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1950年代から、ラカイン地方の分離([[:en:secession]])独立を回復するための運動が活発になった。この感情をなだめる役割のひとつとして、[[1974年]]、[[ネ・ウィン]]の社会主義政権は、アラカン地区からラカイン州を構成し、地域の多数派のラカイン族に名目上の自治権を与えた。[[ムジャーヒディーン]]と自称しているイスラム分離主義勢力<ref>主要構成員はかつて傭兵であったムスリム系{{仮リンク|カマン (部族)|en|Miju Mishmi tribe|label=カマン}}である。このカマンとロヒンギャの関係がリンクして国籍問題となっているのが後述の{{仮リンク|ロヒンギャ族問題|fr|Persécution des Rohingyas}}である。</ref>もまた[[イスラム教]]の[[バングラデシュ]][[ベンガル地方]]に隣接する国境地域でイスラム国家樹立を目的とする反乱を継続している。これに対する弾圧で生じた難民問題が、国連でも無国籍扱いになっている、[[ロヒンギャ|ロヒンギャ族]]問題である。同様の難民問題は、バングラデシュからインドの[[トリプラ州]]へ流入する[[ベンガル人]]問題でもみられている。バングラデシュ政府による[[チッタゴン管区]]の少数民族居住地での同化政策や、ダム建設による10万人近い住民の強制立ち退きも、両国の難民に共通する背景である。うち2万人がミャンマーへ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。[[2012年]][[6月8日]]には、ロヒンギャ族と仏教徒との対立が激化。大規模な衝突が発生し、ラカイン州には[[非常事態宣言]]が出された({{仮リンク|ラカイン州暴動 (2012年)|en|2012 Rakhine State riots}})。 |
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== 地理 == |
== 地理 == |
2013年1月7日 (月) 12:15時点における版
ရခုိင္ျပည္္နယ္ ラカイン州(アラカン州) (MLCTS: rahkuing pranynai) | |
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ファイル:Rakhinestate.svg | |
州都 | シットウェ |
地域 | 海岸 |
面積 | 36,780 km² |
人口 | 2,698,000 |
民族 | ラカイン族(アラカン族), チン族, チャクマ族, ムロ族, ロヒンギャ[1](カマン[2]) |
宗教 | 上座部仏教, イスラム教, ヒンドゥー教, その他 |
ファイル:MyanmarRakhine.svg |
ラカイン州(—しゅう)はミャンマーの行政区画である。面積36,762平方キロメートル、州都はシットウェ。
歴史
今日のラカイン州に対応する地域、アラカンの歴史は、おおまかに7つの時代に区分する事ができる。最初の4つの時代は、ラカイン族が支配した政治組織の権力中枢の存在したラカイン北部地域、特にカラダン川流域を地盤としていた。従って、これらの時代は、ダニヤワディー, ワイタリ, レイムロ, ミャウウー王朝に分けられている[3]。1784年から1785年にかけてミャウウーはビルマのコンバウン王朝に征服され、それ以後、ラカインはコンバウン王朝の属国となった。1824年、第一次英緬戦争が勃発し、1826年にはラカイン州とタニンダーリ管区が同時に、本国への返還として、ビルマから英国へ割譲された。しばらくして英領インドのビルマ地方の一部に編入された。1948年、ビルマは独立を与えられたが、ラカイン族は新共和国に併合されたままになった。
独立王国
アラカンの口承や寺院の碑文を基にするならば、ラカイン州の歴史は相当古い時代にまで遡ることが出来る。ラカイン族は自身の民族史を紀元前3325年まで遡って、1784年の最後の支配者に至るまでの227人のネイティブの直系後継君主を明らかにしている。彼らはその領土、すなわちアヴァ, イラワジ・デルタ, en:Thanlyin (シリアム)の港町、ベンガル東部(ラカイン族と近縁のマルマ族が居住するチッタゴン丘陵地帯)、も描いている。しかし、歴代のラカイン王国の領土が、既知の特定な歴史的ドキュメントによる正確な確証が与えられているわけではない。
ラカイン族の伝説によれば、最初に記録された王朝は北部の町ダニヤワディー周辺を中心として紀元前34世紀から紀元前327年まで続いたとされている。ラカイン族の書物と碑文が伝えるところによれば、有名なマハムニ仏が作られたのは紀元前554年のことで、その時ブッダが王国を訪れたとされている。
紀元4世紀にダニヤワディーが衰亡すると、権力の中心はワイタリの町を拠点とする二番目の新王朝に移った。この時期こそ、それ以前より多くの考古学的遺物が残っているワイタリ期と、ラカインの文化・建築・仏教の古典時期とが一致するのである。ワイタリ王朝の権力の衰退とともに、三番目の新王朝はレイムロ川沿いの4つの町に出現し、レイムロ王朝期を迎え、4つの主要都市は順番に首都の役割を果たした。
1430年、最後のミャウウー王朝が、ミン・ソー・モンによって宣言された。ラカイン族は、大航海時代をラカイン族の黄金時代と看做しており、ミャウウーが商業港として重要な位置を占めるようになると、アラビアやヨーロッパとの広範囲な海運に組み込まれた。1666年、ムガル帝国にチッタゴンを奪われると、17世紀を通じて、衰退を続けた。内乱・暴動・王の追放が非常に一般的であった。彼らがアジアで覇を唱えた時代の間、ポルトガル人がアラカンに一時的施設を得た。
非アラカン族による支配
1784年の最後の日、内部分裂していた王国がビルマのコンバウン朝に降伏した。マハムニ仏は戦勝品としてビルマ人に奪われた。緩衝国として機能していたアラカンが陥落したことによって、膨張主義のビルマとイギリス東インド会社の領土が直接接触した結果、緊張が将来暴発する舞台を設定してしまった。様々な地政学的諸問題が、以前にビルマに戦勝品として奪われたマハムニ仏を理由に、第一次英緬戦争を引き起こし、こん回は神殿の巨大な鐘をイギリス軍が戦勝品として、イギリス東インド会社の第2師団司令官のBhim Singhへその勇気を称えて送った。この彫刻された巨大な鐘は、現在もインドウッタル・プラデーシュ州en:Kanshi Ram Nagar districten:Kasganj近郊のNadrai村にあるヒンズー教神殿に備え付けられている。1826年、ヤンダボ条約で戦闘は終了し、ビルマは英領インドにアラカン(ラカイン州)とテナセリム(タニンダーリ管区)を割譲することを余儀なくされた。英国はアキャブ(Akyab, 現シットウェ)をアラカンの区都とした。後に、アラカンはイギリス領インド帝国の一地方になり、1937年にビルマがインド帝国から分離され別の直轄植民地である英領ビルマになった時、その一地方として返還された。アラカンはミャウウー王朝期の伝統的な区分に添う3つの地区に行政上の区分がなされていた。
1940年から現在まで
第二次世界大戦中のビルマの戦いにおいて、アラカン(ラカイン州)は多くの戦闘が行われた場所として知られており、最も有名なのは第一次アキャブ作戦と第二次アキャブ作戦とラムリー島の戦いである。1948年、アラカンは新たに独立したビルマ連邦の一部となり、3つの地区はラカイン管区となった。
1950年代から、ラカイン地方の分離(en:secession)独立を回復するための運動が活発になった。この感情をなだめる役割のひとつとして、1974年、ネ・ウィンの社会主義政権は、アラカン地区からラカイン州を構成し、地域の多数派のラカイン族に名目上の自治権を与えた。ムジャーヒディーンと自称しているイスラム分離主義勢力[4]もまたイスラム教のバングラデシュベンガル地方に隣接する国境地域でイスラム国家樹立を目的とする反乱を継続している。これに対する弾圧で生じた難民問題が、国連でも無国籍扱いになっている、ロヒンギャ族問題である。同様の難民問題は、バングラデシュからインドのトリプラ州へ流入するベンガル人問題でもみられている。バングラデシュ政府によるチッタゴン管区の少数民族居住地での同化政策や、ダム建設による10万人近い住民の強制立ち退きも、両国の難民に共通する背景である。うち2万人がミャンマーへ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。2012年6月8日には、ロヒンギャ族と仏教徒との対立が激化。大規模な衝突が発生し、ラカイン州には非常事態宣言が出された(ラカイン州暴動 (2012年))。
21世紀初頭から、中華人民共和国のエネルギー資源計画にもとづいた中国・ビルマ・パイプラインと大型船が寄港可能な港湾施設の建設が始まった[5]。チャウッピューの港湾(チャウピュ港)でポートスーダンからの石油を陸揚げ可能になり、石油パイプラインで昆明まで輸送が可能になる。
地理
西海岸に位置して、北はチン州、東はマグウェ管区、バゴー管区、エーヤワディ管区、北西部はバングラデシュのチッタゴン管区と接する。西はベンガル湾に面しマユ半島(Mayu Peninsula)があり、ラムリー島やチェドバ島(マナウン島)を含む。北緯17°30'~21°30'、東経92°10'~94°50'の範囲に位置する。アラカン山脈(最高峰はヴィクトリア山の3,063m)が、ラカイン州とミャンマー本土を分けている。
行政区画
- シットウェ県 - (シットウェ)
- モンドウ県 - (モンドウ) 外国人立入り禁止特別区。国防省より特別入管許可書を事前に取得する必要有り。
- チャウッピュー県 - (チャウッピュー)
- サンドウェ県 - (サンドウェ)
交通
空港
- シットウェ空港(Sittwe Airport)
- チャウッピュー空港(Kyaukpyu Airport)
- サンドウェ空港(Thandwe Airport)
- グワ空港(Gwa Airport)
水上
脚注
- ^ [1] "Burma's forgotten Rohingya", BBC NEWS, Saturday, 11 March 2006, 00:26 GMT
- ^ Kaman Muslimsとも
- ^ 各王朝の年代に関しては、アラカンの口承や寺院の碑文をもとにしたアラカン族統治者のリストを参照。
- ^ 主要構成員はかつて傭兵であったムスリム系カマンである。このカマンとロヒンギャの関係がリンクして国籍問題となっているのが後述のロヒンギャ族問題である。
- ^ Graeme Jenkins. Burmese junta profits from Chinese pipeline, Telegraph, 2008年1月14日(2010年6月20日閲覧)
- ^ インドとミャンマー間国境にあたるパレッワ=ミェイッワ間の高速道路(Paletwa-Myeikwa Road)の建設計画がある。(他に、Mandalay-Gangaw-Falam-Rihkhawdar(Reehkawdar) Road、Kalay-Teddim-Rihkhawdar(Reehkawdar) Road、東側内陸部に向かうPakokku-Matupi-Roadがある。)
- ^ Rihkhawdar(Reehkawdar)はIndia-Burma borderの町である。