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'''岸本 由豆流'''(きしもと ゆずる、[[寛政]]元年([[1789年]]) - [[弘化]]3年([[1846年]]))は、[[江戸時代]]後期の[[国学者]]。やまぶき<ref>木偏に在</ref>園、尚古考証園と号した。
'''岸本 由豆流'''(きしもと ゆずる、[[寛政]]元年([[1789年]]) - [[弘化]]3年閏[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]([[1846年]][[7月10日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[国学者]]。やまぶき<ref>木偏に在</ref>園、尚古考証園と号した。


== 人物 ==
== 人物 ==

2012年10月28日 (日) 13:40時点における版

岸本 由豆流(きしもと ゆずる、寛政元年(1789年) - 弘化3年閏5月17日1846年7月10日))は、江戸時代後期の国学者。やまぶき[1]園、尚古考証園と号した。

人物

寛政元年(1789年)、伊勢国朝田村において生まれる[2][3]。朝田某の子という[2]。後に、幕府弓弦師・岸本讃岐の養子となり、岸本大隅と称した[2][3]

国学者・村田春海の門に入り、国学を学ぶ[2][3]。早くに家業の弓弦師を長男に譲って退隠し、考証・著作に専念したという[2][3]。著書に『万葉集考証』『土佐日記考証』『後撰集標注』などがある[2][3]。蔵書が3万巻に及んだという典籍の収集家でもあった[2][3]

晩年は、浅草聖天町に住み、狩谷エキ斎市野迷庵村田了阿北静盧らと交友した[2]。弘化3年(1846年)閏5月17日、死去[2][3]。浅草の誓願寺塔頭林相院に葬られた[2]

脚注

  1. ^ 木偏に在
  2. ^ a b c d e f g h i j 『古学小伝 巻2』25丁
  3. ^ a b c d e f g 『コンサイス日本人名事典』401頁

参考文献

  • 清宮秀堅『古学小伝 巻2』(玉山堂,1886)
  • 三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典』(三省堂,改訂版,1990)

関連文献

  • 藤岡忠美「「和泉式部集標注」と岸本由豆流」国語国文研究21号(北海道大学国語国文学会,1962-03)