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このしぶとさと処世術からか、政勝は[[真田十勇士]]の一人・[[三好伊三入道]]のモデルとされている。
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2006年3月2日 (木) 20:38時点における版

三好 政勝みよし まさかつ天文5年(1536年) - 寛永8年12月10日1632年1月31日))は三好政長の子。三好政康の弟。

1549年、父が三好長慶に殺害されると香西元成波多野晴通と通じて、長慶に対して徹底して戦ったという。しかし長慶の死後は、三好一族として三好氏をよく補佐した。

やがて織田信長が入京してくると、政勝は他の三好一族と違って信長の実力をいち早く悟って1570年に信長の家臣となる。信長の死後は豊臣秀吉、そして徳川家康に仕えて関ケ原の戦い後は2020石を領したと言われている。その後は徳川方として、大坂の陣にも出陣し、九十六歳という長寿を保った。

このしぶとさと処世術からか、政勝は真田十勇士の一人・三好伊三入道のモデルとされている。