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== ヴァージン/マルシャ時代(2011年 - ) ==
== ヴァージン/マルシャ時代(2011年 - ) ==
ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。
ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。


2011年初めに、[[ヴァージン・レーシング]]とコンサルタント契約を結んだ。まだ追放処分期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=31942 パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰]". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。</ref>。
2011年初めに、[[ヴァージン・レーシング]]とコンサルタント契約を結んだ。まだ追放処分期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=31942 パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰]". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。</ref>。

2013年3月19日 (火) 19:42時点における版

パット・シモンズPatrick "Pat" Bruce Reith Symonds, 1953年6月11日 - )は、イギリス出身のエンジニア。2013年よりマルシャF1チームのテクニカルディレクターを務める。

経歴

初期の経歴

フォード社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後にクランフィールド工科大学で自動車工学を学び、1976年に修士号を取得し卒業。

卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとしてフォーミュラ・フォードの設計に携わり、2年後の1978年にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤルに移籍。ここでロリー・バーンと知己を得た。

当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、1979年にバーンがF2カー設計のため、トールマンチームから誘われると、バーンが引き上げる形で、シモンズもトールマンでの職を得た。

トールマン時代(1980年 - 1985年)

1980年のヨーロッパF2選手権において、トールマンとハートの組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーのブライアン・ヘントンデレック・ワーウィックは計4戦で1-2フィニッシュを達成し、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。

この活躍を引っさげ、1981年にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年ステファン・ヨハンソンを擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。

翌1982年以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年にテオ・ファビとワーウィック、翌1983年にはブルーノ・ジャコメリ、1984年にはその年デビューの新人アイルトン・セナのレースエンジニアとして任にあたった。

ベネトン&ルノー時代(1986年 - )

ミハエル・シューマッハ加入以前

1985年には、チームは、イタリアの衣料品メーカーベネトンに買収されたことにより、ベネトンとなったが、シモンズは引き続き残留した。

1991年にジョン・バーナードをテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともにエイドリアン・レイナードと契約し、エンジニアリングディレクターとしてレイナードのF1参戦計画に携わった。

このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードがフラビオ・ブリアトーレによって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともにベネトンに復帰した。

ミハエル・シューマッハとの共闘

ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、ミハエル・シューマッハのレースエンジニアも務め、1994年と1995年のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌1996年にシューマッハはフェラーリへと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去ったロス・ブラウンの跡を受けて、1996年11月にテクニカルディレクターに就任した。

ミハエル・シューマッハ離脱後

2001年に、新たにチームに加入したマイク・ガスコインにテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。

私事としては、この間、2002年にオックスフォード・ブルックス大学から博士号を授与されている。

1996年以降、チーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンからルノーに変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一時レイナードに所属していた例を除けば、一貫して同チームに留まり続けていた。

しかし2008年シンガポールグランプリにおいて、ルノーチームがフェルナンド・アロンソの順位を上げるため、ネルソン・ピケJr.に故意に事故を起こさせたというスキャンダル(クラッシュゲート)が発覚。シモンズはマネージングディレクターのフラビオ・ブリアトーレと共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、FIAの管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。

ヴァージン/マルシャ時代(2011年 - )

ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。

2011年初めに、ヴァージン・レーシングとコンサルタント契約を結んだ。まだ追放処分期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた[1]

チームは2012年よりマルシャF1チームとなり、この年のマシン「MR01」はシモンズの指揮によりデザインされた[2]。2013年には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった[3]

評価

ロス・ブラウンの影に隠れがちだが、シモンズもミハエル・シューマッハのベネトン在籍時からレース戦略の立案に関わっており、レース戦略の分野で一定の評価がある人物の一人である。実際、ブラウンらの離脱後も、ベネトン、ルノーはしばしばその優れた作戦によって他チームに対して優位に立っている。ミハエル・シューマッハはフェラーリ在籍時にロリー・バーンロス・ブラウンとともにシモンズの獲得をフェラーリに要請していた。

脚注

  1. ^ "パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。
  2. ^ "マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年月3日12閲覧。
  3. ^ "パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。

関連項目