「國本良博」の版間の差分
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[[亜細亜大学]]を卒業し、1973年に静岡放送(以降SBSと表記)へ入社後、SBSのテレビ・ラジオの両方でアナウンサーとパーソナリティーを務める。2009年12月25日にSBSを定年により退社し、以後も引き続きパーソナリティーとしてSBSの番組に出演。 |
[[亜細亜大学]]を卒業し、1973年に静岡放送(以降SBSと表記)へ入社後、SBSのテレビ・ラジオの両方でアナウンサーとパーソナリティーを務める。2009年12月25日にSBSを定年により退社し、以後も引き続きパーソナリティーとしてSBSの番組に出演。現在も[[GOGOワイド Wテツのらぶらじ#GOGOワイド くんちゃんのらぶらじ|GOGOワイド くんちゃんのらぶらじ]]に出演している。 |
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ニックネームは「'''クンちゃん'''」。レギュラー番組である「らぶらじ」では、同じくパーソナリティーを務めていた[[樹根]]から「'''クン子'''」と呼ばれていた。 |
ニックネームは「'''クンちゃん'''」。レギュラー番組である「らぶらじ」では、同じくパーソナリティーを務めていた[[樹根]]から「'''クン子'''」と呼ばれていた。 |
2012年10月25日 (木) 23:23時点における版
國本 良博(くにもと よしひろ、1949年12月25日 – )は元・静岡放送(SBS)アナウンサー。
プロフィール
亜細亜大学を卒業し、1973年に静岡放送(以降SBSと表記)へ入社後、SBSのテレビ・ラジオの両方でアナウンサーとパーソナリティーを務める。2009年12月25日にSBSを定年により退社し、以後も引き続きパーソナリティーとしてSBSの番組に出演。現在もGOGOワイド くんちゃんのらぶらじに出演している。
ニックネームは「クンちゃん」。レギュラー番組である「らぶらじ」では、同じくパーソナリティーを務めていた樹根から「クン子」と呼ばれていた。
当時SBSに在籍していたアナウンサー2人、ディレクター2人で「ケッタウェイズ」というバンドを組み、ミュージシャンとしての素質も持つ。現在は「クレイドルス」を経て(「くんちゃんと仲間たち」改め)「THE LEGEND」というバンドで音楽活動を継続し、イベントに出演する等活躍している。
ヤマハポピュラーソングコンテスト東海大会では司会を務めた他歌手としても出演したことがあり、その時に歌った「長老カモメの伝説」は非売品ながらレコード化されている。1977年、第4回飛び出せ!全国DJ諸君企画賞受賞。また、アノンシスト賞を3度受賞。
知り合いであった北嶋興(当時静岡第一テレビアナ)との絡みから、同局の情報バラエティ番組「JanJanサタデー」に一度だけゲスト出演したことがある。
國本のエピソードとして大変有名なものがある。それはローカルニュース(「朝一番!SBSニュースワイド」、1986年10月〜1989年9月。詳細な時期は不明)の本番中に鼻血を出しながらニュースを読んだことである[1]。過去にJNN系列で放映されたNG特番でも度々その映像が放映され、某週刊誌でそれが取り上げられ、実際のアクシデントから20年近く経った頃、再び話題を呼んだこともある。NG特番では、「当時、睡眠時間がたった3時間ほどしか無かった」と語っている。
出演
テレビ
- 朝一番!SBSニュースワイド
- お~い!トムソーヤ
- とく報!4時ら中継担当(水曜のみ國本学名義)
ラジオ
現在
過去
- シャナナしずおか
- 1400(いちよんまるまる)デンリクアワー
- ぶっちゃけスタジオCut In(カットイン)!
- フリーステーション1.2.0
- クンちゃんのトークカプセル
- ぽっぷん王国静岡地区担当(1986年10月 - 1989年9月)
- ラジカルモンスター(第4期)火曜日担当
- チャッキリ大放送
- マルキン特大号 くんちゃん樹根りん美保のアッパレ!ハレハレ
- 猛烈昼下がりクンちゃん、ジュネリン、カヨピーのアッパレ!ハレハレ
- クンちゃんのなんでもナイト
- パソコンアタッククラブ
- 國本良博のラジオデイズ
テレビCM
- いちまるホーミング
関連項目
- 北嶋興 元静岡第一テレビアナウンサー。当時、國本と親交があり、國本の番組に(局の垣根を越えて)ゲスト出演の経験もある。
- 荻島正己 元静岡放送アナウンサー。静岡放送社員有志バンドケッタウェイズの共にメンバーであった。
脚注
- ^ この「朝一番!SBSニュースワイド」は、アナウンサー1人で30分間の生放送を進行するため、フォローする出演者がいなかったことも、國本にとっては災難であった。
余談だが、当時のスタジオには國本以外にはフロアディレクターとカメラマンしかおらず、スタジオも副調整室もパニックになったそうである。
外部リンク