「ワレラン1世・ド・リュクサンブール=リニー」の版間の差分

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'''ワレラン1世・ド・リュクサンブール'''([[フランス語|仏]]:'''Waléran I<sup>er</sup> de Luxembourg(-Ligny)''', ? - [[1288年]][[6月5日]])は、中世[[フランス]]の{{仮リンク|リニー=アン=バロワ|en|Ligny-en-Barrois|label=リニー}}、{{仮リンク|ルシー=ル=ヴィラージュ|en|Roussy-le-Village|label=ルシー}}および{{仮リンク|ラ・ロッシュ=アン=アルデンヌ|en|La Roche-en-Ardenne|label=ラ・ロッシュ}}の領主(1281年 - 1288年)。[[ルクセンブルク家|リンブルク=ルクセンブルク家]]の17世紀まで続いた傍系{{仮リンク|ルクセンブルク=リニー家|de|Luxemburg-Ligny|label=ルクセンブルク=リニー家}}の始祖にあたる。
'''ワレラン1世・ド・リュクサンブール'''([[フランス語|仏]]:'''Waléran I<sup>er</sup> de Luxembourg(-Ligny)''', ? - [[1288年]][[6月5日]])は、中世[[フランス]]の{{仮リンク|リニー=アン=バロワ|en|Ligny-en-Barrois|label=リニー}}、{{仮リンク|ルシー=ル=ヴィラージュ|en|Roussy-le-Village|label=ルシー}}および{{仮リンク|ラ・ロッシュ=アン=アルデンヌ|en|La Roche-en-Ardenne|label=ラ・ロッシュ}}の領主(1281年 - 1288年)。[[ルクセンブルク家|リンブルク=ルクセンブルク家]]の17世紀まで続いた傍系{{仮リンク|ルクセンブルク=リニー家|de|Luxemburg-Ligny|label=ルクセンブルク=リニー家}}の始祖にあたる。


[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク伯]][[ハインリヒ5世 (ルクセンブルク伯)|ハインリヒ5世]]とその妻で[[バル公領|バル伯]][[アンリ2世 (バル伯)|アンリ2世]]の娘であるマルグリット・ド・バル(1220年 - 1275年)の間の息子として生まれた。兄[[ハインリヒ6世 (ルクセンブルク伯)|ハインリヒ6世]]が父の後を継いだため、ワレランは母方から相続したリニーの領主となった。ボーヴォワールの領主マチュー2世の娘で相続人のジャンヌ・ド・ボーヴォワール(1300年没)と結婚し、2男4女をもうけた。息子の1人[[ワレラン2世・ド・リュクサンブール=リニー|ワレラン2世]](1275年 - 1354年)が父の後を継いでリニー領主となった。
[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク伯]][[ハインリヒ5世 (ルクセンブルク伯)|ハインリヒ5世]]とその妻で[[バル公領|バル伯]][[アンリ2世 (バル伯)|アンリ2世]]の娘であるマルグリット・ド・バル(1220年 - 1275年)の間の息子として生まれた。兄[[ハインリヒ6世 (ルクセンブルク伯)|ハインリヒ6世]]が父の後を継いだため、ワレランは母方から相続したリニーの領主となった。{{仮リンク|ボーヴォワール|en|Beaurevoir|label=ボールヴォワール}}の領主マチュー2世の娘で相続人のジャンヌ・ド・ボーヴォワール(1300年没)と結婚し、2男4女をもうけた。息子の1人[[ワレラン2世・ド・リュクサンブール=リニー|ワレラン2世]](1275年 - 1354年)が父の後を継いでリニー領主となった。


[[ブラバント公国|ブラバント公家]]とヘルレ伯家のリンブルフをめぐる係争({{仮リンク|リンブルフ継承戦争|en|War of the Limburg Succession|label=リンブルフ継承戦争}})ではヘルレ陣営につき、1288年の{{仮リンク|ヴォリンゲンの戦い|en|Battle of Worringen|label=ヴォリンゲンの戦い}}で兄ハインリヒ6世とともに戦死した。ワレランは[[トルバドゥール]]・{{仮リンク|ジャック・ブルテル|en|Jacques Bretel|label=ジャック・ブルテル}}の叙事詩「ショヴァンシーのトーナメント(Le Tournoi de Chauvency)」に登場する主要なキャラクターの1人でもある。
[[ブラバント公国|ブラバント公家]]とヘルレ伯家のリンブルフをめぐる係争({{仮リンク|リンブルフ継承戦争|en|War of the Limburg Succession|label=リンブルフ継承戦争}})ではヘルレ陣営につき、1288年の{{仮リンク|ヴォリンゲンの戦い|en|Battle of Worringen|label=ヴォリンゲンの戦い}}で兄ハインリヒ6世とともに戦死した。ワレランは[[トルバドゥール]]・{{仮リンク|ジャック・ブルテル|en|Jacques Bretel|label=ジャック・ブルテル}}の叙事詩「ショヴァンシーのトーナメント(Le Tournoi de Chauvency)」に登場する主要なキャラクターの1人でもある。

2013年1月15日 (火) 03:19時点における版

ワレラン1世・ド・リュクサンブール:Waléran Ier de Luxembourg(-Ligny), ? - 1288年6月5日)は、中世フランスリニー英語版ルシー英語版およびラ・ロッシュ英語版の領主(1281年 - 1288年)。リンブルク=ルクセンブルク家の17世紀まで続いた傍系ルクセンブルク=リニー家の始祖にあたる。

ルクセンブルク伯ハインリヒ5世とその妻でバル伯アンリ2世の娘であるマルグリット・ド・バル(1220年 - 1275年)の間の息子として生まれた。兄ハインリヒ6世が父の後を継いだため、ワレランは母方から相続したリニーの領主となった。ボールヴォワール英語版の領主マチュー2世の娘で相続人のジャンヌ・ド・ボールヴォワール(1300年没)と結婚し、2男4女をもうけた。息子の1人ワレラン2世(1275年 - 1354年)が父の後を継いでリニー領主となった。

ブラバント公家とヘルレ伯家のリンブルフをめぐる係争(リンブルフ継承戦争英語版)ではヘルレ陣営につき、1288年のヴォリンゲンの戦い英語版で兄ハインリヒ6世とともに戦死した。ワレランはトルバドゥールジャック・ブルテル英語版の叙事詩「ショヴァンシーのトーナメント(Le Tournoi de Chauvency)」に登場する主要なキャラクターの1人でもある。

参考文献

  • Detlev Schwennicke: Europäische Stammtafeln Band I.2 (1999) Tafel 231