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=== セレウコス朝からローマ時代 ===
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2013年1月6日 (日) 17:31時点における版

世界遺産 パルミラ遺跡
シリア
四面門
四面門
英名 Site of Palmyra
仏名 Site de Palmyre
登録区分 文化遺産
登録基準 (i) (ii) (iv)
登録年 1980年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
パルミラの位置
使用方法表示
ベル神殿、ベル神を祀っていた
パルミラの神々。左から、月の神アグリボル(Aglibôl)、最高神バアル・シャミン(バアルシャメン、Beelshamên)、太陽神マラクベル(Malakbêl)。1世紀ごろの浮彫、シリアの Bir Wereb, Wadi Miyah 付近で発見、ルーブル美術館所蔵

パルミラ英語: Palmyra)は、シリア中央部のホムス県タドモル(タドムル、アラビア語: تدمر ‎、アルファベット転写:Tadmor)にあるローマ帝国支配時の都市遺跡。シリアを代表する遺跡の1つでもある。1980年、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。ローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、公共浴場、四面門が代表的。ラテン語読みによるパルミュラとも呼ばれる。

概要

パルミラの遺跡は、シリアの首都ダマスカスの北東、約215kmのシリア砂漠の中にある。ユーフラテス川流域からは南西へ約120km。シリア中央部を北東方向へ伸びる山脈(Jabal Abu Rujmayn)の南麓に位置する。北から流れるワジアブオベイド川と、西から流れるワジアイド川が形成した扇状地にあるオアシスに建設されていた。

パルミラのある東西方向の谷間は、地中海沿岸のシリアやフェニキアと、東のメソポタミアペルシャを結ぶ交易路となっており、パルミラはシリア砂漠を横断するキャラバンにとって非常に重要な中継点であった。

紀元前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され、当時からアラム語で現在のアラビア語名と同じく「タドモル」 תדמר (Tadmor) と呼ばれていた。ナツメヤシの産地として知られたオアシス都市であったが、アラム語やヘブライ語など北西セム語ではナツメヤシのことを תמר tamar といい、都市名はナツメヤシと関係があるとされる。ギリシア語でナツメヤシのことを「パルマ」ということから、ギリシア人ローマ人から「パルミラ」と呼ばれたようである。

紀元前1世紀から3世紀までは、シルクロードの中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの属州となったこともある。2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた。

「軍人皇帝時代」にパルミラ王国が成立し、270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。273年にパルミラは陥落し廃墟と化した。

この後パルミラは衰え、東ローマ帝国イスラム帝国の支配下にあった時代は街の大半が廃墟のままであった。中世には完全に放棄されたが、現在では遺跡と同じ名のタドモル(タドムル)という新しい町がすぐ横に建設されている。

歴史

パルミラの近くからは、約7万年前の旧石器時代の石器が発見されている。ユーフラテス河畔のマリ遺跡で発掘された紀元前2000年代ごろの粘土板からもこの都市の名前(Tadmor、または Tadmur、または Tudmur)と思われる記述が見つかっている[1]

旧約聖書歴代誌第二、8章4節)では、古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル」の街を築いたと記されている。列王記第一の9章18節でも、ソロモンが築いた街や基地の中に「תמר」(タモル Tamor またはタマル Tamar)の名がみられるが、伝統的にこの部分は「タドモル」と読むことになっており、タルムードミドラーシュの冊子にある注釈のいくつかではこの街をシリア砂漠にあると記している。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第8巻においても、タドモルはソロモンが創建したと書かれ、ギリシャ語のパルミラの名も併記されている。現代ヘブライ語においてもパルミラはタドモルと呼ばれる。

タドモル(パルミラ)の人々はアラブ人であったが、アラム語の方言(パルミラ語)を話し、アラム文字を手直しした独自の文字(パルミラ文字)を用いていた。パルミラ文字は今も遺跡の各所に残る。

セレウコス朝からローマ時代

アケメネス朝ペルシャから覇権を奪い取ったマケドニア王国アレクサンドロス大王紀元前323年に没すると、ディアドコイ戦争と呼ばれる後継者争いが勃発した。セレウコス朝がシリアを奪った際[要出典]、パルミラの街は自治に委ねられ、後には独立した。紀元前1世紀にはパルティア共和政ローマの間の緩衝国として独立を維持し、キャラバンの中継地として繁栄を謳歌した。紀元前41年にローマの将軍マルクス・アントニウスがパルミラを征服しようとしたが、パルミラ人はローマ軍接近の情報を得てユーフラテス川の対岸方面に逃げたため失敗した。これは当時、まだパルミラが貴重品をすぐに持って逃げられるような、遊牧民の宿営ほどの規模であったことを示す。一方、当時のパルミラ商人はイタリア海域に船を所有し、インド産の絹の貿易を支配していたとされる[1]

皇帝ティベリウス(14年 - 37年)の時代、パルミラはローマ帝国のシリア属州の一部となった。106年に南にあるペトラを都とするナバテア王国がローマに征服されるとその通商権はパルミラに移り、ローマ帝国と東方のペルシャ・インド・中国とを結ぶ重要性はこの時期増していった。129年、ローマの拡大路線を転換した皇帝ハドリアヌスは視察巡幸の途中にパルミラを訪れた。その魅力にとりこにされたハドリアヌスはパルミラに自由都市の資格を与えパルミラ・ハドリアナ(Palmyra Hadriana)と改名した。

パルミラ王国

パルミラの列柱道路。ローマの植民都市や軍営の都市計画で、東西に貫く通りはデクマヌスと呼ばれたが、中でも最も主となる大通り(都市軸)はデクマヌス・マクシムス(Decumanus Maximus)と呼ばれた

212年サーサーン朝(ペルシア)が衰退するパルティアを圧迫し、チグリス川およびユーフラテス川の河口を占領すると、パルミラ経由の通商は途絶えがちになった。パルミラの長官セプティミウス・ヘロドの息子、セプティミウス・オダエナトゥスは皇帝ウァレリアヌスからシリア属州総督に任命された。260年にウァレリアヌス帝がサーサーン朝との戦いで捕らえられ、虜囚となったままビシャプールで死ぬと、オダエナトゥスは復讐としてペルシア領内に遠征し、クテシフォンにも2度侵攻した。オダエナトゥスは内憂外患に悩まされるローマの東の守りを任され、その本拠パルミラはローマから半独立状態にあったが、267年にオダエナトゥスが甥に殺されると、妻ゼノビアが息子ウァバッラトゥスを擁立してパルミラの実権を握った。ゼノビアは哲学者カッシウス・ロンギヌス(en)を顧問に迎え、アラビア・ペトラエアの州都ボスラを征服し、さらにはアエギュプトゥス(エジプト属州)へも遠征して領土を拡大した。

北にある大都市アンティオキアも奪おうとしていたゼノビアは、273年に皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスの親征を受けて敗北し、捕らえられローマに送られた。虜囚となったゼノビアはローマ近郊のティヴォリに邸宅を持つことを許され華やかな余生を送ったが、パルミラの街は破壊されロンギヌスらパルミラ政府の高官は殺された。

ローマ帝国は、以後パルミラをローマ軍団の基地に変えてしまった。ディオクレティアヌス帝の時代には、ペルシアの侵攻に備えてさらに多くの部隊が駐留できるよう規模が拡大され城壁で囲まれた。

ローマ以後

アラブ砦から見下ろしたパルミラ遺跡。列柱道路の先、オアシスの手前に大きなベル神殿がある

東ローマ帝国の時代、パルミラに新たに建設されたのはいくらかのキリスト教会のみで、市街の大半は廃墟のまま放置されていた。6世紀、遺跡とオアシスを見下ろす丘の上に砦が建設されている。634年、最初のムスリムがパルミラにたどり着き、次いで636年ハーリド・イブン=アル=ワリード率いる正統カリフ軍がパルミラを占領し、アラブ人イスラム教徒が支配する町となった。800年ごろから数少ない住民もパルミラを去り始め、1089年の大地震で被害を受けた後は完全に放棄された[2]。カトリック教会は、現在もパルミラに名義司教を残している[3]

1751年、イギリスの探検隊がパルミラ遺跡を訪れ、1753年にはその報告書を出版した。これはローマ建築の研究およびその後のヨーロッパの古典主義建築の発展に大きな影響を与えた。

現在はホムス県に属し、人口およそ56,000人のタドモルの街が遺跡の隣にある。

主な建築物

早朝のパルミラ遺跡のパノラマ

ギャラリー

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
  • (ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。

関連項目

脚注

  1. ^ Terry Jones' Barbarians, Terry Jones, Alan Ereira
  2. ^ http://en.wikisource.org/wiki/Catholic_Encyclopedia_%281913%29/Palmyra "Palmyra". Catholic Encyclopedia. (1913). New York: Robert Appleton Company.
  3. ^ Palmyra (Titular See) - catholic-hierarchy.org

外部サイト