「陸羽」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ZéroBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: pl:Lu Yu
YFdyh-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.3) (ロボットによる: uk:Лу Юйを追加
52行目: 52行目:
[[sh:Lu Yu]]
[[sh:Lu Yu]]
[[sv:Lu Yu]]
[[sv:Lu Yu]]
[[uk:Лу Юй]]
[[vi:Lục Vũ]]
[[vi:Lục Vũ]]
[[zh:陸羽]]
[[zh:陸羽]]

2013年1月4日 (金) 11:34時点における版

西安大雁塔にある陸羽の像

陸 羽(りく う、733年 - 804年)は、中国代の文筆家。の知識をまとめた『茶経』3巻などを著述した。またの名を疾、(あざな)は鴻漸(こうぜん)、季疵、号は桑苧翁と称した。(他からは竟陵子と呼ばれた)。他の著作に『毀茶論』、『君臣契』、『源解』、『陸文学自伝』(『茶経』以外は散逸)がある。

出自

春木南溟筆 陸羽像(部分) 天保12年

陸羽は捨て子であった可能性が高く出自不明である[1]。そのため、確実ではないが生年733年、出身地を復州竟陵(きょうりょう)(現在の湖北省天門市)とする通説が知られている[1]

陸羽の姓「」については彼を拾った僧侶の俗姓をもらい陸とした、又はの卦(け)にしたがって名付けた、などの説が伝えられている[1]

経歴

捨て子として3歳くらいの時に浜で競陵龍盖寺の智積禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという。

幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。

逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。天宝年間に、竟陵の長官・李斉物(りせいぶつ)の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔(さいこくほ)とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。

756年至徳元年)、安禄山の乱を避けようと北方の知識人たちは、江南地方へ逃れた。陸羽も760年上元元年)の頃、湖州(現在の浙江省湖州市)に避難。庵(いおり)をつくって隠居し、桑苧翁と号し著書を書き出した。僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に780年建中元年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。

大暦年間に、湖州の長官として赴任してきた顔真卿(がんしんけい)のもとで、『韻海鏡原(いんかいきょうげん)』の編纂に加わった。御史大夫の李季卿に冷遇され、『毀茶論』を著したこともある。

伝記資料

  • 新唐書』巻百九十六 列伝第百二十一隠逸[2]「陸羽伝」

脚注

  1. ^ a b c 井波律子(編集)「中国史重要人物101 2005年 新書館 ISBN 4403250203
  2. ^ ウィキソース出典  (英語) 新唐書/卷196, ウィキソースより閲覧。 

参考文献

  • 陳舜臣 『茶の話 茶事遍路』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1992年、ISBN 978-4022607058
  • 成田重行 『茶聖陸羽 茶経を著した偉人の生涯』 淡交社、1998年、ISBN 978-4473016249
  • 『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894

外部リンク