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2013年1月4日 (金) 06:31時点における版
円恵法親王(えんえほっしんのう/えんけいほっしんのう、仁平2年(1152年) - 寿永2年11月19日(1184年1月3日))は、平安時代末期の皇族・僧。後白河天皇の第四皇子。母は兵衛尉平信重の娘・坊門局。通称は八条宮。
経歴
無品ではあったが、四天王寺別当を務め、また皇族で初の園城寺長吏となるなど、父である後白河法皇の院政を仏教界から支えた。しかし、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵においては、園城寺が以仁王の協力者となったことからその責任を問われ、四天王寺の検校職を停止されている。
その後も法皇の身辺に伺候したが、そのため寿永2年の源義仲による法住寺殿襲撃(法住寺合戦)において義仲軍と戦うこととなり、華山寺付近にて射殺された。
皇族である円恵の戦死は、同じく法住寺合戦で討たれた天台座主・明雲のそれとともに当時の貴族社会に衝撃を与え、九条兼実は『玉葉』(寿永2年11月22日条)において、「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆している。