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そして、2012年10月7日で戦力外通告。
そして、2012年10月7日で戦力外通告<ref>[http://www.marines.co.jp/news/detail/10209.html 戦力外通告のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月7日</ref>


==プレースタイル==
==プレースタイル==

2012年10月11日 (木) 12:51時点における版

秋親(山田 秋親)
千葉ロッテマリーンズ #48
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市北区
生年月日 (1978-09-19) 1978年9月19日(45歳)
身長
体重
184 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 2001年3月28日
年俸 1,100万円(2011年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2000年

山田 秋親(やまだ あきちか、1978年9月19日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手投手)。京都府京都市出身。

来歴・人物

プロ入り前

北嵯峨高校時代は3年時に第78回全国高等学校野球選手権大会に出場。立命館大学に進学。関西学生リーグで通算17勝6敗、防御率0.91。最速153kmの直球を誇るアマチュア野球界ナンバーワンの投手としてシドニーオリンピックにも出場。複数球団の争奪戦を経て、2000年度ドラフト会議で逆指名により福岡ダイエーホークスに入団。

ダイエー・ソフトバンク時代

1年目の2001年は、3月28日近鉄2回戦で初登板で初先発。7回途中を8安打で自責点4ながらも、初勝利を挙げる[1]。その後、完封勝利を記録している。

2年目の2002年は、5月8日までに開幕4連勝するなど大器の片鱗は見せたが、5連敗。7月5日に5勝目を挙げるにとどまり[2]、開幕当初に活躍しても失速するシーズンが続いた。

2004年は当時の抑え投手である三瀬幸司へと繋ぐセットアッパーとして活躍。

リリーフに活路を見出したが、2006年に右ひじ、2007年に左ひざを手術するなど、故障により1軍登板が減少。登板数が1試合に終わった2008年オフにホークスから戦力外通告を受けた。現役続行を希望して同年11月に右肩関節唇の手術を受けた。

独立リーグ時代

2009年3月から四国・九州アイランドリーグ福岡レッドワーブラーズの練習に参加。同年9月1日に選手として正式に入団。入団後は5試合に登板し、0勝1敗で防御率3.48の成績を挙げた。シーズン後はアイランドリーグ選抜選手の一員としてフェニックスリーグにも参加。NPB復帰を目指して、同年11月に12球団合同トライアウトに参加。同月20日千葉ロッテマリーンズへの入団が発表された。登録名は「秋親」。元NPB選手が日本の独立リーグを経てNPBへの復帰を果たした初のケースとなった。

ロッテ時代

2010年5月13日、交流戦横浜戦において負傷降板した先発・唐川侑己の後を受け、三番手として四回から登板。ダイエー時代の2004年9月8日のロッテ戦以来、2073日ぶりの白星を手にした[3]。特に前半戦は防御率1点台だった時期もあり、敗戦処理やロングリリーフとして活躍した。

2011年は石垣島キャンプで痛めた腰の影響で5月までブルペンに入れなかった[4]。夏過ぎから調子をあげファームで31試合登板するが、シーズンを通して一軍昇格はなかった[4]。 そして、2012年10月7日で戦力外通告[5]

プレースタイル

最速153km/hを誇る速球派だったが、怪我の手術以降は球速に陰りが見えていた。ロッテ復帰後は140km/h台後半にまで球速が戻ってきている。変化球の持ち球は、主にスライダーカーブフォークなど。リリーフとして短いイニングを投げるときは落差の大きいフォークを主体としたピッチングをしており、奪三振率が高い一方で与四球も多いという投球スタイルである。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2001 ダイエー
ソフトバンク
10 9 1 1 0 2 2 0 -- .500 218 48.1 43 5 32 0 3 25 4 0 29 29 5.40 1.55
2002 18 15 1 0 0 5 6 0 -- .455 403 91.0 92 17 39 2 5 82 3 1 55 53 5.24 1.44
2003 24 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 121 26.0 25 3 17 2 5 20 1 0 12 12 4.15 1.62
2004 35 1 0 0 0 6 2 1 -- .750 244 57.2 53 7 24 1 1 53 0 0 25 25 3.90 1.34
2005 4 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 28 5.1 5 0 5 0 1 5 2 0 4 1 1.69 1.88
2007 6 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 25 6.0 5 2 3 0 0 4 0 0 3 3 4.50 1.33
2008 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 5 0.2 1 0 2 0 0 0 0 0 1 1 13.50 4.50
2010 ロッテ 28 0 0 0 0 1 0 0 2 1.000 146 31.1 31 3 20 0 6 29 5 0 17 17 4.88 1.63
通算:8年 126 25 2 1 0 16 11 1 2 .593 1190 266.1 255 37 142 5 21 218 15 1 146 141 4.76 1.49
  • 2011年度シーズン終了時
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

記録

背番号

  • 17 (2001年 - 2007年)
  • 34 (2008年 - 2009年)
  • 48 (2010年 - )

登録名

  • 山田 秋親(やまだ あきちか)(2001年 - 2008年)
  • 秋親(あきちか)(2010年 - )

脚注・出典

  1. ^ 「2002 ベースボール・レコード・ブック」 ベースボールマガジン社 41、309頁
  2. ^ 週刊ベースボール 2002年12/16号 86頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース総括 2位 福岡ダイエーホークス」より。
  3. ^ スポニチ 秋親 2073日ぶり白星に感慨深げ
  4. ^ a b “千葉ロッテ・秋親「再び輝くマウンドへ」”. 現代ビジネス. (2012年4月24日). http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32388 2012年7月21日閲覧。 
  5. ^ 戦力外通告のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月7日

関連項目

外部リンク