「シク王国」の版間の差分
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跡を継いだ第6グルの[[グル・ハルゴービンド]]は先代の息子で、{{要出典範囲|date=2011年7月|父の仇を報じるために護衛兵制度など教団改革に着手した。このため、政治宗教結社が軍隊まで揃える事態になった}}。 |
跡を継いだ第6グルの[[グル・ハルゴービンド]]は先代の息子で、{{要出典範囲|date=2011年7月|父の仇を報じるために護衛兵制度など教団改革に着手した。このため、政治宗教結社が軍隊まで揃える事態になった}}。 |
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第9グルの{{仮リンク|グル・テーグ・バハードゥル|en|Guru Tegh Bahadur}}はインド全土や国外にもシク教を布教活動をしようとしてムガル皇帝の[[アウラングゼーブ]]と対立し、[[1675年]]に[[デリー]]で逮捕処刑された。その跡を継いだ息子の{{仮リンク|グル・ゴーヴィンド・シン |
第9グルの{{仮リンク|グル・テーグ・バハードゥル|en|Guru Tegh Bahadur}}はインド全土や国外にもシク教を布教活動をしようとしてムガル皇帝の[[アウラングゼーブ]]と対立し、[[1675年]]に[[デリー]]で逮捕処刑された。その跡を継いだ息子の{{仮リンク|グル・ゴーヴィンド・シン|en|Guru Gobind Singh}}は{{要出典範囲|date=2011年7月|復讐を唱えて}}ムガル帝国と本格的に軍事衝突した。その一方で嬰児殺害や巡礼参拝など{{要出典範囲|date=2011年7月|当時の悪習}}を廃止して禁酒・禁煙制を定めるなど組織の強化を図った。グル・ゴーヴィンド・シンは[[1708年]]に死去した。彼の息子はムガル帝国との戦役で死んでいたため、遺言によりこの後は聖典がグルとされることになった。 |
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=== 国家へ === |
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[[1839年]]にランジート・シン |
[[1839年]]にランジート・シンが死去すると再びシク教国では内紛が起こった。今度は英雄が現われることはなく国家は深刻な内乱状態に陥った。 |
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この頃、ムガル帝国の衰退に乗じて[[イギリス]]がインドにおいて勢力を拡大していた。そのイギリスにとって{{要出典範囲|date=2011年7月|精強な洋式軍隊を抱えていたシク教国は脅威であり、強力な指導者を失って内乱を起こしていたのを好機とばかりに}}[[1845年]]から侵攻を開始した({{仮リンク|第 |
この頃、ムガル帝国の衰退に乗じて[[イギリス]]がインドにおいて勢力を拡大していた。そのイギリスにとって{{要出典範囲|date=2011年7月|精強な洋式軍隊を抱えていたシク教国は脅威であり、強力な指導者を失って内乱を起こしていたのを好機とばかりに}}[[1845年]]から侵攻を開始した({{仮リンク|第1次シク戦争|en|First Anglo-Sikh War|label=第一次シク戦争}})。シク教国ではさすがに{{要出典範囲|date=2011年7月|内紛をひとまず収束させてイギリスと戦ったが内紛の傷跡は深刻で連携がとれず}}、また強力な指導者を欠いていたために[[1846年]]の{{仮リンク|ソブラーオンの戦い|en|Battle of Sobraon}}でイギリス軍に敗れると{{仮リンク|ラホール条約|en|Treaty of Lahore}}を締結して講和(降伏)することを余儀なくされた。この条約でシク教国は[[カシミール]]地方をイギリスに譲渡し、またイギリスの駐在官を受け入れその施政を受けることを余儀なくされた。 |
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{{要出典範囲|date=2011年7月|このためシク教国で反英感情が高まり}}、1848年にイギリスに対して反乱を起こした({{仮リンク|第2次シク戦争|en|Second Anglo-Sikh War|label=第二次シク戦争}})。だが{{要出典範囲|date=2011年7月|一次と同じく強力な指導者を欠いていたシク教国軍は連携が取れずにイギリス軍に敗れ}}、残りの領土を全てイギリス領として併合された上にイギリスの命令で小国に分割され、[[植民地]]となり、{{要出典範囲|date=2011年7月|シク教国は事実上滅んだ}}。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2013年1月10日 (木) 11:57時点における版
シク教国(しくきょうこく、1764年 - 1848年)は、パンジャーブ州などインド北部に勢力を誇った宗教政治国家である。シーク教国、スィク教国ともいわれる。
経歴
国家への変貌
グル・ナーナクを開祖とするシク教は元来は平和的な宗教であったが、イスラム教など他宗教の宗教的圧力とイギリスなど西欧列強の圧迫、ムガル帝国の政治的圧力とインド人の勇猛な性格など諸因が重なって宗教団体が次第に政治組織・軍事組織化されていって最終的に国家に変貌したのである[要出典]。指導者はグル(=師匠)といわれた。
第4代グルのグル・ラーム・ダースはアムリトサルに黄金寺を建立した。さらにこれまでの歴代グルが師弟相承制であったのを血脈相承制、すなわち世襲制に移行させた。1581年にグル・ラーム・ダースが死去すると、息子のグル・アルジュンが跡を継いだ。グル・アルジュンはアムリトサルを都に定め、不完全ながらも税制を整備するなどシク教が宗教団体から政治結社に変貌していくことになった[要出典]。
ムガル帝国との対立
政治結社に変貌していくとなれば当時、インド北部で大勢力だったムガル帝国と対立するのは必然であった。だがムガル帝国は当時は第3代のアクバル大帝のもとで全盛期を迎えており対立することは明らかに不利だったことから、グル・アルジュンはアクバルと協調した関係を保った。だがアクバルが1605年に亡くなると、後継者のジャハーンギールは聖典改革をめぐってグル・アルジュンと対立。1606年にグル・アルジュンは逮捕されて拷問[要出典]を受けて殺害された。なお、この事件が原因でシク教に殉教精神が芽生えることになる[要出典]。
跡を継いだ第6グルのグル・ハルゴービンドは先代の息子で、父の仇を報じるために護衛兵制度など教団改革に着手した。このため、政治宗教結社が軍隊まで揃える事態になった[要出典]。
第9グルのグル・テーグ・バハードゥルはインド全土や国外にもシク教を布教活動をしようとしてムガル皇帝のアウラングゼーブと対立し、1675年にデリーで逮捕処刑された。その跡を継いだ息子のグル・ゴーヴィンド・シンは復讐を唱えて[要出典]ムガル帝国と本格的に軍事衝突した。その一方で嬰児殺害や巡礼参拝など当時の悪習[要出典]を廃止して禁酒・禁煙制を定めるなど組織の強化を図った。グル・ゴーヴィンド・シンは1708年に死去した。彼の息子はムガル帝国との戦役で死んでいたため、遺言によりこの後は聖典がグルとされることになった。
国家へ
ムガル帝国はアウラングゼーブの時代に最大版図を形成したが、その晩年に帝国は分裂の傾向が強まった。アウラングゼーブの死後には短命な皇帝と内紛が相次いで帝国は急速に衰退。一方のシク教は18世紀半ばになると全盛期を迎え、1764年には遂にラホールを中心にしてムガル帝国から独立した。1768年にはアムリットサルに国民会議を創設し、さらに貨幣を鋳造するなどして国家の体裁を整えた。
だが18世紀末になると内紛を起こして衰退した。だが英雄ランジート・シンが現われてシク教国は彼のもとで再統一され、再び全盛期を迎えた。
2度のシク戦争と滅亡
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1839年にランジート・シンが死去すると再びシク教国では内紛が起こった。今度は英雄が現われることはなく国家は深刻な内乱状態に陥った。
この頃、ムガル帝国の衰退に乗じてイギリスがインドにおいて勢力を拡大していた。そのイギリスにとって精強な洋式軍隊を抱えていたシク教国は脅威であり、強力な指導者を失って内乱を起こしていたのを好機とばかりに[要出典]1845年から侵攻を開始した(第一次シク戦争)。シク教国ではさすがに内紛をひとまず収束させてイギリスと戦ったが内紛の傷跡は深刻で連携がとれず[要出典]、また強力な指導者を欠いていたために1846年のソブラーオンの戦いでイギリス軍に敗れるとラホール条約を締結して講和(降伏)することを余儀なくされた。この条約でシク教国はカシミール地方をイギリスに譲渡し、またイギリスの駐在官を受け入れその施政を受けることを余儀なくされた。
このためシク教国で反英感情が高まり[要出典]、1848年にイギリスに対して反乱を起こした(第二次シク戦争)。だが一次と同じく強力な指導者を欠いていたシク教国軍は連携が取れずにイギリス軍に敗れ[要出典]、残りの領土を全てイギリス領として併合された上にイギリスの命令で小国に分割され、植民地となり、シク教国は事実上滅んだ[要出典]。