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[[椎名氏]]は[[越中]]の[[守護代]]。
[[椎名氏]]は[[越中]][[新川郡]]の[[守護代]]。


椎名氏は桓武平氏千葉氏の一族。南北朝期に始祖椎名孫八が松倉城に入城したとされる。後に越中に守護として赴任した[[畠山氏]]に仕え、新川郡守護代に任命された。
もとは越中に守護として赴任した[[畠山氏]]の守護代であったが、畠山氏が[[応仁の乱]]で衰退すると独立し、[[神保氏]]と越中の覇権をめぐって争った。しかし、[[越後]]から[[上杉謙信]]が侵攻して来ると、その猛攻に耐えられず、配下となって服属した。


畠山氏が[[応仁の乱]]で衰退し、婦負・射水両郡の守護代であった[[神保慶宗]]が畠山氏からの独立を目指すと[[椎名慶胤]]はこれに同調した。しかし永正17年(1520)長尾・畠山連合軍の征伐を受けて敗北、椎名氏は降伏し、椎名氏の新川郡守護代職は[[長尾為景]]に奪われてしまう。しかし長尾為景は[[椎名長常]]を又守護代としてそのまま起用したため、椎名氏は長尾氏に従属する形になりながらも、新川郡の支配権を維持した。
しかし1576年、常に独立を目指して不穏な動きを見せていたために謙信の怒りを買って猛攻を受けた[[椎名康胤]]は討ち死にし、椎名氏は滅亡してしまった。

[[天文]]年間になると[[神保長職]]が郡境の[[神通川]]を越えて新川郡に進出、[[富山城]]を築いて椎名領の侵略をはじめた。これを機に越中国は国人をも巻き込んだ[[越中大乱]]と呼ばれる大抗争が勃発したが、[[椎名長常]]はこれに敗北し、不利な条件で和議を結ばされた。

[[永禄]]年間に至り[[椎名康胤]]が家督を継ぎ、再び[[神保長職]]との抗争が繰り返されたが、椎名氏は次第に神保氏に圧迫され、[[上杉謙信]]に援軍を要請した。このため[[神保長職]]は降伏し、[[椎名康胤]]は危機を脱した。

しかし[[永禄]]11年、[[武田信玄]]の調略を受けた[[椎名康胤]]は突如上杉家を離反し、[[一向一揆]]と結んで武田方に寝返った。これに激怒した謙信は椎名康胤を攻め、康胤は[[松倉城]]を追われて[[一向一揆]]に合流した。康胤はその後一揆勢の指揮官として富山城を攻略したり[[石山本願寺]]籠城に加わったりしたが、天正4年(1576)謙信に帰順を願い出る。しかしこれは許されず、同年[[蓮沼城]]で上杉軍に攻められて自刃し、越中守護代椎名氏は滅んだ。

2004年6月9日 (水) 09:45時点における版

椎名氏越中新川郡守護代

椎名氏は桓武平氏千葉氏の一族。南北朝期に始祖椎名孫八が松倉城に入城したとされる。後に越中に守護として赴任した畠山氏に仕え、新川郡守護代に任命された。

畠山氏が応仁の乱で衰退し、婦負・射水両郡の守護代であった神保慶宗が畠山氏からの独立を目指すと椎名慶胤はこれに同調した。しかし永正17年(1520)長尾・畠山連合軍の征伐を受けて敗北、椎名氏は降伏し、椎名氏の新川郡守護代職は長尾為景に奪われてしまう。しかし長尾為景は椎名長常を又守護代としてそのまま起用したため、椎名氏は長尾氏に従属する形になりながらも、新川郡の支配権を維持した。

天文年間になると神保長職が郡境の神通川を越えて新川郡に進出、富山城を築いて椎名領の侵略をはじめた。これを機に越中国は国人をも巻き込んだ越中大乱と呼ばれる大抗争が勃発したが、椎名長常はこれに敗北し、不利な条件で和議を結ばされた。

永禄年間に至り椎名康胤が家督を継ぎ、再び神保長職との抗争が繰り返されたが、椎名氏は次第に神保氏に圧迫され、上杉謙信に援軍を要請した。このため神保長職は降伏し、椎名康胤は危機を脱した。

しかし永禄11年、武田信玄の調略を受けた椎名康胤は突如上杉家を離反し、一向一揆と結んで武田方に寝返った。これに激怒した謙信は椎名康胤を攻め、康胤は松倉城を追われて一向一揆に合流した。康胤はその後一揆勢の指揮官として富山城を攻略したり石山本願寺籠城に加わったりしたが、天正4年(1576)謙信に帰順を願い出る。しかしこれは許されず、同年蓮沼城で上杉軍に攻められて自刃し、越中守護代椎名氏は滅んだ。