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'''粟津 高明'''(あわづ たかあき、[[天保]]9年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]([[1838年]][[5月22日]]) - [[明治]]13年([[1880年]])[[10月29日]])は明治時代の[[プロテスタント]]の教会指導者である。「布教」に代って「伝道」という言葉を造った人物。日本基督教団[[霊南坂教会]]の元になる日本教会を設立した。
'''粟津 高明'''(あわづ たかあき、[[天保]]9年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]([[1838年]][[5月22日]]) - [[明治]]13年([[1880年]])[[10月29日]])は明治時代の[[プロテスタント]]の教会指導者である。「布教」に代って「伝道」という言葉を造った人物。日本基督教団[[霊南坂教会]]の元になる日本教会を設立した。


==経歴==
==生涯==
[[近江国]][[膳所藩]]の武士として江戸に生まれる。幕末に膳所藩の藩論が開明派の攘夷論になると、脱藩する。1868年(慶応4年)4月に[[ジェームス・バラ]]から洗礼を受ける。[[中江藤樹]]の宗教理念を変えることはなかった。
[[近江国]][[膳所藩]]士として江戸に生まれる。幕末に膳所藩の藩論が開明派の攘夷論になると、脱藩する。1868年(慶応4年)4月に[[ジェームス・バラ]]から洗礼を受ける。[[中江藤樹]]の宗教理念を変えることはなかった。


入信3年後の1871年(明治4年)には、バラに疎んじられ、バラの日本語礼拝に出席するだけの信徒になる。その翌年の1872年(明治5年)、[[篠崎桂之助]]が入信すると、粟津の同志になる。
入信3年後の1871年(明治4年)には、バラに疎んじられ、バラの日本語礼拝に出席するだけの信徒になる。その翌年の1872年(明治5年)、[[篠崎桂之助]]が入信すると、粟津の同志になる。


1870年より[[海軍兵学寮]]に出仕する。1874年(明治7年)に海軍兵学寮の新寮掛になると幼年生徒を集めて、キリスト教の講話を日曜ごとに行う。教え子の一人に、[[和田秀豊]]がいる。その後、兵学校教官として渡米するが、アメリカの人種差別を見て西洋嫌いになる。帰国後、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]の教頭になる。
1870年より[[海軍兵学寮]]に出仕する。1874年(明治7年)に海軍兵学寮の新寮掛になると幼年生徒を集めて、キリスト教の講話を日曜ごとに行う。教え子の一人に、[[和田秀豊]]がいる。その後、兵学校教官として渡米するが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の人種差別を見て西洋嫌いになる。帰国後、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]の教頭になる。


1876年4月7日に教会の長老候補者に、[[日本基督公会]]([[横浜海岸教会]])と[[東京基督公会]]([[新栄教会]])が公会主義を無視しているとの非難の文書を送る。1876年に自宅に自費で、石造りの会堂を建てて、新栄教会に通いながら集会を始める。会堂を建てる時に、宣教師たちが、腰掛や椅子やテーブル、敷物、オルガンなどを贈られると、粟津はそれを丁重に断り、西洋色のない日本独自の教会を目指し、日本教会と呼ばれる。1880年病死する。遺言で「外国に関係のない教会を樹立せよ」と言った。粟津の死後、二年目の1882年に[[小崎弘道]]の[[新肴町教会]]と日本教会とが合併して[[東京第一基督教会]]となる。後に、[[日本組合教会]]に所属し霊南坂教会と呼ばれる。1942年の日本基督教会成立と共に日本基督教団霊南坂教会になる。
1876年4月7日に教会の長老候補者に、[[日本基督公会]]([[横浜海岸教会]])と[[東京基督公会]]([[新栄教会]])が公会主義を無視しているとの非難の文書を送る。1876年に自宅に自費で、石造りの会堂を建てて、新栄教会に通いながら集会を始める。会堂を建てる時に、宣教師たちが、腰掛や椅子やテーブル、敷物、オルガンなどを贈られると、粟津はそれを丁重に断り、西洋色のない日本独自の教会を目指し、日本教会と呼ばれる。1880年病死。遺言で「外国に関係のない教会を樹立せよ」と言った。
粟津の死後、二年目の1882年に[[小崎弘道]]の[[新肴町教会]]と日本教会とが合併して[[東京第一基督教会]]となる。後に、[[日本組合教会]]に所属し霊南坂教会と呼ばれる。1942年の日本基督教会成立と共に日本基督教団霊南坂教会になる。


==参考文献==
==参考文献==
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2013年3月27日 (水) 04:53時点における版

粟津 高明(あわづ たかあき、天保9年4月29日1838年5月22日) - 明治13年(1880年10月29日)は明治時代のプロテスタントの教会指導者である。「布教」に代って「伝道」という言葉を造った人物。日本基督教団霊南坂教会の元になる日本教会を設立した。

生涯

近江国膳所藩士として江戸に生まれる。幕末に膳所藩の藩論が開明派の攘夷論になると、脱藩する。1868年(慶応4年)4月にジェームス・バラから洗礼を受ける。中江藤樹の宗教理念を変えることはなかった。

入信3年後の1871年(明治4年)には、バラに疎んじられ、バラの日本語礼拝に出席するだけの信徒になる。その翌年の1872年(明治5年)、篠崎桂之助が入信すると、粟津の同志になる。

1870年より海軍兵学寮に出仕する。1874年(明治7年)に海軍兵学寮の新寮掛になると幼年生徒を集めて、キリスト教の講話を日曜ごとに行う。教え子の一人に、和田秀豊がいる。その後、兵学校教官として渡米するが、アメリカの人種差別を見て西洋嫌いになる。帰国後、海軍兵学校の教頭になる。

1876年4月7日に教会の長老候補者に、日本基督公会横浜海岸教会)と東京基督公会新栄教会)が公会主義を無視しているとの非難の文書を送る。1876年に自宅に自費で、石造りの会堂を建てて、新栄教会に通いながら集会を始める。会堂を建てる時に、宣教師たちが、腰掛や椅子やテーブル、敷物、オルガンなどを贈られると、粟津はそれを丁重に断り、西洋色のない日本独自の教会を目指し、日本教会と呼ばれる。1880年、病死。遺言で「外国に関係のない教会を樹立せよ」と言った。

粟津の死後、二年目の1882年に小崎弘道新肴町教会と日本教会とが合併して東京第一基督教会となる。後に、日本組合教会に所属し霊南坂教会と呼ばれる。1942年の日本基督教会成立と共に日本基督教団霊南坂教会になる。

参考文献

  • 有賀寿『衣替えするキリスト教』すぐ書房、2000年

関連項目