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2006年3月2日 (木) 20:33時点における版

三好 長慶(みよし ながよし ちょうけいとも。大永2年2月13日1522年3月10日) - 永禄7年7月4日1564年8月10日))は畿内や四国を支配した戦国大名三好元長の嫡男で三好義賢安宅冬康十河一存の兄。現在の徳島県三好市出身。通称は孫次郎、官位:従四位下。筑前守、のち修理大夫。史料では「三筑」の略称で彼の名が多く残っている。

生涯

細川家臣時代

父・元長は細川晴元配下の有力な重臣で、阿波山城に勢力を誇っていたが、1532年、元長の勢力を恐れた晴元は一向宗の力を借りて、元長を殺害してしまった。このとき長慶は河内守護代であった木沢長政の仲介や、幼少であるという理由から許されて、細川晴元に従うことになる。

長慶は父以上に智勇に優れた名将でもあれば、冷酷な人物でもあった。1539年には父の遺領を受けられなかったことに不満を持って、2千5百の兵を率いて上洛し、力によってそれを手に入れることに成功した。このとき、時の将軍・足利義晴は長慶を恐れて近江に逃走し、晴元は六角定頼に長慶との和睦を仲介してもらうほどであったという。

その後、長慶は細川氏の重臣として忠実に働き、木沢長政や遊佐長教らの敵勢力を次々と打ち破っていき、細川氏の最有力重臣にまでのし上がったのである。そして父の復讐の機会が遂に訪れた。1548年、細川晴元と敵対していた細川氏綱側に寝返って翌年、晴元と将軍・足利義輝近江に追放し、同族ながら敵対していた三好政長を討った。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになる。

三好政権の興亡

長慶の政権は、幕府を滅ぼすのではなく、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配することであった。そのため1558年、京都霊山の戦いで足利・細川軍を破ったことを機会に義輝と和睦し、自らは幕府の相伴衆となって幕政の実権を掌握したのである。さらにの経済力を握り、有能な弟たちに軍を預けて、河内大和丹波に転戦して、畿内に一大政権を築き上げたのである。

しかし三好政権は長慶の優秀な能力によって支えられているところが大きかったため、1561年の十河一存、1562年の三好義賢、1563年三好義興という相次ぐ一族の死により心身に異常を来たした長慶の勢力は大きく衰えて晩年は実権を家宰の松永久秀に操られるようになり、1564年、松永久秀の讒言を受けて弟・安宅冬康を誅殺した直後、自身も後を追うように病死したといわれている。これには謀殺説もあり、その説の支持者は、真犯人が松永久秀三好三人衆の中の誰かではないかと推測している。俗説もしくは後世の作家の創作だとも考えられるが、あり得ない話ではない。これによって三好政権は崩壊してしまった。

人物像

長慶は織田信長と同じくの経済力に目をつけたり、朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな教養人でもあった。しかし、信長と違って幕府を滅ぼして上に立つのではなく、その影となって実権を掌握するということに、長慶の限界を感じることができると思われる。


法名:聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門  墓所:京都市北区の大徳寺聚光院


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