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'''阿部 正蔵'''(あべ しょうぞう、生年不詳 - [[嘉永]]元年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]([[1848年]][[9月30日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[旗本]]で、[[江戸町奉行|江戸北町奉行]]。[[白河藩]]の分家で石高は3,000石。官位は従五位下遠江守。
'''阿部 正蔵'''(あべ しょうぞう、生年不詳 - [[嘉永]]元年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]([[1848年]][[9月30日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[旗本]]で、[[江戸町奉行|江戸北町奉行]]。[[白河藩]]の分家で石高は3,000石。官位は従五位下遠江守。


天保12年6月24日に[[天保の改革]]時の大坂西町奉行となった。物価が騰貴した原因は、[[株仲間|株仲間解散令]]により大坂への物資廻送量の減に起因するとし、問屋商人を通した流通統制強化の提言をった。[[天保]]14年([[1843年]])2月24日江戸北町奉行となり、同年10月1日に小姓組番頭に転じた。長男の[[阿部正定]]は宗家([[白河藩]])を継ぎ、次男の[[阿部正外]]は父の跡を継いだが、後に幕命で宗家([[白河藩]])を継ぎ、[[老中]]となり、三男[[阿部邦之助]]は兄の正外が宗家を相続するにあたり養家曾根家から実家に戻りこれを相続し、のちに[[沼津兵学校]]創始者となっている。
天保12年6月24日に[[天保の改革]]時の大坂西町奉行となった。物価が騰貴した原因は、[[株仲間|株仲間解散令]]により大坂への物資廻送量の減に起因するとし、問屋商人を通した流通統制強化の提言をおこなった。[[天保]]14年([[1843年]])2月24日江戸北町奉行となり、同年10月1日に小姓組番頭に転じた。長男の[[阿部正定]]は宗家([[白河藩]])を継ぎ、次男の[[阿部正外]]は父の跡を継いだが、後に幕命で宗家([[白河藩]])を継ぎ、[[老中]]となり、三男[[阿部邦之助]]は兄の正外が宗家を相続するにあたり養家曾根家から実家に戻りこれを相続し、のちに[[沼津兵学校]]創始者となっている。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2013年3月22日 (金) 10:51時点における版

阿部 正蔵(あべ しょうぞう、生年不詳 - 嘉永元年9月4日1848年9月30日))は、江戸時代後期の旗本で、江戸北町奉行白河藩の分家で石高は3,000石。官位は従五位下遠江守。

天保12年6月24日に天保の改革時の大坂西町奉行となった。物価が騰貴した原因は、株仲間解散令により大坂への物資廻送量の減に起因するとし、問屋商人を通した流通統制強化の提言をおこなった。天保14年(1843年)2月24日江戸北町奉行となり、同年10月1日に小姓組番頭に転じた。長男の阿部正定は宗家(白河藩)を継ぎ、次男の阿部正外は父の跡を継いだが、後に幕命で宗家(白河藩)を継ぎ、老中となり、三男阿部邦之助は兄の正外が宗家を相続するにあたり養家曾根家から実家に戻りこれを相続し、のちに沼津兵学校創始者となっている。

参考文献

  • 幕末維新人名事典(宮崎十三八・安岡昭男編 新人物往来社)
  • 大阪市史 第2巻