「若山富三郎」の版間の差分

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'''若山 富三郎'''(わかやま とみさぶろう、[[1929年]][[9月1日]] - [[1992年]][[4月2日]])は、[[日本]]の[[俳優]]。本名は'''奥村 勝'''(おくむら まさる)。別名は'''城 健三朗'''(じょう けんざぶろう)。[[東京市]][[深川区]]出身。[[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[演劇]]で幅広い役柄を演じており、その[[殺陣]]は当代随一の名手と評された<ref name="chiba">{{Cite book |和書 |author = JJサニー千葉 |authorlink = 千葉真一 |year = 2010 |title = 千葉流 サムライへの道 |publisher = [[ぶんか社]] |pages = 154 - 171 |isbn = 4821142694 }}</ref><ref name="akkan">歴史群像シリーズ 『圧巻!無頼派時代劇』 115頁。</ref><ref name = "アサ芸魔界">{{Cite journal |和書 |date = 2012-11-29 |title = 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」 |journal = [[アサヒ芸能|アサ芸+]] |publisher = [[徳間書店]] |url = http://www.asagei.com/9406 |accessdate = 2012-12-08 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/http://www.asagei.com/9406 |archivedate = 2012-12-08 --> }}</ref>。
'''若山 富三郎'''(わかやま とみさぶろう、[[1929年]][[9月1日]] - [[1992年]][[4月2日]])は、[[日本]]の[[俳優]]・[[歌手]]・[[テレビドラマ]][[監督]]。本名は'''奥村 勝'''(おくむら まさる)。別名は'''城 健三朗'''(じょう けんざぶろう)。[[東京市]][[深川区]]出身。[[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[演劇]]で幅広い役柄を演じており、その[[殺陣]]は当代随一の名手と評された<ref name="chiba">{{Cite book |和書 |author = JJサニー千葉 |authorlink = 千葉真一 |year = 2010 |title = 千葉流 サムライへの道 |publisher = [[ぶんか社]] |pages = 154 - 171 |isbn = 4821142694 }}</ref><ref name="akkan">歴史群像シリーズ 『圧巻!無頼派時代劇』 115頁。</ref><ref name = "アサ芸魔界">{{Cite journal |和書 |date = 2012-11-29 |title = 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」 |journal = [[アサヒ芸能|アサ芸+]] |publisher = [[徳間書店]] |url = http://www.asagei.com/9406 |accessdate = 2012-12-08 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/http://www.asagei.com/9406 |archivedate = 2012-12-08 --> }}</ref>。父は[[長唄]][[三味線]]の[[杵屋勝東治]]、弟に[[勝新太郎]]、息子は[[若山騎一郎]]、前妻は[[藤原礼子]]


父は[[長唄]][[三味線]]の[[杵屋勝東治]]、弟に[[勝新太郎]]、息子は[[若山騎一郎]]、前妻は[[藤原礼子]]。
== 経歴 ==
== 経歴 ==
幼少の頃より勝とともに[[長唄]]の修行を始めるが、なかなか専念せず、[[日本大学第三中学校|日大三中]]在学中は一年生を三回[[落第]]するほどの腕白だった。また[[柔道]]に熱中して、[[師範]](伍段)を目指していた。[[1949年]]、20歳のときに[[長唄]]の和歌山富十郎に弟子入りし、芸名を'''若山 富三郎'''とした。[[1954年]]に[[新東宝]]からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車の送迎を約束させた上で入社を決める。
幼少の頃より勝とともに[[長唄]]の修行を始めるが専念せず、[[日本大学第三中学校|日大三中]]在学中は一年生を三回[[落第]]するほどの腕白だった。[[柔道]]に熱中して、[[師範]](伍段)を目指していた。[[1949年]]、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、芸名を'''若山 富三郎'''とした。[[1954年]]に[[新東宝]]からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車の送迎を約束させた上で入社を決める。


[[1955年]]に『忍術児雷也』でデビュー。『[[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]』シリーズなどの時代劇に主演。[[1958年]]にはテレビ時代劇『[[銭形平次 捕物控#テレビ時代劇|銭形平次]]』に主演。新東宝の経営が苦しくなると[[1959年]]に[[東映]]へ移籍し、新東宝時代同様に『[[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]』シリーズで主演した他、多数の脇役もこなす。
[[1955年]]に『忍術児雷也』でデビュー。『[[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]』シリーズなどの時代劇に主演。[[1958年]]にはテレビ時代劇『[[銭形平次 捕物控#テレビ時代劇|銭形平次]]』に主演。新東宝の経営が苦しくなると[[1959年]]に[[東映]]へ移籍し、新東宝時代同様に『[[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]』シリーズで主演した他、多数の脇役もこなす。
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[[1962年]]に勝が在籍する[[大映 (映画)|大映]]へ移籍、'''城 健三朗'''と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]や弟の[[勝新太郎]]の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。[[1963年]]に同じく大映に所属していた女優の[[藤原礼子]]と結婚。一男を儲ける。[[1964年]]にはテレビ時代劇『[[風雲児半次郎]]』に主演したが、[[1965年]]に藤原と離婚、その後の1年間、干されて役がつかない挫折を味わった。
[[1962年]]に勝が在籍する[[大映 (映画)|大映]]へ移籍、'''城 健三朗'''と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]や弟の[[勝新太郎]]の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。[[1963年]]に同じく大映に所属していた女優の[[藤原礼子]]と結婚。一男を儲ける。[[1964年]]にはテレビ時代劇『[[風雲児半次郎]]』に主演したが、[[1965年]]に藤原と離婚、その後の1年間、干されて役がつかない挫折を味わった。


[[1966年]]に再び東映に移籍し、芸名を'''若山 富三郎'''に戻した。脇役からのスタートだったが[[鶴田浩二]]主演の『[[博奕打ち 総長賭博]]』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。[[1968年]]より始まった『[[極道シリーズ]]』や『前科者』では従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他にも『[[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎシリーズ]]』、『極悪坊主シリーズ』などに主演し、個性派アクション俳優としての地位を築く
[[1966年]]に再び東映に移籍し、芸名を'''若山 富三郎'''に戻した。脇役からのスタートだったが[[鶴田浩二]]主演の『[[博奕打ち 総長賭博]]』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。[[1968年]]より始まった『[[極道シリーズ]]』や『前科者』では従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他にも『[[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎシリーズ]]』、『極悪坊主シリーズ』などに主演し


[[1970年代]]の勝プロ制作の映画『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼シリーズ]]』では[[拝一刀]]に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外でも興行された。個人事務所「若山企画」を設立し、[[1973年]]の『[[唖侍鬼一法眼]]』、[[1975年]]の『[[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]]』などテレビ時代劇に主演し
[[1970年代]]の勝プロ制作の映画『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼シリーズ]]』では[[拝一刀]]に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外でも興行された。個人事務所「若山企画」を設立し、[[1973年]]の『[[唖侍鬼一法眼]]』、[[1975年]]の『[[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]]』などテレビ時代劇に主演し、『賞金稼ぎ』では複数話を監督している


白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣を演じてきたが、{{要出典範囲|date=2013年3月1日 (金) 15:24 (UTC)|この頃よりそれまでの暴力性・激情・体技・邪悪さ・滑稽味を内に秘めた深みのある演技者へと変化し始める。}}[[1974年]]、[[睦五朗]]に招かれて『[[エスパイ]]』に出演し、敵役のウルロフを演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。[[1977年]]公開の『[[悪魔の手毬唄 (1977年の映画)|悪魔の手毬唄]]』の磯川警部と、[[1978年]]から放送されたテレビドラマ『[[事件 (大岡昇平)#テレビドラマ|事件]]』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、それまでのイメージが一新された。『悪魔の手毬唄』と映画『[[姿三四郎 (映画)#1977年版|姿三四郎]]』の村井半助で、第20回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン]]助演男優賞を受賞。[[1979年]]の映画『[[衝動殺人 息子よ]]』で、[[キネマ旬報]]主演男優賞・[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]・[[毎日映画コンクール]]の主演男優賞、第3回[[日本アカデミー賞]]の最優秀主演男優賞を受賞した。
白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣を演じてきたが、{{要出典範囲|date=2013年3月1日 (金) 15:24 (UTC)|この頃よりそれまでの暴力性・激情・体技・邪悪さ・滑稽味を内に秘めた深みのある演技者へと変化し始める。}}[[1974年]]、[[睦五朗]]に招かれて『[[エスパイ]]』に出演し、敵役のウルロフを演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。[[1977年]]公開の『[[悪魔の手毬唄 (1977年の映画)|悪魔の手毬唄]]』の磯川警部と、[[1978年]]から放送されたテレビドラマ『[[事件 (大岡昇平)#テレビドラマ|事件]]』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、それまでのイメージが一新された。『悪魔の手毬唄』と映画『[[姿三四郎 (映画)#1977年版|姿三四郎]]』の村井半助で、第20回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン]]助演男優賞を受賞。[[1979年]]の映画『[[衝動殺人 息子よ]]』で、[[キネマ旬報]]主演男優賞・[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]・[[毎日映画コンクール]]の主演男優賞、第3回[[日本アカデミー賞]]の最優秀主演男優賞を受賞した。
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若山組には[[大木実]]・[[山城新伍]]・[[安岡力也]]・[[高岡健二]]・[[潮健児]]・[[殿山泰司]]らのメンバーがいたが、大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった<ref name="yamashiro">
若山組には[[大木実]]・[[山城新伍]]・[[安岡力也]]・[[高岡健二]]・[[潮健児]]・[[殿山泰司]]らのメンバーがいたが、大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった<ref name="yamashiro">
{{Cite book |和書 |author = 山城新伍 |authorlink = 山城新伍 |year = 1998 |title = おこりんぼさびしんぼ 若山富三郎・[[勝新太郎]]無頼控 |publisher = [[幻冬舎]]|pages = 46頁、51 - 57頁、62 - 65頁、72頁、83 - 91頁、98頁 |isbn = 4877282424 }}</ref>。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮て溶かし、パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい入組試験?もあった<ref>{{Cite book |和書 |author = 若山騎一郎 |authorlink = 若山騎一郎 |year = 1998 |title = 不器用に生きた男 わが父若山富三郎 |publisher = [[ひらく]] |pages = 172 - 173 |isbn = 4341190423 }}</ref>。
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自他共に認める若山の甘党ぶりは徹底しており、楽屋には[[大福]]や[[キャラメル]]、[[コーヒー牛乳]]などを常備し、夜中に後輩俳優を呼び出して[[汁粉]]を振る舞ったこともあった。[[高倉健]]が東映へ在籍していたときに若山が下戸であることを知らず、日頃のお礼の意味で撮影前の若山に日本酒を一瓶贈ったことがあった。若山は困惑しながらも高倉の思いに応えようと快く受け取り、高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。しかし飲んだ直後に卒倒し当日の撮影は中止。高倉はひたすら平身低頭、謝罪したという。
自他共に認める若山の甘党ぶりは徹底しており、楽屋には[[大福]]や[[キャラメル]]、[[コーヒー牛乳]]などを常備し、夜中に後輩俳優を呼び出して[[汁粉]]を振る舞ったこともあった。[[高倉健]]が東映へ在籍していたときに若山が下戸であることを知らず、日頃のお礼の意味で撮影前の若山に日本酒を一瓶贈ったことがあった。若山は困惑しながらも高倉の思いに応えようと快く受け取り、高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。しかし飲んだ直後に卒倒し当日の撮影は中止。高倉はひたすら平身低頭、謝罪したという。
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=== 映画 ===
=== 映画 ===
==== シリーズ ====
==== シリーズ ====
* [[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]シリーズ (1956年 - 1961年) - [[人形佐七]]
* [[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]シリーズ (1956年 - 1961年) - 人形佐七
** 人形佐七捕物帖 妖艶六死美人 (1956年、[[新東宝]])
** 人形佐七捕物帖 妖艶六死美人 (1956年、[[新東宝]])
** 人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻 (1957年、新東宝)
** 人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻 (1957年、新東宝)
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** 極悪坊主 念仏三段斬り (1970年)
** 極悪坊主 念仏三段斬り (1970年)
** 極悪坊主 飲む打つ買う (1971年)
** 極悪坊主 飲む打つ買う (1971年)
* [[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎ]]シリーズ (1969年 - 1972年、東映) - [[錣市兵衛]]
* [[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎ]]シリーズ (1969年 - 1972年、東映) - 錣市兵衛
** [[賞金稼ぎ (映画)|賞金稼ぎ]] (1969年)
** [[賞金稼ぎ (映画)|賞金稼ぎ]] (1969年)
** [[五人の賞金稼ぎ]] (1969年)
** [[五人の賞金稼ぎ]] (1969年)
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===CM===
===CM===
*[[味の素|味の素株式会社]]「アルギンZ」(1979年)
*[[味の素|味の素株式会社]]「アルギンZ」(1979年)

== ディスコグラフィ ==
* 流れ者 (1975年)
* ひとつの命 (1975年)


==著書==
==著書==

2013年3月1日 (金) 21:20時点における版

わかやま とみさぶろう
若山 富三郎
若山 富三郎
本名 奥村 勝 (おくむら まさる)
別名義 城 健三朗 (じょう けんざぶろう)
生年月日 (1929-09-01) 1929年9月1日
没年月日 (1992-04-02) 1992年4月2日(62歳没)
出生地 大日本帝国の旗 大日本帝国
東京府東京市深川区
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 俳優歌手テレビドラマ監督
ジャンル 映画テレビドラマ演劇
配偶者 藤原礼子(1963年 - 1965年)
著名な家族 杵屋勝東治(父)
勝新太郎(弟)
若山騎一郎(息子)
主な作品
映画
人形佐七捕物帖』/『博奕打ち 総長賭博
極道シリーズ』/『賞金稼ぎシリーズ』
子連れ狼シリーズ』/『姿三四郎
エスパイ』/『悪魔の手毬唄
衝動殺人 息子よ』/『魔界転生
ブラック・レイン
テレビ
唖侍鬼一法眼』/『賞金稼ぎ
事件シリーズ』/『御金蔵破りシリーズ
演劇
『歌舞伎模様・天保六花撰
 
受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
1979年『衝動殺人 息子よ』
ブルーリボン賞
主演男優賞
1979年『衝撃殺人 息子よ』
助演男優賞
1977年姿三四郎』/『悪魔の手毬唄
その他の賞
芸術祭大衆芸能部門 大賞
1978年『歌舞伎模様・天保六花撰
キネマ旬報 主演男優賞
1979年 『衝動殺人 息子よ』
毎日映画コンクール 主演男優賞
1979年 『衝動殺人 息子よ』
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若山 富三郎(わかやま とみさぶろう、1929年9月1日 - 1992年4月2日)は、日本俳優歌手テレビドラマ監督。本名は奥村 勝(おくむら まさる)。別名は城 健三朗(じょう けんざぶろう)。東京市深川区出身。映画テレビドラマ演劇で幅広い役柄を演じており、その殺陣は当代随一の名手と評された[1][2][3]。父は長唄三味線杵屋勝東治、弟に勝新太郎、息子は若山騎一郎、前妻は藤原礼子

経歴

幼少の頃より勝とともに長唄の修行を始めるが専念せず、日大三中在学中は一年生を三回落第するほどの腕白だった。柔道に熱中して、師範(伍段)を目指していた。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、芸名を若山 富三郎とした。1954年新東宝からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車の送迎を約束させた上で入社を決める。

1955年に『忍術児雷也』でデビュー。『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年にはテレビ時代劇『銭形平次』に主演。新東宝の経営が苦しくなると1959年東映へ移籍し、新東宝時代同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演した他、多数の脇役もこなす。

1962年に勝が在籍する大映へ移籍、城 健三朗と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。1963年に同じく大映に所属していた女優の藤原礼子と結婚。一男を儲ける。1964年にはテレビ時代劇『風雲児半次郎』に主演したが、1965年に藤原と離婚、その後の1年間、干されて役がつかない挫折を味わった。

1966年に再び東映に移籍し、芸名を若山 富三郎に戻した。脇役からのスタートだったが鶴田浩二主演の『博奕打ち 総長賭博』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。1968年より始まった『極道シリーズ』や『前科者』では従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他にも『賞金稼ぎシリーズ』、『極悪坊主シリーズ』などに主演した。

1970年代の勝プロ制作の映画『子連れ狼シリーズ』では拝一刀に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外でも興行された。個人事務所「若山企画」を設立し、1973年の『唖侍鬼一法眼』、1975年の『賞金稼ぎ』などテレビ時代劇に主演し、『賞金稼ぎ』では複数話を監督している。

白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣を演じてきたが、この頃よりそれまでの暴力性・激情・体技・邪悪さ・滑稽味を内に秘めた深みのある演技者へと変化し始める。[要出典]1974年睦五朗に招かれて『エスパイ』に出演し、敵役のウルロフを演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。1977年公開の『悪魔の手毬唄』の磯川警部と、1978年から放送されたテレビドラマ『事件』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、それまでのイメージが一新された。『悪魔の手毬唄』と映画『姿三四郎』の村井半助で、第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の映画『衝動殺人 息子よ』で、キネマ旬報主演男優賞・ブルーリボン賞毎日映画コンクールの主演男優賞、第3回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。

演劇では1977年の蜷川幸雄演出のミュージカル『三文オペラ』や1978年の『アニー』で、長唄で鍛えた美声を披露。また同年の『歌舞伎模様・天保六花撰』では河内山宗俊に扮して、第33回芸術祭大賞を受賞した[4]

1980年代には映画『魔界転生』で柳生宗矩に扮し、紅蓮の炎の中で行われた柳生十兵衛千葉真一)との決闘では凄みと華麗な戦いを演じ、劇中最大のクライマックスとなっている[3][5]。魔界衆がまばたきをしないのは、歌舞伎のお化けにヒントを得た若山の発案である。本作は観客動員数200万人、興行収入17.9億円を超す作品となった[6](詳細は ⇒ 魔界転生)。本作後も千葉は再び若山との殺陣を望み、テレビドラマ『影の軍団III』第1話「二つの顔の男」では千葉が直接、若山へ出演依頼をして共演を実現させた。ほかにはテレビドラマ『御金蔵破りシリーズ』でも殺陣と復讐に燃える忍者からコミカルな役まで幅広い演技を見せ、アメリカ映画ブラックレイン』では凄みのあるヤクザの親分で英語の台詞もこなし、それぞれ存在感を示した。

1992年4月2日、勝・中村玉緒清川虹子麻雀をしている最中に倒れ、急性心不全のため死去。62歳没。兄想いだった勝は、カメラの前でその遺骨を食べ、涙を流しながらその死を悼んだ。

殺陣

数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評され[1][2][3]千葉真一峰打ちの殺陣を若山から教わるなど[1]、「若山先生から殺陣を本格的に教わり、ある意味(若山先生は)僕の師匠」と語っている。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにはかなわない」と証言している[7]

嵐寛寿郎竹中労のインタビューで「若手で上手かったのは一に萬屋錦之介、二に若山(と勝)で以下は無い[8]」としているが、テレビドラマ『賞金稼ぎ』の殺陣を担当した上野隆三(東映)は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、薙刀棒術などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね[2]」と評している。

代表作である映画『子連れ狼シリーズ』では長巻を駆使した殺陣を見せており、トンボ(前方宙返り)が切れた。テレビドラマ『賞金稼ぎ』、『御金蔵破りシリーズ』、『影の軍団III』で見せており、映画『極悪坊主 念仏人斬り旅』ではトランポリンを使い、鮮やかな前方宙返りを見せている。そのほかにも数々の映画で披露しているが、晩年の自ら企画したテレビドラマ『暴力中学』でも観ることができる。

人物

親分肌で、気に入った役者やスタッフらを公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役には優しかった。新東宝時代からの友人である丹波哲郎は、自身監督の映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』に若山に出演を依頼、若山は体調が芳しくないものの出演を引き受ける。丹波は若山の体調を気遣いつつ撮影していたが「おまえはすぐ人を殴る。体調が悪くなったのはそのバチが当たったんだ」と苦言も呈している。

弟である勝新太郎とは「容姿がそっくり」、「借金が得意」、「親分肌で取り巻きを大勢連れたがる」など、とても似ていた。そのため、大映時代には「二人も勝新太郎は要らない」、「愚兄賢弟」などと揶揄されたほどであった。しかし、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は撮影前の準備を怠らず、後年東映でスターダムにのし上がり、数々受賞するに至ってからは名優としての評価を高め、勝は不祥事が目立つようになり、評価は逆転した。事実、勝は「演出やプロデュースでは自分が上だが、演技力は兄に敵わない」と最高の賛辞を送っている。とても仲のいい兄弟で、勝が大麻所持で逮捕されたときはマスコミの前では勝を批判したが、執行猶予の判決が出たときは若山は「良かった」と涙を流して喜んだ。また、勝はある役者の演技を叱ろうとしたとき、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど…」と答えると、「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と機嫌よく叱るのをやめたという。

若山組には大木実山城新伍安岡力也高岡健二潮健児殿山泰司らのメンバーがいたが、大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった[9]。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮て溶かし、パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい入組試験?もあった[10]

自他共に認める若山の甘党ぶりは徹底しており、楽屋には大福キャラメルコーヒー牛乳などを常備し、夜中に後輩俳優を呼び出して汁粉を振る舞ったこともあった。高倉健が東映へ在籍していたときに若山が下戸であることを知らず、日頃のお礼の意味で撮影前の若山に日本酒を一瓶贈ったことがあった。若山は困惑しながらも高倉の思いに応えようと快く受け取り、高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。しかし飲んだ直後に卒倒し当日の撮影は中止。高倉はひたすら平身低頭、謝罪したという。

逸話

撮影所

監督との関係

若山は、学歴に対するコンプレックスが強かった。それゆえ新人監督が若山に接するときは、とにかく帝大を出た事にしろとアドバイスされたという。また、仕事に対するこだわりが強く、撮影現場でもさまざまなアイデアを進言することがあったが、無茶を言って監督を困らせるようなものも少なくなかった。そんな若山をなだめるのがうまかったのが山下耕作で「若山さん、それは素晴らしいアイデアだ。でも、もったいないから、次回に取っておきましょう」と、若山の熱意と顔を立てながら現場を収拾していた[9]

楽屋

あるとき東映の若山の楽屋の隣から工事の音がし始めた。若山の取りまきが聞いてきた話では、高倉健が自分の楽屋が狭いため、拡張工事をしていると言う。それを聞き激怒した若山は「そっちがそんな勝手するなら俺だって」と、音のする壁と反対側の壁を自ら叩き始め楽屋を広くしようとした。若山に壁を叩かれた隣の部屋では大川橋蔵が弁当を食べていたが、びっくり仰天して飛び出してきた。大川が「いったい、何やってるんですか?」と尋ねると、若山は「壁壊して部屋広くするんや」と返答。大川は呆れ気味に「それはいいですけど、僕の部屋はどうなるんですか?」と尋ねると、若山は正気に戻ったのか「あ、すんまへん」と謝った。さらにそこに通りかかって話を聞いた鶴田浩二も激怒し、同じく自分の楽屋を広くするため壁を叩き始めた[9]片岡千恵蔵を非常に尊敬しており、千恵蔵の使用していた楽屋が自分のものになると感激のあまり、号泣した[9]

菅原文太

新東宝の後輩菅原文太が東映に移籍し若山に挨拶に行った際、若山は安藤昇の子分になったのかと訊ねた。菅原からなってないことを聞くと「そーか!ならワシんとこの若い衆になれ!」と以降、菅原を可愛がるようになった。菅原が1969年に東映で初の主役をもらう事になった際、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者達が若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください」等と告げ口した。菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山は告げ口を信じなかったが、遂に乗せられ「アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることになった。

東映京都撮影所の俳優会館の前に椅子を持ち出して待ち構え、通りかかった菅原を見つけ「オイ、文太!」と声を掛けた。ところが機敏に察知した菅原は、引き返し若山の手を取って「オヤッさん、ありがとうございます。オヤッさんのおかげで主役を張ることが出来ました」とうやうやしく挨拶した。気勢をそがれた若山は「おお、そうか・・・。文太、お前の部屋(東映の控え室)にテレビはあるのか?」と聞き、菅原が「ありません」と答えると、「じゃあみんなでお祝いに買ってやる」として奥で隠れてやり取りを見ていた子分の山城新伍から三万円を出させ、テレビを買い与えた。当時のテレビの価格では三万円は頭金にしかならず、かといって他の役者達は金を出さなかったので、電器屋が菅原のところへ代金を請求に行ったところ「取れるもんなら、取ってみい!」と凄まれて泣く泣く帰る羽目になり、結局電器屋は丸損となったそうである[9]

仲裁を待つ

ある時東映撮影所で大喧嘩になり、若山は「ぶち殺してやる」と机を持ち上げて相手に振りかぶった。若山を止めてもらおうと呼び出された山城が駆けつけると、若山は机を振り上げた姿勢のまま固まって待っていた。山城は若山に「早く止めに来んかい」と怒られた[9]

バラエティー

クイズダービー

出演した『妻たちの鹿鳴館』の告知も兼ねた関係で、1988年(昭和63年)10月8日に共演の池内淳子と共に第661回のドラマ大会に出場した。若山は第1問目で、5枠・ゲスト解答者だったビートたけしに「たけし君にね、『3,000点』はダメか?」といきなり持ち点の全部を賭けようとした。しかし司会の大橋巨泉に「3000点はまずいですよ、無くなっちゃうじゃないですか。早く帰ろうと思ってるなぁ!淳子ちゃん何か言って下さい」と呆れながら止められてしまい、結局全額を賭けることはできなかった。会場の観客らは大爆笑、池内も苦笑いしつつ1,000点に賭け点を変更したものの、たけしは不正解。持ち点は2,000点と減点された。なお番組の歴史上、第1問で3,000点全部を賭けようとした番組出場者は若山と、とんねるず(本件とは逆で、高正解率を誇るはらたいらの確実性に賭けた)のみである。

第5問目では若山が1枠・北野大を指名。「(北野博士の)ファンなんだよ」と言いながらも、持ち点の1,500点から賭けたのは「200円」だった。巨泉は「200『』!これが、ファンにしてはケチなんだよなあ。まあ良いでしょう」と笑う。その後池内が500点に変更したが、結局北野大は不正解で1000点に減額。巨泉に「200円にしとけば良かったね、若山さん今のねぇ」と苦笑された。第6問の作詞問題では、若山が歌う『男道』からの出題であった。問題が読まれた直後に若山は「これ俺じゃないよ。だって覚えが無いもん」と困惑していたが、巨泉から「オレですよぉー。そうやって書いてあるんだもん、レコードに。それは、単に忘れちゃっただけですよ!」と呆然とされた。

第7問終了時にはわずか100点にまで減っていた。最終問題で池内は掛け率8倍の4枠・竹下景子を指名して、100点全部を賭けた。竹下が正解したので、結果若山・池内ペアの賞金獲得額は900円だった。エンディングで池内は「でも偉いでしょ?ゼロにならなかったのがねぇ」と笑い巨泉も「エライですよ」と褒めたが、巨泉は若山に「自分がレコーディングしたの忘れないで下さいね」と繰り返し言っていた。

どっきりカメラ

若山が清川虹子と結婚するという偽の招待状を受け取った安岡力也は、御祝儀をいくら出すか悩んで周囲に相談し、一般常識レベルの金額を出すことにした。当日、出席者の山城新伍や松方弘樹ら御祝儀の金額が次々と読み上げられたが、すべて100万円といった桁違いに高い金額であった。力也の前に読み上げられた高岡健二の金額が、あまりに低い(それでも力也より少し高い)ことに若山が驚愕し怒鳴りつけ、その様子を見た力也が震え上がるという「どっきり」であった。

8時だョ!全員集合

ぎっくり腰の状態で殺陣をやったが、志村けんに「賞金稼ぎがぎっくり腰とはお笑いだ」とネタにされ、若山も「金貰ってるから、やらねぇとしょうがねぇんだよ」とこぼし、笑いをとった。

小説

1983年(昭和58年)には本人名義で、歴史小説「ゼロの暗殺者」を発表したが、これはゴーストライターによる執筆作である[11]

受賞

出演作品

映画

シリーズ

  • 人形佐七捕物帖シリーズ (1956年 - 1961年) - 人形佐七
    • 人形佐七捕物帖 妖艶六死美人 (1956年、新東宝
    • 人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻 (1957年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 花嫁殺人魔 (1957年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 浮世風呂の死美人 (1958年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 腰元刺青死美人 (1958年、新東宝)
    • 人形佐七捕物帖 般若の面 (1960年、東映
    • 人形佐七捕物帖 くらやみ坂の死美人 (1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 血染めの肌着 (1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 ふり袖屋敷 (1960年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 恐怖の通り魔 (1961年、東映)
    • 人形佐七捕物帖 闇に笑う鉄火面 (1961年、東映)
  • 極道シリーズ (1968年 - 1976年、東映) - 島村清吉
    • 極道 (1968年)
    • 帰ってきた極道 (1968年)
    • 兵隊極道 (1968年)
    • 待っていた極道 (1969年)
    • 旅に出た極道 (1969年)
    • 極道釜ヶ崎に帰る (1970年)
    • 極道兇状旅 (1970年)
    • 極道罷り通る (1972年)
    • 釜ヶ崎極道 (1973年)
    • 極道vsまむし (1974年)
    • 極道vs不良番長 (1974年)
  • 前科者シリーズ (1968年 - 1969年、東映)
    • 前科者 (1968年)
    • 横紙破りの前科者 (1968年)
    • 前科者 縄張荒し (1969年)
  • 極悪坊主シリーズ (1968年 - 1971年、東映) - 真海
    • 極悪坊主 (1968年)
    • 極悪坊主 人斬り数え唄 (1968年)
    • 極悪坊主 念仏人斬り旅 (1969年)
    • 極悪坊主 念仏三段斬り (1970年)
    • 極悪坊主 飲む打つ買う (1971年)
  • 賞金稼ぎシリーズ (1969年 - 1972年、東映) - 錣市兵衛
  • 子連れ狼シリーズ (1972年 - 1974年、勝プロ / 東宝) - 拝一刀

その他

テレビドラマ

演劇

バラエティ

CM

ディスコグラフィ

  • 流れ者 (1975年)
  • ひとつの命 (1975年)

著書

  • ゼロの暗殺者 自由書館 1983.3
  • 鎮魂曲(レクイエム)は地獄で聴け 原案 牛次郎著 広済堂出版 1986.10
  • 鬼畜狩り 若山富三郎原案 牛次郎著 祥伝社 1991.4

脚注

  1. ^ a b c JJサニー千葉『千葉流 サムライへの道』ぶんか社、2010年、154 - 171頁。ISBN 4821142694 
  2. ^ a b c 歴史群像シリーズ 『圧巻!無頼派時代劇』 115頁。
  3. ^ a b c 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」」『アサ芸+』、徳間書店、2012年11月29日、2012年12月8日閲覧 
  4. ^ a b 昭和53年度(第33回)芸術祭賞一覧”. 2010年10月20日閲覧。
  5. ^ 佐藤雅夫「プロダクション・ノート 魔界に祟られたスタジオ」(パンフレット)『魔界転生』、角川春樹事務所東映、1981年6月6日、24 - 25頁。 
  6. ^ 魔界転生”. 作品データ. SF MOVIE DataBank. 2012年4月29日閲覧。
  7. ^ 賞金稼ぎ (1975)”. 東映チャンネル. 2013年1月18日閲覧。
  8. ^ 『聞書 アラカン一代』より。
  9. ^ a b c d e f 山城新伍『おこりんぼさびしんぼ 若山富三郎・勝新太郎無頼控』幻冬舎、1998年、46頁、51 - 57頁、62 - 65頁、72頁、83 - 91頁、98頁頁。ISBN 4877282424 {{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  10. ^ 若山騎一郎『不器用に生きた男 わが父若山富三郎』ひらく、1998年、172 - 173頁。ISBN 4341190423 {{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  11. ^ 2009年(平成21年)6月18日テレビ神奈川TOKYO MX TV博士の異常な鼎談」で、ゲスト出演したコラムニスト・書評家の吉田豪が、この小説のあとがきを読む過程でその内訳を明かしている。

外部リンク