが「第4中隊第3小隊の分隊長[5][6][11][13]とされているが、Forbesによるとドイツ海軍第28海軍基幹(訓練)大隊第4中隊はエストニア人およびラトビア人義勇兵中隊である(第3中隊と第6中隊がフランス人中隊)[14]
  6. ^ ウジェーヌ・ヴォロが武装親衛隊へ移籍(入隊)した年月日は文献によって異なっている。
    • 「1944年9月16日」(Entre à la Waffen-SS le 16.09.1944.)[6]
    • 「1944年9月20日」(Am 20. September 1944)[5]
  7. ^ 文献によってはエルゼナウの戦いの日付が「1945年2月26日」(26. Februar 1945)、フランス人義勇兵が撃破したソビエト赤軍戦車の数が「18輌」(18 Sowjetpanzer im Nahkampf vernichten)とされている[5]
  8. ^ 出典はピエール・ロスタンの回顧録 « Le prix d'un serment »
    • 初版(La Table Ronde, 1975)p194
    • 新装改訂版(Editions du Paillon, 2008)p190
     しかし、ロスタンは回顧録の中でヴォロ(Vaulot)の綴りを « Volot » 、階級を「兵長」(caporal-chef)、死の状況を「彼は8輌目の敵戦車を攻撃中に戦死した」(il sera tué en abattant un huitièment char.)と誤って記している。また、Saint-Loupの著書 « Les Hérétiques »(Presses de la Cité, 1965)よると、ロスタンは自身が騎士鉄十字章を受章できなかったことを非常に悔しがったという[9]
  9. ^ 原文表記は « two Tiger tanks. »(出典はSaint-Loupの著書p495)。ティーガーⅠティーガーⅡかは明示されていない。
  10. ^ アントニー・ビーヴァー 『ベルリン陥落 1945』(白水社、2004年)p566の記述では、砲火にさらされたウジェーヌ・ヴァンロー(ヴォロ)は「付近の地下室で三日後に死亡した」とされている。しかし、この箇所の出典は明記されていない。
出典
  1. ^ Jean Mabire « Mourir à Berlin »(réédition : Grancher, 1995)p221
  2. ^ a b c d e アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) 『ベルリン陥落 1945』(白水社、2004年)p516
  3. ^ Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
    • NATION EUROPA VERLAG, 2003(第5版)p929
    • Edition Zeitgeschichte, 2012(第6版:2012年度新装改訂版)p783
  4. ^ a b c d e f Mabire, « Mourir à Berlin »a(réédition : Grancher, 1995)p222
  5. ^ a b c d e f g h i j Patrick Agte « Europas Freiwillige der Waffen-SS »(Munin Verlag, 2000)p163
  6. ^ a b c d e f g h i j k Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : Eugène VAULOT"
  7. ^ ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳)『SS戦車隊・下』(大日本絵画、1994年)p282
  8. ^ 高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』(大日本絵画、2005年)p315
  9. ^ a b c d e f g h i j k Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)p447
  10. ^ Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »(Edition Zeitgeschichte, 2012)p782
  11. ^ a b c Richard Landwehr « French Volunteers of the Waffen-SS »(Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006)pp.150-152.
  12. ^ Forbes, p146
  13. ^ Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
    • NATION EUROPA VERLAG, 2003(第5版)p928
    • Edition Zeitgeschichte, 2012(第6版:2012年度新装改訂版)p783
  14. ^ a b Forbes, p147
  15. ^ Forbes, p148
  16. ^ Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : François Appolot"
  17. ^ Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Soldats & Caporaux : Robert SOULAT"
  18. ^ Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : Pierre SOULIER"
  19. ^ a b Forbes, p213
  20. ^ Forbes, p214, 217.
  21. ^ Forbes, pp.284-286.
  22. ^ a b c d Forbes, p287
  23. ^ Forbes, p288
  24. ^ Forbes, pp.356-357.
  25. ^ Forbes, p382
  26. ^ Forbes, p392
  27. ^ a b c Agte, p164
  28. ^ Forbes, p442
  29. ^ Pierre Rostaing « Le prix d'un serment »(réédition : Editions du Paillon, 2008)p190
  30. ^ Forbes, pp.447-448.
  31. ^ Tony Le Tissier « SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS »(Pen & Sword Books, 2010.)p156
  32. ^ Forbes, p458
  33. ^ a b Forbes, p459
  34. ^ Landwehr(2006), p152

文献

英語

  • Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » U.K.: Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X
  • Richard Landwehr « French Volunteers of the Waffen-SS » United States of America : Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3
  • Tony Le Tissier « SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS » South Yorkshire : Pen & Sword Books, 2010. ISBN 978-1-84884-231-1

ドイツ語

  • Patrick Agte « Europas Freiwillige der Waffen-SS : Biographien aller Inhaber des Ritterkreuzes, des Deutschen Kreuzes in Gold, der Ehrenblattspange und der Nahkampfspange in Gold, die keine Deutschen waren » Deutschland : Munin Verlag, 2000. ISBN 3-9807215-0-7
  • Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »

フランス語

日本語

  • アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) 『ベルリン陥落 1945』(白水社、2004年) ISBN 4-560-02600-9
  • ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) 『SS戦車隊・下』(大日本絵画、1994年) ISBN 4-499-22630-9
  • 高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』(大日本絵画、2005年) ISBN 4-499-22748-8

関連項目