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'''オレステス・デストラーデ・ククアス'''('''Orestes Destrade Cucuas''' , [[1962年]][[5月8日]] - )は、[[キューバ]]出身の元[[プロ野球選手]][[一塁手]]・[[外野手]]、右投げ両打ち
'''オレステス・デストラーデ・ククアス'''('''Orestes Destrade Cucuas''' , [[1962年]][[5月8日]] - )は、[[キューバ]]出身の元[[プロ野球選手]][[一塁手]]・[[外野手]]野球解説者


日本での愛称は'''オーレ'''、'''カリブの怪人'''<ref name="Number_19901120_42"/>。アメリカでは'''オー'''と呼ばれた<ref name="base_19890619_109"/>。
[[日本プロ野球]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の主砲として活躍した。


== 来歴・人物 ==
== 来歴 ==
=== NYY、PIT時代 ===
[[フィデル・カストロ]]独裁時代のキューバに産まれ、幼少期に家族と共に同国を脱し、[[アメリカ合衆国]]の[[フロリダ]]に[[移住]]する。{{by|1981年}}に[[ニューヨーク・ヤンキース]]と契約し、{{by|1987年}}9月11日に[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]デビュー。{{by|1988年}}、[[ピッツバーグ・パイレーツ]]に移籍。メジャーでは[[一塁手]]として出場した。
[[フィデル・カストロ]]統治時代の[[キューバ]]で産まれ、5歳の時に家族とともに[[メキシコ]]を経由して[[アメリカ合衆国]]に[[亡命]]した<ref name="base_mag_201109_25">「特別読み切り あの助っ人は今(I)デストラーデ 西武黄金期を支えたカリブの怪人」『[[ベースボールマガジン]]』、2011年9月号、P.25</ref>。当初は叔父の住む[[ニューヨーク]]に住み、[[英語]]の話せない父は[[タクシー]]運転手、大学の教員だった母は[[スペイン語]]教師をしていたが、生活は苦しかった<ref name="base_mag_201109_25"/>。このため、9歳の時に一家はキューバ人亡命者のコミュニティがある[[フロリダ州]][[マイアミ]]に[[移住]]している<ref name="base_mag_201109_25"/><ref name="Number_19901120_40">「'90日本シリーズ 緊急インタビュー&プロフィール 褐色の爆発」『[[Sports Graphic Number]]』、1990年11月20日号、P.40</ref>。


マイアミで野球を始めて[[フレッド・マグリフ]]らと仲良くなったが、高校時代は目立った実績を挙げていない<ref name="base_mag_201109_26">『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.26</ref>。[[タンパ]]にある{{仮リンク|フロリダ短期大学|en|Florida College}}に進むと、野球と[[バスケットボール]]に夢中になった<ref name="Number_19901120_40"/>。この間、実家から離れた事で精神的に成長したという<ref name="Number_19901120_40"/>。同校では58試合で23[[本塁打]]を放ち、フロリダ州の短期大学ののシーズン記録を更新した<ref name="Number_19901120_40"/>。この活躍で注目され、{{by|1981年}}に[[ニューヨーク・ヤンキース]]と契約した<ref name="base_mag_201109_26"/>。しかしマイナーリーグで右足の[[靭帯損傷|靭帯断裂]]と[[骨折]]という重傷を負い、一時は選手生命が終わったと感じるなど、{{by|1987年}}9月11日の[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]デビューまでに約8年間を要した<ref name="base_mag_201109_26"/>。
{{by|1989年}}6月、前年からチームの主砲を務めていた[[タイ・バンバークレオ]]の不振のために[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]が急遽獲得した。デビュー戦でいきなり[[本塁打]]を放つと左右両打席から本塁打を量産。1年目は[[規定打席]]不足ながら32本塁打を放ったが、[[ラルフ・ブライアント]]擁する[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]に敗れ、惜しくもリーグ優勝は逃した。翌{{by|1990年}}も序盤から打ちまくり、[[6月16日]]の対[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]戦ではチームの9連敗を阻止するサヨナラ本塁打を放つなど、ここぞの場面での一発が光った。[[1990年の日本シリーズ]]では[[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[槙原寛己]]から特大の3ラン本塁打を放ってチームを波に乗せ、その後も猛打を発揮して巨人相手に4連勝する原動力となり、シリーズ[[最優秀選手|MVP]]に輝いた。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]では1990年から{{by|1992年}}まで'''3年連続して第1戦の第1打席に本塁打'''(いずれも左打席)を放つ記録を持っている。このように日本シリーズでも、シーズンと違わない打棒で森西武の3年連続日本一(1990年~1992年)になくてはならない原動力となった。


{{by|1988年}}5月30日、{{仮リンク|ヒッポリト・ペーニャ|en|Hipolito Pena}}とのトレードで[[ピッツバーグ・パイレーツ]]に移籍<ref name="base_ref">[http://www.baseball-reference.com/players/d/destror01.shtml baseball-reference.com Orestes Destrade]</ref>。同年はAAAの[[バッファロー・バイソンズ]]で4番を務め、5月には2度の1試合4安打、6月には4試合連続本塁打を記録している<ref name="base_19890619_109">「アメリカから緊急“デューダ”途中入団助っ人の『実力診断』 デストラーデ 早くも“効果”。狙いは郭、バークレオへの刺激剤か!?」『週刊ベースボール』、1989年6月19日号、P.109</ref>。9月11日の対[[フィラデルフィア・フィリーズ|フィリーズ]]戦では[[スティーブ・ベドローシアン]]からMLB初の[[本塁打]]を放っている<ref>[http://www.baseball-reference.com/boxes/PIT/PIT198809110.shtml baseball-reference.com Sep 11, 1988, Phillies at Pirates Box Score and Play by Play]</ref>。
[[秋山幸二]]・[[清原和博]]と「[[AK砲|'''AKD砲''']]」を結成し、{{by|1991年}}まで2年連続[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]、1992年まで3年連続[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]とチームになくてはならぬ存在となっていたが、1992年オフ、MLB新球団の[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]からの参加要請を受けて西武を退団。{{by|1993年}}は20本塁打を放ったが{{by|1994年}}途中解雇された。


{{by|1989年}}は[[日本プロ野球|NPB]]の[[阪神タイガース]]監督の[[村山実]]が獲得を希望してデストラーデと食事までしていたが、フロントの拒否によって破談となった<ref name="Number_19901120_42">『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.42</ref>。その後バイソンズでプレーしていたところ、チームの主砲を務めていた[[タイ・バンバークレオ]]の不振を受けてアメリカで選手を探していた[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]スカウト部長の[[根本陸夫]]がオファーを出し、外国人選手としては格安の年俸3,250万円(推定)で入団契約を結んでいる<ref name="Number_19901120_42"/>。
{{by|1995年}}には西武に復帰するが、前年からのブランクや家庭問題で精彩を欠き、6月途中で退団した。なお、同年[[5月9日]]に[[富山市民球場アルペンスタジアム|富山アルペンスタジアム]]で行われた対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦で、0-9とリードされた8回裏2アウトから投手として登板したものの、[[高田誠 (野球)|高田誠]]に三塁打を打たれた後、[[トロイ・ニール]]と[[藤井康雄]]に四球を与え、結局1アウトも奪えずに降板した。監督の[[東尾修]]は試合後に「点差も離れていたのでファンサービスのつもりで登板させた」と話している。


=== 西武時代 ===
現在は[[フロリダ州|フロリダ]]で実業家をしており、[[プロ野球マスターズリーグ]]の[[東京ドリームス]]でもプレーする。また、現在米国スポーツ番組[[ESPN]]にて野球解説を務めている。
6月7日に来日すると環境に慣れるために二軍スタートとなったが、バークレオの極度のスランプのため予定を早めて一軍に昇格し<ref name="base_mag_201109_27">『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.27</ref>、NPBデビュー戦となった6月20日の対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦でいきなり本塁打を放っている。その後10試合ほどはNPBへの適応に苦しんだが、7月には3試合連続本塁打を記録するなど、[[清原和博]]の故障を補う活躍を見せた<ref>「BALL PARK EYE “将来型”と“現在型” ブラウンとデストラーデの気になる“違い”」『週刊ベースボール』、1989年7月24日号、P.12</ref>。8月13日の対阪急戦では[[佐藤義則]]からサヨナラ満塁本塁打を放ち<ref>読売新聞、1989年8月14日付朝刊、P.19</ref>、9月には打率.232ながら8本塁打、19打点で初の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞している<ref>[http://www.pacific.npb.or.jp/bluebook/blu2011_month.html パ・リーグ BLUE BOOK 月間MVP賞]</ref>。同年は83試合で32本という驚異的なペースで本塁打を量産した<ref name="base_19900924_32">「助っ人ファイル’90 数字より中身だ!“印象派”3外人の自己主張 O・デストラーデ 価値あるV打は数知れず、タイトル取ればMVP!?」『週刊ベースボール』、1990年9月24日号、P.32</ref>。打率こそ低かったものの打点も81とチャンスに強いところを見せ、シーズンを通じて出場すれば打撃タイトルも取れただろう、と球団首脳から高い評価を受けた<ref name="Number_19901120_42"/>。


翌{{by|1990年}}は[[ハワイ]]でのキャンプに初日から参加して日本人と全く同じ練習メニューをこなし<ref name="Number_19901120_42"/>、シーズン序盤から好調な打撃を見せた。チームが8連敗して迎えた[[6月16日]]の対[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]戦では同点の延長11回に[[山内孝徳]]からサヨナラ3ラン本塁打を放つなど、ピンチを切り抜ける活躍をたびたび見せた<ref name="Number_19901120_42"/>。8月16日の対オリックス戦では左右両打席を含む3打席連続本塁打を放つ<ref name="base_19900903_127">「垂涎の両舶来砲 デストラーデ&バークレオは秋山の影も郭の穴も消してしまうほど派手に輝く」『週刊ベースボール』、1990年9月3日号、P.127</ref>など、[[石嶺和彦]]や清原らを猛追して[[最多本塁打 (日本プロ野球)|最多本塁打]]のタイトルを獲得し、[[最多打点_(日本プロ野球)|打点王]]との二冠に輝いている。
== プレースタイル・人物 ==
笑顔を見せることは少なかったが、激しい闘志を内に秘めるタイプであり本塁打を放った後「Bomb!!」と叫びながらの[[ガッツポーズ]]('''弓引きガッツポーズ''')は非常に有名である。西武在籍時は[[打率]]こそ.260前後と高く無く、[[三振]]も非常に多かったものの[[選球眼]]に優れていた上に長打を警戒されるため[[四球]]が多く(特に91年には100四球を記録している)高い[[出塁率]]を誇り、3年連続で本塁打王を獲得した長打力、シーズン二桁[[盗塁]]の経験が3度あるなど足も速く、打つだけではなく場面に応じた判断力を持つ西武黄金時代にふさわしい選手であった。


[[読売ジャイアンツ|巨人]]と対戦した[[1990年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では、初戦の第1打席で[[槙原寛己]]から特大の3ラン本塁打を放ち、シリーズの流れを引き寄せた<ref name="asahi_19941107">朝日新聞、1994年11月7日付夕刊、P.3</ref>。この打席は0ストライク3ボールになったら真ん中のストレートだけを狙うようにコーチの[[広野功]]から指示を出されており、その通りに打ったという<ref name="yomiuri_19961108">読売新聞、1996年11月8日付夕刊、P.3</ref>。第2戦でも[[東京ドーム]]の上段まで飛び込む本塁打を[[斎藤雅樹]]から放つなど、2安打2打点を記録している<ref name="Number_19930120_74"/>。このシリーズでは16打数6安打8打点の活躍で、[[最優秀選手|MVP]]に選出された<ref name="Number_19901120_43">『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.43</ref>。同年オフにはMLBの複数の球団からオファーを受けたが西武との交渉を最優先させ<ref>読売新聞、1990年10月28日付朝刊、P.19</ref>、倍増の年俸1億3,000万円(推定)で契約を更改している<ref>読売新聞、1990年12月21日付朝刊、P.19</ref>。
左投手に強く、特に、1990年当時オリックス・ブレーブスに在籍していた[[ガイ・ホフマン]]に対し、同一投手から一シーズン本塁打8本(サヨナラ本塁打を含む)を記録している。


{{by|1991年}}は4月に3試合連続本塁打を放つなどチームの開幕からの連勝に貢献し<ref>読売新聞、1991年4月15日付朝刊、P.19</ref>、シーズンでは2年連続で最多本塁打と打点王の二冠を獲得し、ベストナインにも選出されている。[[1991年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では、2年連続となる初戦第1打席本塁打を[[佐々岡真司]]から放ち<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1991_1.html 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)]</ref>、第2戦では[[川口和久]]から2ラン本塁打を打ってこの試合唯一の打点を挙げている<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1991_2.html 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第2戦)]</ref>。
引退後は[[テレビ]]番組の野球の企画に出演し、[[東京ドーム]]であと少しでホームランかというあたり(ライトフェンス直撃)を放ったり、時速250kmの球をフェアゾーンに飛ばしたりと、健在ぶりをアピールした。


{{by|1992年}}は初のオールスターゲームに出場し、第2戦では4番打者<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/allstargame/boxscore1992_2.html 日本野球機構 1992年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第2戦)]</ref>、第3戦では5番打者<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/allstargame/boxscore1992_3.html 日本野球機構 1992年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第3戦)]</ref>としてスタメンで起用されたが、ともに4打数無安打に終わっている。同年の夏場は不振が続き、7月から8月にかけて22試合本塁打が出なかった<ref>毎日新聞、1992年8月22日付朝刊、P.17</ref>。最終的には3年連続となる最多本塁打のタイトルを獲得している。[[1992年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では、第1戦で3年連続となる第1打席本塁打を含む2本塁打を[[岡林洋一]]から放っている<ref name="nihonseries_1992_1">[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1992_1.html 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)]</ref>。第3戦では2安打を放ち<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1992_3.html 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)]</ref>、全7戦でシリーズタイ記録となる8得点を記録している<ref>朝日新聞、1992年10月27日付朝刊、P.17</ref>。
[[双子]]の兄弟がいる。

MLB新球団の[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]のスカウトとして来日していた[[カルロス・ポンセ]]から高い評価を受け、シーズン終了後に移籍を決めた<ref name="base_mag_201109_28"/>。2年契約で350万ドル(当時のレートで約4億4,000万円、推定)+130試合の出場をクリアするとボーナス50万ドル、という契約条件だったと{{仮リンク|マイアミ・ヘラルド|en|The Miami Herald}}で報じられている<ref name="Number_19930120_74">「ベースボール・ルネッサンス1993 緊急インタビュー さよならデストラーデ 僕のガッツ・ポーズを忘れないでほしい。」『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.74</ref>。なお金銭面も含めて西武には全く不満がなく、地元フロリダの球団でなければMLBには復帰しなかった、と語っている<ref name="base_mag_201109_28"/>。

=== FLA時代 ===
地元マイアミ出身としてファンから歓迎され、同じくNPBから復帰して活躍した[[セシル・フィルダー]]のような働きを期待され<ref name="Number_19930120_75">『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.75</ref>、{{by|1993年}}の開幕戦では4番・一塁手を務めている。オールスターゲームまでの成績は打率.250、7本塁打、43打点だった<ref name="base_19930802_123">「故郷フロリダでオーレは『20本塁打&90打点』を約束してくれた!!」『週刊ベースボール』1993年8月2日号、p.123</ref>が、6月に[[ゲイリー・シェフィールド]]が移籍してきてマークが分散したこともあり<ref name="base_19931115_133">「来年こそ”日本野球”の代表として30発&100打点を達成したい!!」『週刊ベースボール』、1993年11月15日号、P.133</ref>、夏場に復調してシーズン通算ではチームトップの20本塁打、87打点となった。一方、同年は一塁手として[[ナショナルリーグ|ナ・リーグ]]最多の19[[失策]]を記録している<ref name="asahi_19941107"/>。

{{by|1994年}}はリーグの一塁手最低の打率.208と極度の不振に陥り、5月22日の対[[セントルイス・カージナルス|カージナルス]]戦で大乱闘を引き起こした後、5月24日に[[ウェーバー公示]]にかけられている<ref name="base_19940620_24">「先のことは決めていないが、今年いっぱいは引退したままでいるつもりだ オレステス・デストラーデ」『週刊ベースボール』、1994年6月20日号、P.24</ref>。マリーンズではキューバ人コミュニティなど地元から大きな期待を受けて、プレッシャーを感じていたという<ref name="base_19971013_114"/>。[[ロッド・ブリューワ]]の不振もあって任意引退選手となっていた西武への復帰も予想されたが、娘の病気などもあって同年中はマイナーでもプレーせず引退を続けた<ref name="base_19940620_26">『週刊ベースボール』、1994年6月20日号、P.26</ref>。同年10月の[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]期間中に西武オーナーの[[堤義明]]が再契約の意向を表明し<ref name="asahi_19941107"/>、12月に年俸2億円(推定)で入団契約を結んでいる<ref>読売新聞、1994年12月15日付夕刊、P.3</ref>。

=== 西武復帰、現役引退後 ===
翌{{by|1995年}}には西武に復帰したが、半年以上のブランクもあって明らかな体重オーバーで往年の姿には程遠かった、と[[大塚光二]]に評されている<ref name="base_mag_201109_28"/>。春季キャンプでは右ヒザを痛め<ref>読売新聞、1995年3月1日付朝刊、P.21</ref>、オープン戦が始まっても打撃の調子は上向かなかった<ref>読売新聞、1995年3月9日付朝刊、P.23</ref>。42試合に出場して5本塁打、20打点と期待ほどの成績を残せず、夫人との離婚や子供の養育について話しあうため、6月9日に退団を表明した<ref>読売新聞、1995年6月10日付朝刊、P.21</ref>。年俸については出場した分だけの支払いで合意し、本拠地での最終出場となった6月11日の[[西武ドーム|西武球場]]での対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦の試合後、ファンに別れのあいさつをしている<ref>朝日新聞、1995年6月12日付夕刊、P.11</ref>。

帰国後は[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]でコミュニティ開発ディレクターを務め、[[タンパ]]でヒスパニック系のコミュニティを訪問したり講演、野球教室などを行った<ref name="base_19971013_112">「大リーグ新球団、タンパベイ・デビルレイズの職員として活躍中の"オーレ"の近況報告とアメリカ野球事情」『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.112</ref>。また、{{by|1996年}}には西武とデビルレイズの提携交渉にも携わっている<ref name="base_19971013_112"/>。{{by|1997年}}には[[東京ドーム]]でホームラン競争に参加し、ブランクにも関わらずホームランを打てたことでDHとして復帰するためのトレーニングを一時は真剣に検討した<ref name="base_19971013_113">『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.113</ref>。

[[プロ野球マスターズリーグ]]では[[東京ドリームス]]でプレーし、2002-2003年には本塁打王となっている<ref>読売新聞、2003年1月27日付朝刊、P.21</ref>。その後は野球解説者を務め、{{by|2009年}}には[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック A組|WBC東京ラウンド]]の解説のため、来日している<ref>[http://www.seibulions.jp/news/detail/1336.html 埼玉西武ライオンズ ニュース 『オレステス・デストラーデ氏が表敬訪問!』]</ref>。

== プレースタイル ==
NPB初の[[スイッチヒッター]]での[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]となる<ref name="yomiuri_19961108"/>など、左右両打席から[[本塁打]]を量産し、1980年代から1990年代前半の[[埼玉西武ライオンズ|西武]]黄金期で最も印象に残った外国人選手とも言われる<ref name="base_mag_201109_25"/>。[[秋山幸二]]・[[清原和博]]と構成した[[クリーンナップ]]は[[AK砲|'''AKD砲''']]と呼ばれ、他球団に恐れられた<ref name="base_mag_201109_25"/>。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]では3年連続で初戦の第1打席に本塁打を放つなど、勝負強さと集中力を高く評価され、ミスター・コンセントレーションとも呼ばれた<ref name="Number_19901120_42"/>。左投手に強く、特に、1990年当時オリックスに在籍していた[[ガイ・ホフマン]]に対し、同一投手から一シーズン本塁打8本(サヨナラ本塁打を含む)を記録している。

シーズン二桁[[盗塁]]の経験が3度あるなど、走塁技術も低くなかった。もともと[[一塁手]]だったが、西武では[[清原和博]]がいるため[[指名打者]]を務めていた<ref name="base_19931115_132">『週刊ベースボール』、1993年11月15日号、P.132</ref>。日本シリーズでは一塁守備に緩慢な動きが見られ<ref>読売新聞、1991年10月24日付朝刊、P.18</ref>、MLB復帰後も[[指名打者|DH制]]のない[[ナショナルリーグ|ナ・リーグ]]でネックとなった<ref name="asahi_19941107"/>。また、1991年にスライディングの際に尾てい骨を圧迫骨折し、その後は背中の痛みが取れず毎日守備につくことが困難になっていた<ref name="base_19971013_114">『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.114</ref>。[[1992年の日本シリーズ]]では[[左翼手]]としても起用されている<ref name="nihonseries_1992_1"/>。{{by|1989年}}6月20日から{{by|1992年}}8月5日にかけては423試合連続出場を果たしており、これはパ・リーグ外国人選手最長記録(2011年現在)である<ref>[http://pacific.npb.or.jp/bluebook/blu_crecords1.html パ・リーグ BLUE BOOK 個人打撃連続記録(1)]</ref>。

高校時代は[[投手]]もしており、{{by|1995年}}[[5月9日]]に[[富山市民球場アルペンスタジアム|富山アルペンスタジアム]]で行われた対オリックス戦で、0-9とリードされた8回裏2アウトから投手として登板した[[高田誠 (野球)|高田誠]]に[[三塁打]]を打たれた後、[[トロイ・ニール]]と[[藤井康雄]]に[[四球]]を与え、結局1アウトも奪えずに降板した。監督の[[東尾修]]は「点差も離れていたのでファンサービスのつもりで登板させた」と話している<ref>読売新聞、1995年8月9日付朝刊、P.15</ref>。なお、デストラーデ自身は登板には驚いたものの楽しんでいたという<ref name="yomiuri_19961108"/>

=== NPBについての考え ===
日本で対戦した投手については、「[[野茂英雄]]はNPB最高の投手、[[村田兆治]]はマウンドから[[オーラ]]を感じられるほどの生きる伝説」と評している<ref name="base_mag_201109_28">『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.28</ref>。2人とも変則的な投球フォームに加えて[[フォークボール]]を投げるため打ちにくかったという<ref name="Number_19950820_30">「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.30</ref>。野茂との対戦成績は79打数12安打、打率.151と非常に悪く、{{by|1991年}}にはヘッドコーチの[[黒江透修]]が[[代打]]を送ることまで考えた<ref name="Number_19950820_30"/>。また野手については、「[[ブーマー・ウェルズ]]はNPBの歴代外国人で最高の選手、[[秋山幸二]]はMLBのどの球団でも主力として活躍できる」と語っている<ref name="base_mag_201109_28"/>。

西武では毎試合前に行う長時間のミーティングが苦痛で、聞き流していた<ref name="base_mag_201109_27"/>。試合時間が長いことや[[審判員 (野球)|審判]]の威厳や技術レベルが低い点については他の外国人選手同様に不満を感じていたが、日本のスタイルを尊重しながら自分の持ち味を出すことを心がけたという<ref name="base_mag_201109_27"/>。[[川崎球場]]や[[藤井寺球場]]など古い球場も残っており、ロッカールームは悪臭もしたが、落ち着いて[[コーヒー]]を飲める場所を確保して打席が回ってくるまで集中力を高めていた<ref name="base_mag_201109_28"/>。

== 人物 ==
物静かな風貌でメガネをかけており、初来日時は[[牧師]]のようだと評されていた<ref name="base_19900924_32"/>。4歳年上の兄は[[弁護士]]をしており、一時は自身も同じ進路を目指していた<ref name="Number_19901120_40"/>。[[通訳]]とマンツーマンで[[日本語]]を習得し、[[辻発彦]]らと遠征先でカラオケに行くなど積極的にチームに溶け込んだ<ref name="Number_19901120_42"/>。『[[越冬つばめ]]』が得意で、練習中も意味不明の歌を口ずさんでチームメートを笑わせていたという<ref name="Number_19901120_42"/>。

日本では本塁打を放った後に「Boom!」<ref name="Number_19930120_75"/>と叫びながら、軽くステップを踏んで弓をひくような[[ガッツポーズ]]をするのが有名だった<ref>「すぽーつ・ふらすとれいてっど 4回 惜別。 ※日本球界を去るオレステス・デストラーデ選手」『Sports Graphic Number』、1995年7月5日号、P.20</ref>。アメリカでは侮辱とも取られるためほとんどしなかったが、日本ではむしろ周囲に期待され、特に子供から喜ばれたため進んで行っていた<ref name="Number_19930120_75"/>。

大学でもプレーしていた[[バスケットボール]]が趣味で、[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]時代は自宅のバスケットゴールで毎朝シュート練習をしていた<ref name="Number_19930720_16">「THE SCENE 或る日のデストラーデ」『Sports Graphic Number』、1993年7月20日号、P.16</ref>。[[シカゴ・ブルズ]]、[[ニューヨーク・ニックス]]と[[フェニックス・サンズ]]のファンで、もし身長があと10cm高かったら野球ではなくバスケットボールを選んでいただろう、と語っている<ref name="Number_19930720_16"/>。このほか、[[コンピュータ]]いじりや読書、映画鑑賞を趣味として挙げており<ref name="base_19890619_109"/>、試合前には[[探偵小説]]などをベンチで読んでいた<ref name="base_19900924_32"/>。また、同じ[[サンティアーゴ・デ・クーバ]]出身の[[ホセ・ナポレス]]を尊敬し、伝記などナポレスにまつわる本はほぼ読破したという<ref name="base_19900924_32"/>。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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=== 表彰 ===
=== 表彰 ===
; NPB
; NPB
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1990年 - 1992年) ※指名打者部門で3年連続選出はデストラーデのみ
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1990年 - 1992年) ※指名打者部門で3年連続選出はデストラーデのみ(2012年現在)
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]MVP:1回 ([[1990年の日本シリーズ|1990年]])
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]MVP:1回 ([[1990年の日本シリーズ|1990年]])
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回(1989年9月)
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:1回(1989年9月)
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* 初安打・初打点・初本塁打:同上、3回表に[[ガイ・ホフマン]]から2ラン
* 初安打・初打点・初本塁打:同上、3回表に[[ガイ・ホフマン]]から2ラン
* 100本塁打:1991年8月17日、対オリックス・ブルーウェーブ22回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、7回裏に[[星野伸之]]から2ラン ※史上167人目
* 100本塁打:1991年8月17日、対オリックス・ブルーウェーブ22回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、7回裏に[[星野伸之]]から2ラン ※史上167人目
* 150本塁打:1992年9月29日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム
* 150本塁打:1992年9月29日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]21回戦([[東京ドーム]])、9回表に[[白井康勝]]から同点ソロ ※史上96人目
ファイターズ]]21回戦([[東京ドーム]])、9回表に[[白井康勝]]から同点ソロ ※史上96人目
* 初登板:1995年5月9日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦([[富山アルペンスタジアム]])、8回裏2死に救援登板、1被安打2四球を許し降板
* 初登板:1995年5月9日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦([[富山アルペンスタジアム]])、8回裏2死に救援登板、1被安打2四球を許し降板
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1992年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1992年)
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* '''2''' (1988年)
* '''2''' (1988年)
* '''39''' (1989年 - 1995年)
* '''39''' (1989年 - 1995年)

== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2013年4月23日 (火) 09:34時点における版

オレステス・デストラーデ
Orestes Destrade
ファイル:SL-Orestes-Destrade.jpg
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 キューバの旗 サンティアーゴ・デ・クーバ州
サンティアーゴ・デ・クーバ
生年月日 (1962-05-08) 1962年5月8日(61歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
220 lb =約99.8 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1981年
初出場 MLB / 1987年9月11日
NPB / 1989年6月20日
最終出場 MLB / 1994年5月24日
NPB / 1995年6月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

オレステス・デストラーデ・ククアスOrestes Destrade Cucuas , 1962年5月8日 - )は、キューバ出身の元プロ野球選手一塁手外野手)、野球解説者。

日本での愛称はオーレカリブの怪人[1]。アメリカではオーと呼ばれた[2]

来歴

NYY、PIT時代

フィデル・カストロ統治時代のキューバで産まれ、5歳の時に家族とともにメキシコを経由してアメリカ合衆国亡命した[3]。当初は叔父の住むニューヨークに住み、英語の話せない父はタクシー運転手、大学の教員だった母はスペイン語教師をしていたが、生活は苦しかった[3]。このため、9歳の時に一家はキューバ人亡命者のコミュニティがあるフロリダ州マイアミ移住している[3][4]

マイアミで野球を始めてフレッド・マグリフらと仲良くなったが、高校時代は目立った実績を挙げていない[5]タンパにあるフロリダ短期大学英語版に進むと、野球とバスケットボールに夢中になった[4]。この間、実家から離れた事で精神的に成長したという[4]。同校では58試合で23本塁打を放ち、フロリダ州の短期大学ののシーズン記録を更新した[4]。この活躍で注目され、1981年ニューヨーク・ヤンキースと契約した[5]。しかしマイナーリーグで右足の靭帯断裂骨折という重傷を負い、一時は選手生命が終わったと感じるなど、1987年9月11日のメジャーデビューまでに約8年間を要した[5]

1988年5月30日、ヒッポリト・ペーニャ英語版とのトレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍[6]。同年はAAAのバッファロー・バイソンズで4番を務め、5月には2度の1試合4安打、6月には4試合連続本塁打を記録している[2]。9月11日の対フィリーズ戦ではスティーブ・ベドローシアンからMLB初の本塁打を放っている[7]

1989年NPB阪神タイガース監督の村山実が獲得を希望してデストラーデと食事までしていたが、フロントの拒否によって破談となった[1]。その後バイソンズでプレーしていたところ、チームの主砲を務めていたタイ・バンバークレオの不振を受けてアメリカで選手を探していた西武ライオンズスカウト部長の根本陸夫がオファーを出し、外国人選手としては格安の年俸3,250万円(推定)で入団契約を結んでいる[1]

西武時代

6月7日に来日すると環境に慣れるために二軍スタートとなったが、バークレオの極度のスランプのため予定を早めて一軍に昇格し[8]、NPBデビュー戦となった6月20日の対オリックス戦でいきなり本塁打を放っている。その後10試合ほどはNPBへの適応に苦しんだが、7月には3試合連続本塁打を記録するなど、清原和博の故障を補う活躍を見せた[9]。8月13日の対阪急戦では佐藤義則からサヨナラ満塁本塁打を放ち[10]、9月には打率.232ながら8本塁打、19打点で初の月間MVPを受賞している[11]。同年は83試合で32本という驚異的なペースで本塁打を量産した[12]。打率こそ低かったものの打点も81とチャンスに強いところを見せ、シーズンを通じて出場すれば打撃タイトルも取れただろう、と球団首脳から高い評価を受けた[1]

1990年ハワイでのキャンプに初日から参加して日本人と全く同じ練習メニューをこなし[1]、シーズン序盤から好調な打撃を見せた。チームが8連敗して迎えた6月16日の対ダイエー戦では同点の延長11回に山内孝徳からサヨナラ3ラン本塁打を放つなど、ピンチを切り抜ける活躍をたびたび見せた[1]。8月16日の対オリックス戦では左右両打席を含む3打席連続本塁打を放つ[13]など、石嶺和彦や清原らを猛追して最多本塁打のタイトルを獲得し、打点王との二冠に輝いている。

巨人と対戦した同年の日本シリーズでは、初戦の第1打席で槙原寛己から特大の3ラン本塁打を放ち、シリーズの流れを引き寄せた[14]。この打席は0ストライク3ボールになったら真ん中のストレートだけを狙うようにコーチの広野功から指示を出されており、その通りに打ったという[15]。第2戦でも東京ドームの上段まで飛び込む本塁打を斎藤雅樹から放つなど、2安打2打点を記録している[16]。このシリーズでは16打数6安打8打点の活躍で、MVPに選出された[17]。同年オフにはMLBの複数の球団からオファーを受けたが西武との交渉を最優先させ[18]、倍増の年俸1億3,000万円(推定)で契約を更改している[19]

1991年は4月に3試合連続本塁打を放つなどチームの開幕からの連勝に貢献し[20]、シーズンでは2年連続で最多本塁打と打点王の二冠を獲得し、ベストナインにも選出されている。同年の日本シリーズでは、2年連続となる初戦第1打席本塁打を佐々岡真司から放ち[21]、第2戦では川口和久から2ラン本塁打を打ってこの試合唯一の打点を挙げている[22]

1992年は初のオールスターゲームに出場し、第2戦では4番打者[23]、第3戦では5番打者[24]としてスタメンで起用されたが、ともに4打数無安打に終わっている。同年の夏場は不振が続き、7月から8月にかけて22試合本塁打が出なかった[25]。最終的には3年連続となる最多本塁打のタイトルを獲得している。同年の日本シリーズでは、第1戦で3年連続となる第1打席本塁打を含む2本塁打を岡林洋一から放っている[26]。第3戦では2安打を放ち[27]、全7戦でシリーズタイ記録となる8得点を記録している[28]

MLB新球団のフロリダ・マーリンズのスカウトとして来日していたカルロス・ポンセから高い評価を受け、シーズン終了後に移籍を決めた[29]。2年契約で350万ドル(当時のレートで約4億4,000万円、推定)+130試合の出場をクリアするとボーナス50万ドル、という契約条件だったとマイアミ・ヘラルド英語版で報じられている[16]。なお金銭面も含めて西武には全く不満がなく、地元フロリダの球団でなければMLBには復帰しなかった、と語っている[29]

FLA時代

地元マイアミ出身としてファンから歓迎され、同じくNPBから復帰して活躍したセシル・フィルダーのような働きを期待され[30]1993年の開幕戦では4番・一塁手を務めている。オールスターゲームまでの成績は打率.250、7本塁打、43打点だった[31]が、6月にゲイリー・シェフィールドが移籍してきてマークが分散したこともあり[32]、夏場に復調してシーズン通算ではチームトップの20本塁打、87打点となった。一方、同年は一塁手としてナ・リーグ最多の19失策を記録している[14]

1994年はリーグの一塁手最低の打率.208と極度の不振に陥り、5月22日の対カージナルス戦で大乱闘を引き起こした後、5月24日にウェーバー公示にかけられている[33]。マリーンズではキューバ人コミュニティなど地元から大きな期待を受けて、プレッシャーを感じていたという[34]ロッド・ブリューワの不振もあって任意引退選手となっていた西武への復帰も予想されたが、娘の病気などもあって同年中はマイナーでもプレーせず引退を続けた[35]。同年10月の日本シリーズ期間中に西武オーナーの堤義明が再契約の意向を表明し[14]、12月に年俸2億円(推定)で入団契約を結んでいる[36]

西武復帰、現役引退後

1995年には西武に復帰したが、半年以上のブランクもあって明らかな体重オーバーで往年の姿には程遠かった、と大塚光二に評されている[29]。春季キャンプでは右ヒザを痛め[37]、オープン戦が始まっても打撃の調子は上向かなかった[38]。42試合に出場して5本塁打、20打点と期待ほどの成績を残せず、夫人との離婚や子供の養育について話しあうため、6月9日に退団を表明した[39]。年俸については出場した分だけの支払いで合意し、本拠地での最終出場となった6月11日の西武球場での対ロッテ戦の試合後、ファンに別れのあいさつをしている[40]

帰国後はタンパベイ・デビルレイズでコミュニティ開発ディレクターを務め、タンパでヒスパニック系のコミュニティを訪問したり講演、野球教室などを行った[41]。また、1996年には西武とデビルレイズの提携交渉にも携わっている[41]1997年には東京ドームでホームラン競争に参加し、ブランクにも関わらずホームランを打てたことでDHとして復帰するためのトレーニングを一時は真剣に検討した[42]

プロ野球マスターズリーグでは東京ドリームスでプレーし、2002-2003年には本塁打王となっている[43]。その後は野球解説者を務め、2009年にはWBC東京ラウンドの解説のため、来日している[44]

プレースタイル

NPB初のスイッチヒッターでの本塁打王となる[15]など、左右両打席から本塁打を量産し、1980年代から1990年代前半の西武黄金期で最も印象に残った外国人選手とも言われる[3]秋山幸二清原和博と構成したクリーンナップAKD砲と呼ばれ、他球団に恐れられた[3]日本シリーズでは3年連続で初戦の第1打席に本塁打を放つなど、勝負強さと集中力を高く評価され、ミスター・コンセントレーションとも呼ばれた[1]。左投手に強く、特に、1990年当時オリックスに在籍していたガイ・ホフマンに対し、同一投手から一シーズン本塁打8本(サヨナラ本塁打を含む)を記録している。

シーズン二桁盗塁の経験が3度あるなど、走塁技術も低くなかった。もともと一塁手だったが、西武では清原和博がいるため指名打者を務めていた[45]。日本シリーズでは一塁守備に緩慢な動きが見られ[46]、MLB復帰後もDH制のないナ・リーグでネックとなった[14]。また、1991年にスライディングの際に尾てい骨を圧迫骨折し、その後は背中の痛みが取れず毎日守備につくことが困難になっていた[34]1992年の日本シリーズでは左翼手としても起用されている[26]1989年6月20日から1992年8月5日にかけては423試合連続出場を果たしており、これはパ・リーグ外国人選手最長記録(2011年現在)である[47]

高校時代は投手もしており、1995年5月9日富山アルペンスタジアムで行われた対オリックス戦では、0-9とリードされた8回裏2アウトから投手として登板した。高田誠三塁打を打たれた後、トロイ・ニール藤井康雄四球を与え、結局1アウトも奪えずに降板した。監督の東尾修は「点差も離れていたのでファンサービスのつもりで登板させた」と話している[48]。なお、デストラーデ自身は登板には驚いたものの楽しんでいたという[15]

NPBについての考え

日本で対戦した投手については、「野茂英雄はNPB最高の投手、村田兆治はマウンドからオーラを感じられるほどの生きる伝説」と評している[29]。2人とも変則的な投球フォームに加えてフォークボールを投げるため打ちにくかったという[49]。野茂との対戦成績は79打数12安打、打率.151と非常に悪く、1991年にはヘッドコーチの黒江透修代打を送ることまで考えた[49]。また野手については、「ブーマー・ウェルズはNPBの歴代外国人で最高の選手、秋山幸二はMLBのどの球団でも主力として活躍できる」と語っている[29]

西武では毎試合前に行う長時間のミーティングが苦痛で、聞き流していた[8]。試合時間が長いことや審判の威厳や技術レベルが低い点については他の外国人選手同様に不満を感じていたが、日本のスタイルを尊重しながら自分の持ち味を出すことを心がけたという[8]川崎球場藤井寺球場など古い球場も残っており、ロッカールームは悪臭もしたが、落ち着いてコーヒーを飲める場所を確保して打席が回ってくるまで集中力を高めていた[29]

人物

物静かな風貌でメガネをかけており、初来日時は牧師のようだと評されていた[12]。4歳年上の兄は弁護士をしており、一時は自身も同じ進路を目指していた[4]通訳とマンツーマンで日本語を習得し、辻発彦らと遠征先でカラオケに行くなど積極的にチームに溶け込んだ[1]。『越冬つばめ』が得意で、練習中も意味不明の歌を口ずさんでチームメートを笑わせていたという[1]

日本では本塁打を放った後に「Boom!」[30]と叫びながら、軽くステップを踏んで弓をひくようなガッツポーズをするのが有名だった[50]。アメリカでは侮辱とも取られるためほとんどしなかったが、日本ではむしろ周囲に期待され、特に子供から喜ばれたため進んで行っていた[30]

大学でもプレーしていたバスケットボールが趣味で、フロリダ・マーリンズ時代は自宅のバスケットゴールで毎朝シュート練習をしていた[51]シカゴ・ブルズニューヨーク・ニックスフェニックス・サンズのファンで、もし身長があと10cm高かったら野球ではなくバスケットボールを選んでいただろう、と語っている[51]。このほか、コンピュータいじりや読書、映画鑑賞を趣味として挙げており[2]、試合前には探偵小説などをベンチで読んでいた[12]。また、同じサンティアーゴ・デ・クーバ出身のホセ・ナポレスを尊敬し、伝記などナポレスにまつわる本はほぼ読破したという[12]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1987 NYY 9 24 19 5 5 0 0 0 5 1 0 0 0 0 5 0 0 5 1 .263 .417 .263 .680
1988 PIT 36 53 47 2 7 1 0 1 11 3 0 0 0 1 5 0 0 17 0 .149 .226 .234 .460
1989 西武 83 359 292 56 75 12 0 32 183 81 4 0 0 6 59 4 2 75 7 .257 .379 .627 1.006
1990 130 552 476 81 125 19 0 42 270 106 10 5 0 3 70 3 3 165 7 .263 .359 .567 .926
1991 130 544 437 90 117 21 0 39 255 92 15 5 0 4 100 5 3 119 5 .268 .404 .584 .988
1992 128 548 448 87 119 19 0 41 261 87 12 8 0 2 95 3 3 125 9 .266 .396 .583 .979
1993 FLA 153 637 569 61 145 20 3 20 231 87 0 2 1 6 58 8 3 130 17 .255 .324 .406 .730
1994 39 152 130 12 27 4 0 5 46 15 1 0 0 1 19 1 2 32 2 .208 .316 .354 .670
1995 西武 46 188 163 17 40 6 1 6 66 23 1 1 0 1 24 1 0 45 6 .245 .340 .405 .745
MLB:4年 237 866 765 80 184 25 3 26 293 106 1 2 1 8 87 9 5 184 20 .241 .319 .383 .702
NPB:5年 517 2191 1816 331 476 77 1 160 1035 389 42 19 0 16 348 16 11 529 34 .262 .381 .570 .951
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1995 西武 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 0.0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----
NPB:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 0.0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----

タイトル

NPB
  • 本塁打王:3回 (1990年 - 1992年) ※外国人打者では唯一の3年連続タイトル獲得
  • 打点王:2回 (1990年、1991年)

表彰

NPB

記録

NPB

背番号

  • 53 (1987年)
  • 2 (1988年)
  • 39 (1989年 - 1995年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.42
  2. ^ a b c 「アメリカから緊急“デューダ”途中入団助っ人の『実力診断』 デストラーデ 早くも“効果”。狙いは郭、バークレオへの刺激剤か!?」『週刊ベースボール』、1989年6月19日号、P.109
  3. ^ a b c d e 「特別読み切り あの助っ人は今(I)デストラーデ 西武黄金期を支えたカリブの怪人」『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.25
  4. ^ a b c d e 「'90日本シリーズ 緊急インタビュー&プロフィール 褐色の爆発」『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.40
  5. ^ a b c 『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.26
  6. ^ baseball-reference.com Orestes Destrade
  7. ^ baseball-reference.com Sep 11, 1988, Phillies at Pirates Box Score and Play by Play
  8. ^ a b c 『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.27
  9. ^ 「BALL PARK EYE “将来型”と“現在型” ブラウンとデストラーデの気になる“違い”」『週刊ベースボール』、1989年7月24日号、P.12
  10. ^ 読売新聞、1989年8月14日付朝刊、P.19
  11. ^ パ・リーグ BLUE BOOK 月間MVP賞
  12. ^ a b c d 「助っ人ファイル’90 数字より中身だ!“印象派”3外人の自己主張 O・デストラーデ 価値あるV打は数知れず、タイトル取ればMVP!?」『週刊ベースボール』、1990年9月24日号、P.32
  13. ^ 「垂涎の両舶来砲 デストラーデ&バークレオは秋山の影も郭の穴も消してしまうほど派手に輝く」『週刊ベースボール』、1990年9月3日号、P.127
  14. ^ a b c d 朝日新聞、1994年11月7日付夕刊、P.3
  15. ^ a b c 読売新聞、1996年11月8日付夕刊、P.3
  16. ^ a b 「ベースボール・ルネッサンス1993 緊急インタビュー さよならデストラーデ 僕のガッツ・ポーズを忘れないでほしい。」『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.74
  17. ^ 『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.43
  18. ^ 読売新聞、1990年10月28日付朝刊、P.19
  19. ^ 読売新聞、1990年12月21日付朝刊、P.19
  20. ^ 読売新聞、1991年4月15日付朝刊、P.19
  21. ^ 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
  22. ^ 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第2戦)
  23. ^ 日本野球機構 1992年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第2戦)
  24. ^ 日本野球機構 1992年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第3戦)
  25. ^ 毎日新聞、1992年8月22日付朝刊、P.17
  26. ^ a b 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
  27. ^ 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)
  28. ^ 朝日新聞、1992年10月27日付朝刊、P.17
  29. ^ a b c d e f 『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.28
  30. ^ a b c 『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.75
  31. ^ 「故郷フロリダでオーレは『20本塁打&90打点』を約束してくれた!!」『週刊ベースボール』1993年8月2日号、p.123
  32. ^ 「来年こそ”日本野球”の代表として30発&100打点を達成したい!!」『週刊ベースボール』、1993年11月15日号、P.133
  33. ^ 「先のことは決めていないが、今年いっぱいは引退したままでいるつもりだ オレステス・デストラーデ」『週刊ベースボール』、1994年6月20日号、P.24
  34. ^ a b 『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.114
  35. ^ 『週刊ベースボール』、1994年6月20日号、P.26
  36. ^ 読売新聞、1994年12月15日付夕刊、P.3
  37. ^ 読売新聞、1995年3月1日付朝刊、P.21
  38. ^ 読売新聞、1995年3月9日付朝刊、P.23
  39. ^ 読売新聞、1995年6月10日付朝刊、P.21
  40. ^ 朝日新聞、1995年6月12日付夕刊、P.11
  41. ^ a b 「大リーグ新球団、タンパベイ・デビルレイズの職員として活躍中の"オーレ"の近況報告とアメリカ野球事情」『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.112
  42. ^ 『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.113
  43. ^ 読売新聞、2003年1月27日付朝刊、P.21
  44. ^ 埼玉西武ライオンズ ニュース 『オレステス・デストラーデ氏が表敬訪問!』
  45. ^ 『週刊ベースボール』、1993年11月15日号、P.132
  46. ^ 読売新聞、1991年10月24日付朝刊、P.18
  47. ^ パ・リーグ BLUE BOOK 個人打撃連続記録(1)
  48. ^ 読売新聞、1995年8月9日付朝刊、P.15
  49. ^ a b 「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.30
  50. ^ 「すぽーつ・ふらすとれいてっど 4回 惜別。 ※日本球界を去るオレステス・デストラーデ選手」『Sports Graphic Number』、1995年7月5日号、P.20
  51. ^ a b 「THE SCENE 或る日のデストラーデ」『Sports Graphic Number』、1993年7月20日号、P.16

関連項目

外部リンク