「アルフォンソ1世・デステ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 14 件をウィキデータ上の (d:Q188346 に転記)
40行目: 40行目:
[[Category:1476年生]]
[[Category:1476年生]]
[[Category:1534年没]]
[[Category:1534年没]]

[[br:Alfonso Iañ d'Este]]
[[ca:Alfons I d'Este]]
[[de:Alfonso I. d’Este]]
[[en:Alfonso I d'Este, Duke of Ferrara]]
[[es:Alfonso I de Este]]
[[fr:Alphonse Ier d'Este]]
[[it:Alfonso I d'Este]]
[[ka:ალფონსო I დ’ესტე]]
[[ko:알폰소 1세 데스테]]
[[nl:Alfonso I d'Este]]
[[pl:Alfons I d'Este]]
[[pt:Afonso I d'Este]]
[[ru:Альфонсо I д’Эсте]]
[[sv:Alfonso I av Este]]

2013年3月22日 (金) 07:22時点における版

アルフォンソ1世・デステ像、ティツィアーノ
アルフォンソ1世とルクレツィア・ボルジアの墓碑

アルフォンソ1世・デステAlfonso d'Este, 1476年7月21日 - 1534年10月31日)は、フェラーラ公。コンドッティエーレカンブレー同盟戦争で活躍した。エルコレ1世・デステと妃レオノーラ・ダラゴーナの長子。姉はルネサンスの華と謳われたイザベッラベアトリーチェである。

1505年に公位を継承した直後、実弟フェランテと異母弟ジューリオが、アルフォンソ1世ともう1人の弟イッポーリト枢機卿に対してたくらんだ陰謀に直面した。1506年9月、不敬罪の容疑で2人を捕らえて死刑を宣告したが、彼らを絞首刑にするところを変え、終身刑とした。2人はトッレ・ディ・レオニの2つの独房に分けて幽閉された。フェランテは34年後に独房で死に、ジューリオは53年もの幽閉ののち赦免され解放された。釈放後、ジューリオはフェッラーラの街頭で時代遅れの衣服を嘲笑されたという。

イタリア戦争において、アルフォンソ1世はカンブレー同盟側についた。ローマ教皇ユリウス2世によって司令官に命じられ、ポレセッラの戦いでボローニャを獲得。しかし1510年にユリウス2世に破門され、フェラーラを教皇領にされた。その後はヴェネツィア共和国や教皇庁の敵と戦い続け、1512年ラヴェンナの戦いでは、フランス軍に勝利をもたらす重要な役割を演じた。これらの快進撃は、ラ・ジューリアと名付けられた巨大な大砲を含むフェラーラの兵器がもたらしたとされている。

1526年クレメンス7世から破門されローマに幽閉されるが、これがローマ略奪の切っ掛けとなる。1530年神聖ローマ皇帝カール5世と和解したクレメンス7世はアルフォンソ1世の破門を解き、モデナレッジョを与えた。

父同様音楽のパトロンであり、アントワーヌ・ブリュメルアドリアン・ヴィラールトを宮廷へ招いた。

家族

1496年、美しさで知られたアンナ・スフォルツァ(ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘)と結婚。同時期に姉ベアトリーチェはミラノルドヴィーコ・スフォルツァと結婚した。1497年にアンナは女児を死産して産褥死した。

1501年、アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアと再婚。ルクレツィアは3度目の結婚であった。

  • 女児(1507年、死産)
  • エルコレ2世(1508年 - 1559年)
  • イッポーリト(1509年 - 1572年) - 枢機卿
  • アレッサンドロ(1514年 - 1516年)
  • エレオノーラ(1515年 - 1575年) - 尼僧
  • フランチェスコ(1516年 - 1578年) - マッサ公
  • 女児(1519年、死産)

また、庶子が2人いた。

先代
エルコレ1世
フェラーラ、モデナ、レッジョ公
1505年 - 1534年
次代
エルコレ2世