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[[image:Coldstream Guards sentry - 20090804.jpg|thumb|right|200px|衛兵任務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。]]
[[image:Coldstream Guards sentry - 20090804.jpg|thumb|right|200px|衛兵任務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。]]
'''コールドストリームガーズ'''( {{lang-en-short|Coldstream Guards}}/Coldstream Regiment of Foot Guards)は、[[イングランド]]の[[連隊]]。[[清教徒革命|ピューリタン革命]]時代の1650年に[[イングランド共和国]]の[[歩兵連隊]]として発足し、[[イングランド内戦]]では[[陸軍]]、第一次[[英蘭戦争]]では[[海軍]]の部隊として戦い、[[王制復古]]後[[イングランド王国]]の[[近衛兵 (イギリス)|近衛]]歩兵連隊となった。そして、現在でも[[イギリス陸軍]]の[[歩兵]]部隊として海外に派遣され、或は[[近衛兵 (イギリス)|近衛兵]]として[[ロンドン]]での衛兵や儀仗任務を行なっており、継続して任務に就いている連隊としては世界最古である<ref>[[#打木|打木]] p 4</ref><ref>連隊公式サイト</ref><ref>[[#W​​​o​​​r​​​l​​​d​​​ ​​​M​​​o​​​o​​​k 892号|W​​​o​​​r​​​l​​​d​​​ ​​​M​​​o​​​o​​​k 892号]] p 273</ref>。
'''コールドストリームガーズ'''({{lang-en-short|Coldstream Guards/Coldstream Regiment of Foot Guards}})は、[[イングランド]]の[[連隊]]。[[清教徒革命|ピューリタン革命]]時代の[[1650年]]に[[イングランド共和国]]の[[歩兵連隊]]として発足し、[[イングランド内戦]]では[[陸軍]]、第一次[[英蘭戦争]]では[[海軍]]の部隊として戦い、[[王制復古]]後[[イングランド王国]]の[[近衛兵 (イギリス)|近衛]]歩兵連隊となった。そして、現在でも[[イギリス陸軍]]の[[歩兵]]部隊として海外に派遣され、或は[[近衛兵 (イギリス)|近衛兵]]として[[ロンドン]]での衛兵や儀仗任務を行なっており、継続して任務に就いている連隊としては世界最古である<ref name="P4">{{Harvnb|?(著)|1978|p=4}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/23988.aspx |title=「連隊公式サイト」|language=英語 |accessdate=2012-09-17}}</ref><ref>{{Harvnb|?(著)|2012|p=273}} </ref>。

==表記==
日本では'''”コールドストリーム連隊”'''<ref>{{Harvnb|石井理恵子, 横山明美|2009}} </ref>、'''”コールドストリームガーズ連隊”'''<ref>{{Harvnb|ジョン・マクドナルド|1986}}</ref>、'''”コールドストリーム近衛連隊”'''<ref>{{Harvnb|?(著)|1978}}</ref>、{{要出典範囲|'''”コールドストリーム近衛歩兵連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム歩兵連隊'''”等の表記|date=2012年9月}}<!--どの本に?-->が見られる。また、[[イギリス]]では18世紀から19世紀にかけて連隊を番号で呼んでおり、その頃は'''''{{lang|en|2nd Regiment of Foot Guards}}'''''とも呼ばれていた。このことから、その時代の記述ばかりでなく、'''”近衛歩兵第2連隊”'''或は'''”第2近衛歩兵連隊”'''等と表記されることもあり<ref>{{Harvnb| 護 |1994}} </ref>、このような資料の作戦地図にある[[軍隊符号]]で'''{{lang|en|"2G"}}'''と表記されている歩兵連隊もコールドストリームガーズのことを指す。一方、英語の記述ではこの時代でも{{lang|en|"2nd"}}ではなく、当時あった3個の近衛歩兵連隊が{{lang|en|"1st, Coldstream, 3rd Foot Guards"}}と表記されることも珍しくない<ref><!--ページ番号無記名-->{{Harvnb|Fletcher, Ian|1994|p=?}}</ref><ref>{{Harvnb|May, Robin|1998|p=7}}</ref><ref>David Morier画『''Grenadiers, 1st and 3rd Regs. of Foot Guards and Coldstream Guards''』(1751-60 画布・油彩 40.7 x 51cm)<br />[http://www.royalcollection.org.uk/egallery/object.asp?category=276&object=405597&row=1179 英国ロイヤルコレクション]{{リンク切れ|date=2012年9月}}</ref>。


日本では'''”コールドストリーム連隊”'''<ref>[[#石井横山|石井・横山]]</ref>、'''”コールドストリームガーズ連隊”'''<ref>[[#マクドナルド|松村訳]]</ref>、'''”コールドストリーム近衛連隊”'''<ref>[[#打木|打木]]</ref>、'''”コールドストリーム近衛歩兵連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム歩兵連隊'''”等の表記が見られる。また、[[イギリス]]では18世紀から19世紀にかけて連隊を番号で呼んでおり、その頃は'''''2nd Regiment of Foot Guards'''''とも呼ばれていた。このことから、その時代の記述ばかりでなく、'''”近衛歩兵第2連隊”'''或は'''”第2近衛歩兵連隊”'''等と表記されることもあり<ref>[[#森|森]]</ref>、このような資料の作戦地図にある[[軍隊符号]]で'''”2G”'''と表記されている歩兵連隊もコールドストリームガーズのことを指す。一方、英語の記述ではこの時代でも”2nd”ではなく、当時あった3個の近衛歩兵連隊が”1st, Coldstream, 3rd Foot Guards”と表記されることも珍しくない<ref>[[#Ian|Ian]]</ref><ref>[[#May|May]] p 7</ref><ref>'''David Morier'''画『'''''Grenadiers, 1st and 3rd Regs. of Foot Guards and Coldstream Guards'''''』(1751-60 画布・油彩 40.7 x 51cm)[http://www.royalcollection.org.uk/egallery/object.asp?category=276&object=405597&row=1179 英国ロイヤルコレクション]</ref>。
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{{-}}
== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[Image:George_Monck_1st_Duke_of_Albemarle_Studio_of_Lely.jpg|thumb|right|200px|コールドストリームガーズ連隊の創立者ジョージ・モンク。]]
[[Image:George_Monck_1st_Duke_of_Albemarle_Studio_of_Lely.jpg|thumb|right|200px|コールドストリームガーズ連隊の創立者ジョージ・モンク。]]
[[イギリス陸軍]]で最初の常備軍である、[[オリバー・クロムウェル]]が組織したニューモデル・アーミー([[:en:New Model Army|New Model Army]])の連隊として、1650年4月23日に[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・モンク]]<ref>[[#W​​​o​​​r​​​l​​​d​​​ ​​​M​​​o​​​o​​​k 892号|W​​​o​​​r​​​l​​​d​​​ ​​​M​​​o​​​o​​​k 892号]]</ref>([[:en:George Monck, 1st Duke of Albemarle|George Monck]])が[[ベリック・アポン・ツイード|バーウィック]]で設立した。当時の名前は'''モンクの歩兵連隊(Monck's Regiment of Foote)'''であった。”モンクの歩兵連隊”<ref>[[#打木|打木]]</ref>は、1647年にアーサー・ヘジルリッジ卿([[:en:Arthur Haselrig|Arthur Hazelrigg]])が[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]で創立した連隊からの5個中隊と、バーウィックで創設されたジョージ・フェンウィック大佐([[:en:George Fenwick|George Fenwick]])の連隊からの5個中隊を合わせて編成された。
[[イギリス陸軍]]で最初の常備軍である、[[オリバー・クロムウェル]]が組織したニューモデル・アーミー([[:en:New Model Army|New Model Army]])の連隊として、[[1650年]][[4月23日]]に[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・モンク]]<ref>{{Harvnb|?(著)|2012|p=?}} </ref><ref group="注">([[:en:George Monck, 1st Duke of Albemarle|George Monck]])</ref>(マンク)が[[ベリック・アポン・ツイード|バーウィック]]で設立した。当時の名前は'''モンクの歩兵連隊'''({{lang|en|Monck's Regiment of Foote}})であった。”モンクの歩兵連隊”<ref><!--ページ番号無記名-->{{Harvnb|?(著)|1978|p=?}}</ref>は、[[1647年]]にアーサー・ヘジルリッジ卿<ref group="注">([[:en:Arthur Haselrig|Arthur Hazelrigg]])</ref>が[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]で創立した連隊からの5個中隊と、バーウィックで創設されたジョージ・フェンウィック大佐<ref group="注">([[:en:George Fenwick|George Fenwick]])</ref>の連隊からの5個中隊を合わせて編成された。


ジョージ・モンクは[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]時代に失脚し、ピューリタン革命時には議会派に属していた軍人であり、「[[イングランド内戦]]に於ける最も優れた軍人の一人<ref>[[#Young|Young]] p 10</ref>」とも評されている。
ジョージ・モンクは[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]時代に失脚し、ピューリタン革命時には議会派に属していた軍人であり、「[[イングランド内戦]]に於ける最も優れた軍人の一人<ref>{{Harvnb|Peter Young|1973|p=10}}</ref>」とも評されている。


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File:Oliver Cromwell by Robert Walker.jpg|オリバー・クロムウェル
image:Oliver Cromwell by Robert Walker.jpg|オリバー・クロムウェル
File:SirArthurHaselrig.jpg|アーサー・ヘジルリッジ
image:SirArthurHaselrig.jpg|アーサー・ヘジルリッジ
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=== イングランド共和国 ===
=== イングランド共和国 ===
[[image:Cromwell at Dunbar Andrew Carrick Gow.jpg|thumb|right|300px|ダンバーの戦い。]]
[[image:Cromwell at Dunbar Andrew Carrick Gow.jpg|thumb|right|280px|ダンバーの戦い。]]
”モンクの歩兵連隊”は、1650年9月3日のダンバーの戦い([[:en:Battle of Dunbar (1650)|Battle of Dunbar]])に議会派として参加し、初陣を飾った。この戦いに議会派が勝利したことによって、[[スコットランド]]は議会派に制圧された。この戦いには[[スコッツガーズ]]の前身である[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](当時は[[スコットランド王]])の護衛歩兵隊(Lyfe Guard of Foot)が王党派として加わっていたが、更に翌1651年の[[ウスター]]の戦い”([[:en:Battle of Worcester|Battle of Worcester]])にも敗れたため、チャールズ2世は大陸へ亡命し、護衛隊は解散させられた。そのため、[[スコッツガーズ]]は1642年創立とされているが、再建される1661年まで廃止状態だったため、”最古の連隊”とは認められていない。<ref>[http://www.scotsguards.co.uk/history.htm 英政府サイト・スコッツガーズの歴史]</ref>
”モンクの歩兵連隊”は、[[1650年]][[9月3日]]のダンバーの戦い<ref group="注">([[:en:Battle of Dunbar (1650)|Battle of Dunbar]])</ref>に議会派として参加し、初陣を飾った。この戦いに議会派が勝利したことによって、[[スコットランド]]は議会派に制圧された。この戦いには[[スコッツガーズ]]の前身である[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](当時は[[スコットランド王]])の護衛歩兵隊({{lang|en|Lyfe Guard of Foot}})が王党派として加わっていたが、更に翌[[1651年]]の[[ウスター]]の戦い<ref group="注">([[:en:Battle of Worcester|Battle of Worcester]])</ref>にも敗れたため、チャールズ2世は大陸へ亡命し、護衛隊は解散させられた。そのため、[[スコッツガーズ]]は1642年創立とされているが、再建される1661年まで廃止状態だったため、”最古の連隊”とは認められていない。<ref>{{Cite web |url=http://www.scotsguards.co.uk/history.htm |title=「英政府サイト・スコッツガーズの歴史」|language=英語 |accessdate=2012-09-17}}</ref>


1652年に第一次[[英蘭戦争]]が始まるとモンク大佐はジェネラル・アット・シー”(General at Sea){{#tag:ref|革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた<ref>[[#小林|小林]] p 172-173</ref>。|group=注}}に任命され、戦隊を率いてオランダ艦隊と戦うことになった。そして、ポートランド沖海戦([[:en:Battle of Portland|Battle of Portland]])で先任のジェネラル・アット・シーであった[[ロバート・ブレイク]]が負傷した後は、イングランド共和国艦隊の総司令官としてガッバードの海戦([[:en:Battle of the Gabbard|Battle of the Gabbard]])及びスヘフェニンゲンの海戦([[:en:Battle of Scheveningen|Battle of Scheveningen]])の指揮を執った<ref>[[#小林|小林]] p 174-191</ref>。この間、”モンクの歩兵連隊”はモンク将軍に従って艦隊に乗組み、一連の海戦を戦った<ref>[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]リンク切れ</ref><ref>連隊公式サイト連隊史</ref>。
[[1652年]]に第一次[[英蘭戦争]]が始まるとモンク大佐は「{{ルビ|ジェネラル・アット・シー|{{lang|en|General at Sea}}}}」{{#tag:ref|革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた<ref>{{Harvnb| 小林幸雄 |2007|p=172-173}} </ref>。|group=注}}に任命され、戦隊を率いてオランダ艦隊と戦うことになった。そして、ポートランド沖海戦<ref group="注">([[:en:Battle of Portland|Battle of Portland]])</ref>で先任のジェネラル・アット・シーであった[[ロバート・ブレイク]]が負傷した後は、イングランド共和国艦隊の総司令官としてガッバードの海戦<ref group="注">([[:en:Battle of the Gabbard|Battle of the Gabbard]])</ref>及びスヘフェニンゲンの海戦<ref group="注">([[:en:Battle of Scheveningen|Battle of Scheveningen]])</ref>の指揮を執った<ref>{{Harvnb| 小林幸雄 |2007|p=174-191}}</ref>。この間、”モンクの歩兵連隊”はモンク将軍に従って艦隊に乗組み、一連の海戦を戦った<ref name="dead">[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]{{リンク切れ|date=2012年9月}}</ref><ref name="rm">{{Cite web |url=http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/24362.aspx |title=「連隊公式サイト連隊史」|language=英語 |accessdate=2012-09-17}}</ref>。


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File:Robert Blake.jpg|ロバート・ブレイク
image:Robert Blake.jpg|ロバート・ブレイク
File:Witmont, Battle of the Gabbard.jpg|ガッバードの海戦
image:Witmont, Battle of the Gabbard.jpg|ガッバードの海戦
File:Beerstraaten, Battle of Scheveningen.jpg|スヘフェニンゲンの海戦
image:Beerstraaten, Battle of Scheveningen.jpg|スヘフェニンゲンの海戦
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=== イングランド王国 ===
=== イングランド王国 ===
[[File:MerryMonarch.png|thumb|right|200px|チャールズ2世]]
[[image:MerryMonarch.png|thumb|right|200px|チャールズ2世]]
[[ファイル:Band Trooping the Colour, 16th June 2007.jpg|thumb|right|200px|2007年のトゥルーピング・ザ・カラーで行進する近衛歩兵連隊軍楽隊。グレナディアガーズ軍楽隊が手前(擲弾の襟章)なのに対し、コールドストリームガーズは一番奥(帽子に赤い羽根飾り)に位置している。]]
[[image:Band Trooping the Colour, 16th June 2007.jpg|thumb|right|200px|2007年のトゥルーピング・ザ・カラーで行進する近衛歩兵連隊軍楽隊。グレナディアガーズ軍楽隊が手前(擲弾の襟章)なのに対し、コールドストリームガーズは一番奥(帽子に赤い羽根飾り)に位置している。]]
1660年、[[王政復古]]の宣言がされるとモンク将軍は王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーである[[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]([[:en:Edward Montagu, 1st Earl of Sandwich|Edward Montagu]]後に初代[[サンドウィッチ伯爵]])に対し、艦隊を率いて国王を亡命先の[[オランダ]]へ迎えに行くよう指示した。エドワード・モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、ロンドンに残していた執事(当時)の[[サミュエル・ピープス]]{{#tag:ref|後にネービー・ボード([[:en:Navy Board|Navy Board]])長官や[[海軍本部]]書記官([[:en:Secretary to the Admiralty|Secretary to the Admiralty]])と言った公職を歴任し、「イギリス海軍の父」とも呼ばれている。ネービー・ボード長官になっても執事としての仕事を続けており、彼の日記には「役所の帰りにモンタギュー家の経理を処理した」と言った記述が見られる<ref>[[#臼田|臼田]]</ref>|group=注}}を通じて議会の動向を把握しており、モンクに従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダへ向かった<ref>[[#小林|小林]] p 192-194</ref>。
[[1660年]]、[[王政復古]]の宣言がされるとモンク将軍は王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーである[[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]<ref group="注">([[:en:Edward Montagu, 1st Earl of Sandwich|Edward Montagu]]</ref>(後に初代[[サンドウィッチ伯爵]])に対し、艦隊を率いて国王を亡命先の[[オランダ]]へ迎えに行くよう指示した。エドワード・モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、ロンドンに残していた執事(当時)の[[サミュエル・ピープス]]{{#tag:ref|後にネービー・ボード([[:en:Navy Board|Navy Board]])長官や[[海軍本部]]書記官([[:en:Secretary to the Admiralty|Secretary to the Admiralty]])と言った公職を歴任し、「イギリス海軍の父」とも呼ばれている。ネービー・ボード長官になっても執事としての仕事を続けており、彼の日記には「役所の帰りにモンタギュー家の経理を処理した」と言った記述が見られる<ref>{{Harvnb|サミュエル・ピープス|1987|p=?}}</ref>|group=注}}を通じて議会の動向を把握しており、モンクに従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダへ向かった<ref>{{Harvnb| 小林幸雄 |2007|p=192-194}}</ref>。

”モンクの歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム<ref group="注">([[:en:Coldstream|Coldstream]])</ref>に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世と合流し、ロンドン入城に同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者を優先採用している。また、現部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である<ref name="P58">{{Harvnb| David Griffin |1985|p=58}}</ref>。


この年、”モンクの騎馬護衛隊”({{lang|en|Monck's Life Guards}})が第2(クィーンズ)近衛騎兵隊({{lang|en|2nd(Queen's) Troop of Horse Guards}})となった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されて[[ライフガーズ]]連隊となる。翌1661年、”モンクの歩兵連隊”も近衛連隊となり、'''”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”'''({{lang|en|The Lord General's Regiment of Foot Guards}})となった。また、[[1664年]]には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務に転じ、'''”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”'''({{lang|en|Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot}})が編成された<ref>[[#Fowler|Fowler]] p 3</ref>。この連隊はイギリスで初めての艦上勤務を専門とする歩兵部隊であり、[[イギリス海兵隊]]の母体となった<ref name="dead" /><ref name="rm" />。
”モンクの歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム([[:en:Coldstream|Coldstream]])に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世と合流し、ロンドン入城に同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者を優先採用している。また、現部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である<ref>[[#Griffin|Griffin]] p 58</ref>。


近衛歩兵連隊としては既に、チャールズ2世がウスターの戦い後の[[1656年]]に[[ブルッヘ]]で創設した”ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊”({{lang|en|[[:en:Lord Wentworth's Regiment|Lord Wentworth's Foot Guards]]/Royal Regiment of Guards}})と1660創立のジョン・ラッセル近衛歩兵連隊({{lang|en|[[:en:John Russell's Regiment of Guards|John Russell's Foot Guards]]}})があり、両連隊が[[1665年]]に統合されて”近衛歩兵第1連隊”({{lang|en|1st Regiment of Foot Guards}})(後の[[グレナディアガーズ]])とされた<ref>{{Harvnb| David Griffin |1985|p=57}}</ref><ref>{{Harvnb| W Y Carman |1985|p=15-17}}</ref><ref name="rm" />。しかし、これらの連隊より古い”コールドストリーム連隊”の兵士は、その下位に位置付けられることを認めることが出来なかった。チャールズ2世が”近衛第2連隊”と呼んだところ、”第2”とされることを兵士達が拒否して命令に従わなかったため、モンク将軍の進言に従って”コールドストリーム近衛連隊”と呼んだところ命令に従ったという逸話もある<ref name="P4" />。
この年、”モンクの騎馬護衛隊”(Monck's Life Guards)が第2(クィーンズ)近衛騎兵隊(2nd(Queen's) Troop of Horse Guards)となった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されて[[ライフガーズ]]連隊となる。翌1661年、”モンクの歩兵連隊”も近衛連隊となり、'''”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”'''(The Lord General's Regiment of Foot Guards)となった。また、1664年には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務に転じ、'''”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”'''(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が編成された<ref>[[#Fowler|Fowler]] p 3</ref>。この連隊はイギリスで初めての艦上勤務を専門とする歩兵部隊であり、[[イギリス海兵隊]]の母体となった<ref>[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト](リンク切れ)</ref><ref>連隊公式サイト連隊史</ref>。


モンク将軍が死去した[[1670年]]、'''”近衛歩兵第2連隊”'''({{lang|en|2nd Regiment of Foot Guards}})となったが、”第2”とされる抵抗感から、通称であった'''”コールドストリーム近衛歩兵連隊”'''({{lang|en|Coldstream Regiment of Foot Guards}})が公式に使われるようになった<ref>{{Harvnb| David Griffin |1985|p=59-60}}</ref>。そして、この様な経緯から、'''{{lang|en|"Nulli Secundus"}}'''(何物の2番目でもない=何物にも劣る事無し)が連隊のモットーとなっている<ref name="P4" /><ref name="P58" />。
近衛歩兵連隊としては既に、チャールズ2世がウスターの戦い後の1656年に[[ブルッヘ]]で創設した”ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊”([[:en:Lord Wentworth's Regiment|Lord Wentworth's Foot Guards]]/Royal Regiment of Guards)と1660創立のジョン・ラッセル近衛歩兵連隊([[:en:John Russell's Regiment of Guards|John Russell's Foot Guards]])があり、両連隊が1665年に統合されて”近衛歩兵第1連隊”(1st Regiment of Foot Guards)(後の[[グレナディアガーズ]])とされた<ref>[[#Griffin|Griffin]] p 57</ref><ref>[[#Carman|Carman]] p 15-17</ref><ref>連隊公式サイト連隊史</ref>。しかし、これらの連隊より古い”コールドストリーム連隊”の兵士は、その下位に位置付けられることを認めることが出来なかった。チャールズ2世が”近衛第2連隊”と呼んだところ、”第2”とされることを兵士達が拒否して命令に従わなかったため、モンク将軍の進言に従って”コールドストリーム近衛連隊”と呼んだところ命令に従ったという逸話もある<ref>[[#打木|打木]] p 4</ref>。


モンク将軍が死去した1670年、'''”近衛歩兵第2連隊”'''(2nd Regiment of Foot Guards)となったが、”第2”とされる抵抗感から、通称であった'''”コールドストリーム近衛歩兵連隊”'''(Coldstream Regiment of Foot Guards)が公式に使われるようになった<ref>[[#Griffin|Griffin]] p 59-60</ref>。そして、この様な経緯から、'''''”Nulli Secundus”'''''(何物の2番目でもない=何物にも劣る事無し)が連隊のモットーとなっている<ref>[[#打木|打木]] p 4</ref><ref>[[#Griffin|Griffin]] p 58</ref>。また、現在でもグレナディアガーズへの対抗意識は強く、[[イギリス陸軍]]に於ける連隊序列はグレナディアガーズの次だが、近衛歩兵連隊が整列する際はグレナディアガーズの隣には並ばず、反対側の端に位置する<ref>[[#石井横山|石井・横山]] p 32</ref>。
また、現在でもグレナディアガーズへの対抗意識は強く、[[イギリス陸軍]]に於ける連隊序列はグレナディアガーズの次だが、近衛歩兵連隊が整列する際はグレナディアガーズの隣には並ばず、反対側の端に位置する<ref>{{Harvnb|石井理恵子, 横山明美|2009|p=32}} </ref>。


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File:The arrival of King Charles II of England in Rotterdam, may 24 1660 (Lieve Pietersz. Verschuier, 1665).jpg|イングランド王位に就くために[[ロッテルダム]]を出港するチャールズ2世の艦隊。
image:The arrival of King Charles II of England in Rotterdam, may 24 1660 (Lieve Pietersz. Verschuier, 1665).jpg|イングランド王位に就くために[[ロッテルダム]]を出港するチャールズ2世の艦隊。
File:Edward Montagu.jpeg|初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー。
image:Edward Montagu.jpeg|初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー。
ファイル:Samuel Pepys.jpg|サミュエル・ピープス
image:Samuel Pepys.jpg|サミュエル・ピープス
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=== イギリス陸軍 ===
=== イギリス陸軍 ===
[[File:Hougoumont Codstream.jpg|thumb|right|180px|ウーグモン館の壁にはめ込まれたコールドストリームガーズの記念碑。連隊の記章であるガーター勲章の星が彫られている。]]
[[image:Hougoumont Codstream.jpg|thumb|right|180px|ウーグモン館の壁にはめ込まれたコールドストリームガーズの記念碑。連隊の記章であるガーター勲章の星が彫られている。]]
[[File:Battle of Waterloo.svg|thumb|right|200px|ワーテルローの戦いの両軍配置図。手前の青がフランス軍で赤がイギリス・オランダ連合軍、黒がプロイセン軍。左下の突出した部分がウーグモン館。フランス軍左翼のレイユ軍団が抑えられている。]]
[[image:Battle of Waterloo.svg|thumb|right|200px|ワーテルローの戦いの両軍配置図。手前の青がフランス軍で赤がイギリス・オランダ連合軍、黒がプロイセン軍。左下の突出した部分がウーグモン館。フランス軍左翼のレイユ軍団が抑えられている。]]


コールドストリーム近衛歩兵連隊は、王政復古後のイギリス陸軍にとって初めての海外遠征である、1680年の[[タンジェ|タンジール]]以降殆どの戦役に参加しており、最も多くのバトル・オナーズ(Battle Honours)を持っている<ref>[[#Dunstan|Dunstan]] p 29</ref>。
コールドストリーム近衛歩兵連隊は、王政復古後のイギリス陸軍にとって初めての海外遠征である、[[1680年]]の[[タンジェ|タンジール]]以降殆どの戦役に参加しており、最も多くのバトル・オナーズ<ref group="注">([[:en:Battle honour|Battle Honours]])</ref>を持っている<ref>{{Harvnb|Simon Dunstan|1996|p=29}}</ref>。


1680年代には[[ガーター勲章]]の星章が連隊の記章として制定された。
1680年代には[[ガーター勲章]]の星章が連隊の記章として制定された。


[[ワーテルローの戦い]]に於いては、コールドストリームガーズはウーグモン館([[:en:Hougoumont|Château d'Hougoumont]])攻防戦での勇戦が知られている。ウーグモン館はイギリス軍右翼に位置する城館で、中央の・エイ・サント([[:en:La Haye Sainte|La Haye Sainte]])及び左翼のパプロットにある農家と共に防衛拠点とされていた。緒戦でパプロットは陥落し、・エイ・サントは両軍が衝突する中心となり最後には陥落した。一方、ウーグモン館は[[ナポレオン]]の最初の攻撃目標となり、開戦と同時に攻撃に晒され、[[フランス]]軍の前進により敵中に孤立した。コールドストリームガーズのジェームス・マクダネル中佐([[:en:James Macdonnell|James Macdonnell]])が指揮する、コールドストリームガーズやスコッツガーズ{{#tag:ref|当時の名称は”近衛歩兵第3連隊”(3rd Regiment of Foot Guards)|group=注}}等から分遣された軽歩兵中隊から成る4個中隊規模のイギリス軍守備隊は、オノレ・シャルル・レイユ([[:fr:Honoré Charles Reille|Honoré Charles Reille]])が指揮するフランス1個軍団の攻撃を受けたにもかかわらず、戦いが終わるまでこの防御の要である城館を守り通した。フランス軍はウーグモン館が陥落しないことにより左翼の自由を奪われ、攻略のために1個軍団が終始釘付けにされた<ref>[[#マクドナルド|マクドナルド]] p70-81</ref>。
[[ワーテルローの戦い]]に於いては、コールドストリームガーズはウーグモン館<ref group="注">([[:en:Hougoumont|Château d'Hougoumont]])</ref>攻防戦での勇戦が知られている。ウーグモン館はイギリス軍右翼に位置する城館で、中央の・エイ・サント<ref group="注">([[:en:La Haye Sainte|La Haye Sainte]])</ref>及び左翼のパプロットにある農家と共に防衛拠点とされていた。緒戦でパプロットは陥落し、・エイ・サントは両軍が衝突する中心となり最後には陥落した。一方、ウーグモン館は[[ナポレオン]]の最初の攻撃目標となり、開戦と同時に攻撃に晒され、[[フランス]]軍の前進により敵中に孤立した。コールドストリームガーズのジェームス・マクダネル中佐<ref group="注">([[:en:James Macdonnell|James Macdonnell]])</ref>が指揮する、コールドストリームガーズやスコッツガーズ<ref group="注">当時の名称は”近衛歩兵第3連隊”({{lang|en|3rd Regiment of Foot Guards}})</ref>等から分遣された軽歩兵中隊から成る4個中隊規模のイギリス軍守備隊は、オノレ・シャルル・レイユ将軍<ref group="注">([[:fr:Honoré Charles Reille|Honoré Charles Reille]])</ref>が指揮するフランス1個軍団の攻撃を受けたにもかかわらず、戦いが終わるまでこの防御の要である城館を守り通した。フランス軍はウーグモン館が陥落しないことにより左翼の自由を奪われ、攻略のために1個軍団が終始釘付けにされた<ref>{{Harvnb|ジョン・マクドナルド|1986|p=70-81}}</ref>。


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File:Omwalling1 hougoumont.jpg|ウーグモン館の外壁。
image:Omwalling1 hougoumont.jpg|ウーグモン館の外壁。
File:800px-North gate Hougoumont.jpg|ウーグモン館北門。補給のために開けられていたため、少数の敵の侵入を許したが、守備隊は後続を押し戻し、入り込んだ敵兵を皆殺しにした。
image:800px-North gate Hougoumont.jpg|ウーグモン館北門。補給のために開けられていたため、少数の敵の侵入を許したが、守備隊は後続を押し戻し、入り込んだ敵兵を皆殺しにした。
File:Zuidpoort hougoumont.jpg|コールドストリームガーズ連隊第2大隊軽歩兵中隊が守っていた、敵正面にあたる敷地の南側に面した館の門。
image:Zuidpoort hougoumont.jpg|コールドストリームガーズ連隊第2大隊軽歩兵中隊が守っていた、敵正面にあたる敷地の南側に面した館の門。
File:Braine-l'Alleud CF1aJPG.jpg|横から見た館の南側。2つの窓の間にコールドストリームガーズの記念碑が埋め込まれている。
image:Braine-l'Alleud CF1aJPG.jpg|横から見た館の南側。2つの窓の間にコールドストリームガーズの記念碑が埋め込まれている。
File:Général Honoré Charles Michel Joseph Reille.jpg|オノレ・シャルル・レイユ
image:Général Honoré Charles Michel Joseph Reille.jpg|オノレ・シャルル・レイユ将軍(第Ⅲ軍団長)
File:La Haye Sainte.jpg|もう一つの重要な防御拠点となった・エイ・サントの農家。
image:La Haye Sainte.jpg|もう一つの重要な防御拠点となった・エイ・サントの農家。
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[[Image:AlmaRiver.jpg|thumb|right|200px|[[クリミア戦争]]の緒戦アルマ川の戦い([[:en:Battle of Alma|Battle of Alma]])で突撃するコールドストリームガーズ連隊。]]
[[Image:AlmaRiver.jpg|thumb|right|200px|[[クリミア戦争]]の緒戦アルマ川の戦い([[:en:Battle of Alma|Battle of Alma]])で突撃するコールドストリームガーズ連隊。]]
ナポレオン戦争後の1817年、'''”コールドストリームガーズ”'''が正式名称となった。
ナポレオン戦争後の[[1817年]]、'''”コールドストリームガーズ”'''が正式名称となった。


1831年には”フュージリア”の称号を受け、連隊の全将兵{{#tag:ref|イギリス陸軍に擲弾兵の連隊はなく、各連隊に擲弾兵中隊が設けられていた。そして、[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊|フュージリア連隊]]や先に許されていたグレナディアガーズ以外の連隊では、擲弾兵中隊の将兵だけが擲弾兵帽を着用した<ref>[[#Carman|Carman]]</ref><ref>[[#Barthorp|Barthorp]]</ref>。|group=注}}に[[擲弾兵]]帽の着用が許された{{#tag:ref|フュージリアの称号や擲弾兵との関係については[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊#フュージリア]]を参照。|group=注}}。そして、その帽子の右側に赤の羽根飾りが付けられるようになった<ref>[[#Carman|Carman]] p 17-24</ref>。
[[1831年]]には”フュージリア”の称号を受け、連隊の全将兵{{#tag:ref|イギリス陸軍に擲弾兵の連隊はなく、各連隊に擲弾兵中隊が設けられていた。そして、[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊|フュージリア連隊]]や先に許されていたグレナディアガーズ以外の連隊では、擲弾兵中隊の将兵だけが擲弾兵帽を着用した<ref>{{Harvnb|W Y Carman|Richard Simkin|1985|p=?}}</ref><ref>{{Harvnb|Michael Barthorp|1982|p=?}}</ref>。|group=注}}に[[擲弾兵]]帽の着用が許された{{#tag:ref|フュージリアの称号や擲弾兵との関係については[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊#フュージリア]]を参照。|group=注}}。そして、その帽子の右側に赤の羽根飾りが付けられるようになった<ref>{{Harvnb|W Y Carman|Richard Simkin|1985|p=17-24}}</ref>。


1850年代に行なわれた陸軍の服装改訂により、歩兵の制服の上着は赤い1列ボタンの[[チュニック]]になった。それまで他の連隊の制服もボタンの配置が2個ずつの組になっていることがあったが、この改正以降上着のボタンが2個ずつ4組で計8個の制服はコールドストリームガーズを示す特徴となった<ref>[[#Carman|Carman]]</ref><ref>[[#Barthorp|Barthorp]]</ref>。
1850年代に行なわれた陸軍の服装改訂により、歩兵の制服の上着は赤い1列ボタンの[[チュニック]]になった。それまで他の連隊の制服もボタンの配置が2個ずつの組になっていることがあったが、この改正以降上着のボタンが2個ずつ4組で計8個の制服はコールドストリームガーズを示す特徴となった<!--上記と同じ出典ならばname属性をつけて同一に--><ref>{{Harvnb|W Y Carman|Richard Simkin|1985|p=?}}</ref><ref>{{Harvnb|Michael Barthorp|1982|p=?}}</ref>。


1856年に[[ヴィクトリア十字章]]が、そして1940年に[[ジョージ・クロス]]が制定されて以来、コールドストリームガーズ連隊からは13名のヴィクトリア十字章受章者と1名のジョージ・クロス受章者が出ている。ヴィクトリア十字章が制定された[[クリミア戦争]]では、インカーマンの戦い([[:en:Battle of Inkerman|Battle of Inkerman]])と[[セヴァストポリの戦い (クリミア戦争)|セヴァストポリの戦い]]で各2名の計4名が受章した。そして、[[第1次世界大戦]]では7名がヴィクトリア十字章を受章し、[[第2次世界大戦]]では2名がヴィクトリア十字章、1名がジョージ・クロスを受章した<ref>連隊公式サイト・連隊史</ref>。
[[1856年]]に[[ヴィクトリア十字章]]が、そして1940年に[[ジョージ・クロス]]が制定されて以来、コールドストリームガーズ連隊からは13名のヴィクトリア十字章受章者と1名のジョージ・クロス受章者が出ている。ヴィクトリア十字章が制定された[[クリミア戦争]]では、インカーマンの戦い<ref group="注">([[:en:Battle of Inkerman|Battle of Inkerman]])</ref>と[[セヴァストポリの戦い (クリミア戦争)|セヴァストポリの戦い]]で各2名の計4名が受章した。そして、[[第1次世界大戦]]では7名がヴィクトリア十字章を受章し、[[第2次世界大戦]]では2名がヴィクトリア十字章、1名がジョージ・クロスを受章した<ref name="rm" />。


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File:Inkermann.jpg|インカーマンの戦い
image:Inkermann.jpg|インカーマンの戦い
File:Thomas Whitham VC IWM Q 80662.jpg|第1次世界大戦でのヴィクトリア十字章受章者トーマス・ホイットハム([[:en:Thomas Whitham|Thomas Whitham]])陸士(Private)
image:Thomas Whitham VC IWM Q 80662.jpg|第1次世界大戦でのヴィクトリア十字章受章者トーマス・ホイットハム([[:en:Thomas Whitham|Thomas Whitham]])陸士({{lang|en|Private}})
File:VCJohnVaughanCampbell.jpg|第1次世界大戦でのヴィクトリア十字章受章者ジョン・ヴォーン・キャンベル([[:en:John Vaughan Campbell|John Vaughan Campbell]])[[中佐]]。
image:VCJohnVaughanCampbell.jpg|第1次世界大戦でのヴィクトリア十字章受章者ジョン・ヴォーン・キャンベル([[:en:John Vaughan Campbell|John Vaughan Campbell]])[[中佐]]。
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== 編成 ==
== 編成 ==
[[File:Coldstream Guards WWI poster.jpg|thumb|right|200px|増員のために作られた第1次世界大戦中の募兵ポスター。]]
[[image:Coldstream Guards WWI poster.jpg|thumb|right|200px|増員のために作られた第1次世界大戦中の募兵ポスター。]]
[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]リンク切れ及び[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/23988.aspx 連隊公式サイト]より。
[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]{{リンク切れ|date=2012年9月}}及び[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/23988.aspx 連隊公式サイト]より。


1682年から1993年までコールドストリームガーズは2個の大隊が基本とされ、1897年から1959年までは第3大隊が増設されていた。また、[[第1次世界大戦]]中は第4大隊、[[第2次世界大戦]]では第4大隊に加えて第5及び第6大隊が増設された。1993年に第2大隊は活動休止とされ、大隊の連隊旗は第7中隊に引き継がれた。
[[1682年]]から[[1993年]]までコールドストリームガーズは2個の大隊が基本とされ、[[1897年]]から[[1959年]]までは第3大隊が増設されていた。また、[[第1次世界大戦]]中は第4大隊、[[第2次世界大戦]]では第4大隊に加えて第5及び第6大隊が増設された。[[1993年]]に第2大隊は活動休止とされ、大隊の連隊旗は第7中隊に引き継がれた。


イギリス陸軍の各連隊には軍楽隊が置かれていたが1994年に分離され、陸軍音楽学校を母体として編成された'''陸軍音楽軍団'''([[:en:Corps of Army Music|Corps of Army Music]])の下に編入された。そのため、現在では'''コールドストリームガーズ軍楽隊'''もコールドストリームガーズ連隊ではなく、陸軍音楽軍団の傘下にある。
イギリス陸軍の各連隊には軍楽隊が置かれていたが[[1994年]]に分離され、陸軍音楽学校を母体として編成された'''陸軍音楽軍団'''<ref group="注">([[:en:Corps of Army Music|Corps of Army Music]])</ref>の下に編入された。そのため、現在では'''コールドストリームガーズ軍楽隊'''もコールドストリームガーズ連隊ではなく、陸軍音楽軍団の傘下にある。


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File:4thColdstreamGuardsHouthulstForestBattleOfPeolcappelle.jpg|第1次世界大戦中の第4大隊。
image:4thColdstreamGuardsHouthulstForestBattleOfPeolcappelle.jpg|第1次世界大戦中の第4大隊。
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=== 連隊本部 ===
=== 連隊本部 ===
[[Image:Jonathan Bourne-May.jpg|thumb|right|200px|女王の随員([[:en:Field Officer in Brigade Waiting|Field Officer in Brigade Waiting]])を務める近衛コールドストリーム連隊の連隊長代理。]]
[[Image:Jonathan Bourne-May.jpg|thumb|right|200px|女王の随員([[:en:Field Officer in Brigade Waiting|Field Officer in Brigade Waiting]])を務める近衛コールドストリーム連隊の連隊長代理。]]
連隊本部はバッキンガム宮殿の向かいにあるウェリントン・バラックス(Wellington Barracks)にある。[[イギリス陸軍#連隊とカーネル・イン・チーフ|カーネル・イン・チーフ]]([[:en:Colonel-in-Chief|Colonel-in-Chief]])には歴代君主が就任しており、名誉職の連隊長(Colonel of the Regiment)は陸軍の将官、或いは王族が務める。そして、実務は連隊長代理(Regimental Lieutenant-Colonel)が取り仕切る。連隊長代理には[[大佐]]が充てられる。
連隊本部はバッキンガム宮殿の向かいにあるウェリントン・バラックス<ref group="注">([[:en:Wellington Barracks|Wellington Barracks]])</ref>にある。[[イギリス陸軍#連隊とカーネル・イン・チーフ|カーネル・イン・チーフ]]<ref group="注">([[:en:Colonel-in-Chief|Colonel-in-Chief]])</ref>には歴代君主が就任しており、名誉職の連隊長({{lang|en|Colonel of the Regiment}})は陸軍の将官、或いは王族が務める。そして、実務は連隊長代理({{lang|en|Regimental Lieutenant-Colonel}})が取り仕切る。連隊長代理には[[大佐]]が充てられる。
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File:ElizabethIItroopingcolour crop.jpg|カーネル・イン・チーフの[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス女王]]。スコッツガーズ連隊の制服を着ており、女王に従うエディンバラ公とチャールズ皇太子はグレナディアガーズ連隊の制服を着ている。
image:ElizabethIItroopingcolour crop.jpg|カーネル・イン・チーフの[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス女王]]。スコッツガーズ連隊の制服を着ており、女王に従うエディンバラ公とチャールズ皇太子はグレナディアガーズ連隊の制服を着ている。
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=== 第1大隊 ===
=== 第1大隊 ===
[[File:Highway of Death, abandoned Iraqi ZPU-4, British AFVs.JPEG|thumb|right|200px|湾岸戦争中のイギリス機械化歩兵部隊。]]
[[image:Highway of Death, abandoned Iraqi ZPU-4, British AFVs.JPEG|thumb|right|200px|湾岸戦争中のイギリス機械化歩兵部隊。]]
第2次世界大戦後の冷戦時代は[[ドイツ]]や[[アイルランド]]等に駐屯した。1990年代は[[ウォーリア装甲戦闘車]]等を装備した[[機械化歩兵]]として、[[湾岸戦争]]や[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]等に派遣されていた。2000年代に入ると軽歩兵編成となり、[[アフガニスタン]]等に派遣されている。
第2次世界大戦後の冷戦時代は[[ドイツ]]や[[アイルランド]]等に駐屯した。1990年代は[[ウォーリア装甲戦闘車]]等を装備した[[機械化歩兵]]として、[[湾岸戦争]]や[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]等に派遣されていた。2000年代に入ると軽歩兵編成となり、[[アフガニスタン]]等に派遣されている。


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File:MCV-80.jpg|ウォーリア装甲戦闘車
image:MCV-80.jpg|ウォーリア装甲戦闘車
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=== 第7中隊 ===
=== 第7中隊 ===
[[ファイル:Face to face.jpg|thumb|right|200px|衛兵勤務中の2人のコールドストリームガーズ連隊上級下士官。]]
[[image:Face to face.jpg|thumb|right|200px|衛兵勤務中の2人のコールドストリームガーズ連隊上級下士官。]]
第7中隊は独立中隊で、ロンドンに常駐して衛兵・儀仗任務を行なう。兵舎は2007年に150年間使用されたチェルシー・バラックス([[:en:Chelsea Barracks|Chelsea barracks]])から王立砲兵連隊のウールウィッチ・バラックス([[:en:Royal Artillery Barracks|Woolwich Barracks]])へ移転した。
第7中隊は独立中隊で、ロンドンに常駐して衛兵・儀仗任務を行なう。兵舎は2007年に150年間使用されたチェルシー・バラックス<ref group="注">([[:en:Chelsea Barracks|Chelsea barracks]])</ref>から王立砲兵連隊のウールウィッチ・バラックス<ref group="注">([[:en:Royal Artillery Barracks|Woolwich Barracks]])</ref>へ移転した。


儀式の際にイギリス陸軍の将兵が着用する正装(Full Dress)は19世紀後半からほとんど変わっていない。歩兵は赤いチュニックに濃紺のズボンで、近衛兵は袖の形が異なる。また、近衛歩兵はベアスキン帽([[:en:Bearskin|Bearskin]])を着用する。一般歩兵連隊の制服は袖の色が連隊毎に異なるが、近衛歩兵連隊は上着のボタンの配列とベアスキンに付ける羽根飾りの色が異なる。コールドストリームガーズ連隊は、上着のボタンが2個ずつ4組で計8個、帽子の羽根飾りは右側に赤となっている。
儀式の際にイギリス陸軍の将兵が着用する正装({{lang|en|Full Dress}})は19世紀後半からほとんど変わっていない。歩兵は赤いチュニックに濃紺のズボンで、近衛兵は袖の形が異なる。また、近衛歩兵はベアスキン帽<ref group="注">([[:en:Bearskin|Bearskin]])</ref>を着用する。一般歩兵連隊の制服は袖の色が連隊毎に異なるが、近衛歩兵連隊は上着のボタンの配列とベアスキンに付ける羽根飾りの色が異なる。コールドストリームガーズ連隊は、上着のボタンが2個ずつ4組で計8個、帽子の羽根飾りは右側に赤となっている。


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File:Windsor Guard Change Coldstream Guards.JPG|衛兵交代を行なうコールドストリームガーズ連隊。
image:Windsor Guard Change Coldstream Guards.JPG|衛兵交代を行なうコールドストリームガーズ連隊。
File:Jewel House guard.JPG|[[ロンドン塔]]で衛兵勤務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。
image:Jewel House guard.JPG|[[ロンドン塔]]で衛兵勤務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。
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== 注釈 ==
== 注釈 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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<references />


== 参考資料 ==
== 参考資料 ==
*{{Cite book|author=W Y Carman|author2= Richard Simkin|year=1985|title=Richard Simkin's Uniforms of the British Army : Infantry, Royal Artillery, Royal Engineers and other corps|publisher=Webb & Bower|location=Exeter, England|id=ISBN 978-0-86350-031-2|ref= harv}}
=== 書籍 ===
*{{Cite book|author=W Y Carman; Richard Simkin|year=1985|title=Richard Simkin's Uniforms of the British Army : Infantry, Royal Artillery, Royal Engineers and other corps|publisher=Webb & Bower|location=Exeter, England|id=ISBN 978-0-86350-031-2|ref=Carman}}
*{{Cite book|author=David Griffin|year=1985|title=Encyclopaedia of modern British Army regiments|publisher=P. Stephens|location=Wellingborough|id=ISBN 978-0-85059-708-0|ref= harv}}
*{{Cite book|author=David Griffin|year=1985|title=Encyclopaedia of modern British Army regiments|publisher=P. Stephens|location=Wellingborough|id=ISBN 978-0-85059-708-0|ref=Griffin}}
*{{Cite book|author=Michael Barthorp| others=Illustrated by Pierre Turner ||year=1982|title=British infantry uniforms since 1660|publisher=Distributed by Sterling Pub. Co.|location=New York, N.Y.|id=ISBN 978-1-85079-009-9|ref= harv}}
*{{Cite book|author=Michael Barthorp,New Orchard Editions by Poole, Dorset|year=1982|title=British infantry uniforms since 1660|publisher=Distributed by Sterling Pub. Co.|location=New York, N.Y.|id=ISBN 978-1-85079-009-9|ref=Barthorp}}
*{{Cite book|author=Simon Dunstan|year=1996|title=The Guards : Britain's houshold division|publisher=Windrow & Greene|location=London|id=ISBN 978-1-85915-062-7|ref= harv}}
*{{Cite book|author=Simon Dunstan|year=1996|title=The Guards : Britain's houshold division|publisher=Windrow & Greene|location=London|id=ISBN 978-1-85915-062-7|ref=Dunstan}}
*{{Cite book|author=W Skilton|year=1992|title=BRITISH MILITARY BAND UNIFORMS The Household Division|publisher=Midland Pub.|location=Leicester|id=ISBN 978-1-85780-007-4|ref=}}
*{{Cite book|author=Michael Barthorp|year=1989|title=The Old Contemptibles : the British Expeditionary Force, its creation and exploits, 1902-14|publisher=Osprey|location=London|id=ISBN 978-0-85045-898-5|ref=}}
*{{Cite book|author=Michael Barthorp|year=1989|title=The Old Contemptibles : the British Expeditionary Force, its creation and exploits, 1902-14|publisher=Osprey|location=London|id=ISBN 978-0-85045-898-5|ref=}}
*{{Cite book|author=Peter Young|year=1973|title=The English Civil War armies;|publisher=Osprey Publishing|location=London|id=ISBN 978-0-85045-119-1|ref= harv}}
*{{Cite book|和書|author=ジョン・マクドナルド|date=1986|title=戦場の歴史 : コンピュータ・マップによる戦術の研究|publisher= 河出書房新社|translator=松村赳|id=ISBN 978-4-309-22120-5|ref= harv}}
*{{Cite book|和書|author=森護|date=1994|title=英国王室史事典-Historical encyclopaedia of Royal Britain-|publisher=大修館書店|id=ISBN 4469012408 |ref= harv}}
<!--著者名無記名-->
*{{Cite book|和書|author=?(著)|translator=打木城太朗|year=1978|title=衛兵の交代|publisher=(株)アイエム|id=ISBN 978-0-7188-2334-4
|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=小林幸雄|date=2007|title=図説イングランド海軍の歴史 |publisher=原書房 |id=ISBN 978-4-562-04048-3|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=サミュエル・ピープス|date=1987年|title=サミュエル・ピープスの日記 第1巻|publisher= 国文社|translator=臼田昭|id=ISBN 978-4772001793|ref=harv}}
*{{Cite book|和書| author =石井理恵子, 横山明美|date=2009 |title=英国男子制服コレクション-British male uniform collection-|publisher=新紀元社|id=ISBN 9784775307403|ref=harv}}
*{{Cite book|author=Fletcher, Ian|others=Illustrated by Younghusband, William|year=1994|title=Wellington's Guards|publisher=Osprey|location=London|id=ISBN 978-1-85532-392-6|ref=harv}}
*{{Cite book|author=May, Robin|year=1998|title=Wolfe's Army|publisher=Osprey|location=London|id=ISBN 978-0-85045-193-1|ref=harv}}
<!--記事筆者名無記名-->
*{{Cite book|和書|author = ?(著)|chapter =イギリス近衛歩兵連隊にみるボタンと制服の関係|title = mono スペシャル Workwear 6
|date= 2012|publisher = [[ワールドフォトプレス]]|series = ​​W​​​o​​​r​​​l​​​d​​​ ​​​M​​​o​​​o​​​k 892号|isbn = 978-4-8465-2892-8|ref=harv}}
{{-}}
<!--脚注に参照されてない書籍-->
*{{Cite book|author=W Skilton|year=1992|title=BRITISH MILITARY BAND UNIFORMS The Household Division|publisher=Midland Pub.|location=Leicester|id=ISBN 978-1-85780-007-4|ref= harv}}
*{{Cite book|author=J B R Nicholson|year=1974|title=The British army of the Crimea|publisher=Osprey Publishing|location=Oxford|id=ISBN 978-0-85045-194-8|ref= harv}}
*{{Cite book|author=Mike Chappell|year=1987|title=The British Army in the 1980s|publisher=Osprey Pub.|location=London
*{{Cite book|author=Mike Chappell|year=1987|title=The British Army in the 1980s|publisher=Osprey Pub.|location=London
|id=ISBN 978-0-85045-796-4|ref=}}
|id=ISBN 978-0-85045-796-4|ref= harv}}
*{{Cite book|author=J B R Nicholson|year=1974|title=The British army of the Crimea|publisher=Osprey Publishing|location=Oxford|id=ISBN 978-0-85045-194-8|ref=}}
*{{Cite book|author=Mike Chappel|year=1980|title=British infantry equipments, 1908-80|publisher=Osprey|location=London
*{{Cite book|author=Mike Chappel|year=1980|title=British infantry equipments, 1908-80|publisher=Osprey|location=London
|id=ISBN 978-0-85045-374-4|ref=}}
|id=ISBN 978-0-85045-374-4|ref= harv}}
*{{Cite book|author=Peter Young|year=1973|title=The English Civil War armies;|publisher=Osprey Publishing|location=London|id=ISBN 978-0-85045-119-1|ref=Young}}[[#Young|Young]]
*{{Cite book|author=John Tincey|year=1994|title=The British Army, 1660-1704(Men-at-arms ; No. 267) |publisher=Osprey Publishing|location=London|id=ISBN 1-85532-381-8|ref= harv}}
*{{Cite book|author=John Tincey|year=1994|title=The British Army, 1660-1704(Men-at-arms ; No. 267) |publisher=Osprey Publishing|location=London|id=ISBN 1-85532-381-8|ref=}}
*{{Cite book|author=William Fowler; Paul Hannon|year=1984|title=The Royal Marines 1956-84|publisher=Osprey|location=London|id=ISBN 978-0-85045-568-7|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=ジョン・マクドナルド|date=1986年2月|title=戦場の歴史 : コンピュータ・マップによる戦術の研究|publisher= 河出書房新社|translator=松村赳|id=ISBN 978-4-309-22120-5|ref=マクドナルド}}
*{{Cite book|和書|author=森護|date=1994年7月|title=英国王室史事典-Historical encyclopaedia of Royal Britain-|publisher=大修館書店|id=ISBN 4469012408 |ref=}}
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*{{Cite book|author=May, Robin|year=1998|title=Wolfe's Army|publisher=Osprey|location=London|id=ISBN 978-0-85045-193-1|ref=May}}
*{{Cite book|和書|author = イギリス近衛歩兵連隊にみるボタンと制服の関係|title = mono スペシャル Workwear 6
|date = 平成24年1月5日|publisher = ワールドフォトプレス|series = ​​W​​​o​​​r​​​l​​​d​​​ ​​​M​​​o​​​o​​​k 892号|isbn = 978-4-8465-2892-8|ref=W​​​o​​​r​​​l​​​d​​​ ​​​M​​​o​​​o​​​k 892号}}

=== 外部リンク ===
* [http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/23988.aspx 連隊公式サイト]
** [http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/24362.aspx 連隊史]
* [http://www.army.mod.uk/music/corps-band/463.aspx コールドストリームガーズ軍楽隊公式サイト]
* [http://www.scotsguards.co.uk/history.htm スコッツガーズの歴史(英政府サイト)]
* [http://www.northeastmedals.co.uk/british_guards_regiment/coldstream_guards_victoria_cross.htm ヴィクトリア十字章とジョージ・クロスを受章したコールドストリームガーズ隊員。]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[グレナディアガーズ]]
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== 外部リンク ==
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* [http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/23988.aspx 連隊公式サイト]
** [http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/24362.aspx 連隊史]
* [http://www.army.mod.uk/music/corps-band/463.aspx コールドストリームガーズ軍楽隊公式サイト]
* [http://www.scotsguards.co.uk/history.htm スコッツガーズの歴史(英政府サイト)]
* [http://www.northeastmedals.co.uk/british_guards_regiment/coldstream_guards_victoria_cross.htm ヴィクトリア十字章とジョージ・クロスを受章したコールドストリームガーズ隊員。]


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2012年9月17日 (月) 06:51時点における版

衛兵任務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。

コールドストリームガーズ: Coldstream Guards/Coldstream Regiment of Foot Guards)は、イングランド連隊ピューリタン革命時代の1650年イングランド共和国歩兵連隊として発足し、イングランド内戦では陸軍、第一次英蘭戦争では海軍の部隊として戦い、王制復古イングランド王国近衛歩兵連隊となった。そして、現在でもイギリス陸軍歩兵部隊として海外に派遣され、或は近衛兵としてロンドンでの衛兵や儀仗任務を行なっており、継続して任務に就いている連隊としては世界最古である[1][2][3]

表記

日本では、”コールドストリーム連隊”[4]”コールドストリームガーズ連隊”[5]”コールドストリーム近衛連隊”[6]”コールドストリーム近衛歩兵連隊””近衛コールドストリーム連隊””近衛コールドストリーム歩兵連隊”等の表記[要出典]が見られる。また、イギリスでは18世紀から19世紀にかけて連隊を番号で呼んでおり、その頃は2nd Regiment of Foot Guardsとも呼ばれていた。このことから、その時代の記述ばかりでなく、”近衛歩兵第2連隊”或は”第2近衛歩兵連隊”等と表記されることもあり[7]、このような資料の作戦地図にある軍隊符号"2G"と表記されている歩兵連隊もコールドストリームガーズのことを指す。一方、英語の記述ではこの時代でも"2nd"ではなく、当時あった3個の近衛歩兵連隊が"1st, Coldstream, 3rd Foot Guards"と表記されることも珍しくない[8][9][10]

歴史

コールドストリームガーズ連隊の創立者ジョージ・モンク。

イギリス陸軍で最初の常備軍である、オリバー・クロムウェルが組織したニューモデル・アーミー(New Model Army)の連隊として、1650年4月23日ジョージ・モンク[11][注 1](マンク)がバーウィックで設立した。当時の名前はモンクの歩兵連隊(Monck's Regiment of Foote)であった。”モンクの歩兵連隊”[12]は、1647年にアーサー・ヘジルリッジ卿[注 2]ニューカッスルで創立した連隊からの5個中隊と、バーウィックで創設されたジョージ・フェンウィック大佐[注 3]の連隊からの5個中隊を合わせて編成された。

ジョージ・モンクはチャールズ1世時代に失脚し、ピューリタン革命時には議会派に属していた軍人であり、「イングランド内戦に於ける最も優れた軍人の一人[13]」とも評されている。

イングランド共和国

ダンバーの戦い。

”モンクの歩兵連隊”は、1650年9月3日のダンバーの戦い[注 4]に議会派として参加し、初陣を飾った。この戦いに議会派が勝利したことによって、スコットランドは議会派に制圧された。この戦いにはスコッツガーズの前身であるチャールズ2世(当時はスコットランド王)の護衛歩兵隊(Lyfe Guard of Foot)が王党派として加わっていたが、更に翌1651年ウスターの戦い[注 5]にも敗れたため、チャールズ2世は大陸へ亡命し、護衛隊は解散させられた。そのため、スコッツガーズは1642年創立とされているが、再建される1661年まで廃止状態だったため、”最古の連隊”とは認められていない。[14]

1652年に第一次英蘭戦争が始まるとモンク大佐は「ジェネラル・アット・シーGeneral at Sea[注 6]に任命され、戦隊を率いてオランダ艦隊と戦うことになった。そして、ポートランド沖海戦[注 7]で先任のジェネラル・アット・シーであったロバート・ブレイクが負傷した後は、イングランド共和国艦隊の総司令官としてガッバードの海戦[注 8]及びスヘフェニンゲンの海戦[注 9]の指揮を執った[16]。この間、”モンクの歩兵連隊”はモンク将軍に従って艦隊に乗組み、一連の海戦を戦った[17][18]

イングランド王国

チャールズ2世
2007年のトゥルーピング・ザ・カラーで行進する近衛歩兵連隊軍楽隊。グレナディアガーズ軍楽隊が手前(擲弾の襟章)なのに対し、コールドストリームガーズは一番奥(帽子に赤い羽根飾り)に位置している。

1660年王政復古の宣言がされるとモンク将軍は王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーであるエドワード・モンタギュー[注 10](後に初代サンドウィッチ伯爵)に対し、艦隊を率いて国王を亡命先のオランダへ迎えに行くよう指示した。エドワード・モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、ロンドンに残していた執事(当時)のサミュエル・ピープス[注 11]を通じて議会の動向を把握しており、モンクに従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダへ向かった[20]

”モンクの歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム[注 12]に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世と合流し、ロンドン入城に同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者を優先採用している。また、現部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である[21]

この年、”モンクの騎馬護衛隊”(Monck's Life Guards)が第2(クィーンズ)近衛騎兵隊(2nd(Queen's) Troop of Horse Guards)となった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されてライフガーズ連隊となる。翌1661年、”モンクの歩兵連隊”も近衛連隊となり、”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”(The Lord General's Regiment of Foot Guards)となった。また、1664年には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務に転じ、”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が編成された[22]。この連隊はイギリスで初めての艦上勤務を専門とする歩兵部隊であり、イギリス海兵隊の母体となった[17][18]

近衛歩兵連隊としては既に、チャールズ2世がウスターの戦い後の1656年ブルッヘで創設した”ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊”(Lord Wentworth's Foot Guards/Royal Regiment of Guards)と1660創立のジョン・ラッセル近衛歩兵連隊(John Russell's Foot Guards)があり、両連隊が1665年に統合されて”近衛歩兵第1連隊”(1st Regiment of Foot Guards)(後のグレナディアガーズ)とされた[23][24][18]。しかし、これらの連隊より古い”コールドストリーム連隊”の兵士は、その下位に位置付けられることを認めることが出来なかった。チャールズ2世が”近衛第2連隊”と呼んだところ、”第2”とされることを兵士達が拒否して命令に従わなかったため、モンク将軍の進言に従って”コールドストリーム近衛連隊”と呼んだところ命令に従ったという逸話もある[1]

モンク将軍が死去した1670年”近衛歩兵第2連隊”(2nd Regiment of Foot Guards)となったが、”第2”とされる抵抗感から、通称であった”コールドストリーム近衛歩兵連隊”(Coldstream Regiment of Foot Guards)が公式に使われるようになった[25]。そして、この様な経緯から、"Nulli Secundus"(何物の2番目でもない=何物にも劣る事無し)が連隊のモットーとなっている[1][21]

また、現在でもグレナディアガーズへの対抗意識は強く、イギリス陸軍に於ける連隊序列はグレナディアガーズの次だが、近衛歩兵連隊が整列する際はグレナディアガーズの隣には並ばず、反対側の端に位置する[26]

イギリス陸軍

ウーグモン館の壁にはめ込まれたコールドストリームガーズの記念碑。連隊の記章であるガーター勲章の星が彫られている。
ワーテルローの戦いの両軍配置図。手前の青がフランス軍で赤がイギリス・オランダ連合軍、黒がプロイセン軍。左下の突出した部分がウーグモン館。フランス軍左翼のレイユ軍団が抑えられている。

コールドストリーム近衛歩兵連隊は、王政復古後のイギリス陸軍にとって初めての海外遠征である、1680年タンジール以降殆どの戦役に参加しており、最も多くのバトル・オナーズ[注 13]を持っている[27]

1680年代にはガーター勲章の星章が連隊の記章として制定された。

ワーテルローの戦いに於いては、コールドストリームガーズはウーグモン館[注 14]攻防戦での勇戦が知られている。ウーグモン館はイギリス軍右翼に位置する城館で、中央のラ・エイ・サント[注 15]及び左翼のパプロットにある農家と共に防衛拠点とされていた。緒戦でパプロットは陥落し、ラ・エイ・サントは両軍が衝突する中心となり最後には陥落した。一方、ウーグモン館はナポレオンの最初の攻撃目標となり、開戦と同時に攻撃に晒され、フランス軍の前進により敵中に孤立した。コールドストリームガーズのジェームス・マクダネル中佐[注 16]が指揮する、コールドストリームガーズやスコッツガーズ[注 17]等から分遣された軽歩兵中隊から成る4個中隊規模のイギリス軍守備隊は、オノレ・シャルル・レイユ将軍[注 18]が指揮するフランス1個軍団の攻撃を受けたにもかかわらず、戦いが終わるまでこの防御の要である城館を守り通した。フランス軍はウーグモン館が陥落しないことにより左翼の自由を奪われ、攻略のために1個軍団が終始釘付けにされた[28]

クリミア戦争の緒戦アルマ川の戦い(Battle of Alma)で突撃するコールドストリームガーズ連隊。

ナポレオン戦争後の1817年”コールドストリームガーズ”が正式名称となった。

1831年には”フュージリア”の称号を受け、連隊の全将兵[注 19]擲弾兵帽の着用が許された[注 20]。そして、その帽子の右側に赤の羽根飾りが付けられるようになった[31]

1850年代に行なわれた陸軍の服装改訂により、歩兵の制服の上着は赤い1列ボタンのチュニックになった。それまで他の連隊の制服もボタンの配置が2個ずつの組になっていることがあったが、この改正以降上着のボタンが2個ずつ4組で計8個の制服はコールドストリームガーズを示す特徴となった[32][33]

1856年ヴィクトリア十字章が、そして1940年にジョージ・クロスが制定されて以来、コールドストリームガーズ連隊からは13名のヴィクトリア十字章受章者と1名のジョージ・クロス受章者が出ている。ヴィクトリア十字章が制定されたクリミア戦争では、インカーマンの戦い[注 21]セヴァストポリの戦いで各2名の計4名が受章した。そして、第1次世界大戦では7名がヴィクトリア十字章を受章し、第2次世界大戦では2名がヴィクトリア十字章、1名がジョージ・クロスを受章した[18]

編成

増員のために作られた第1次世界大戦中の募兵ポスター。

英政府サイト[リンク切れ]及び連隊公式サイトより。

1682年から1993年までコールドストリームガーズは2個の大隊が基本とされ、1897年から1959年までは第3大隊が増設されていた。また、第1次世界大戦中は第4大隊、第2次世界大戦では第4大隊に加えて第5及び第6大隊が増設された。1993年に第2大隊は活動休止とされ、大隊の連隊旗は第7中隊に引き継がれた。

イギリス陸軍の各連隊には軍楽隊が置かれていたが1994年に分離され、陸軍音楽学校を母体として編成された”陸軍音楽軍団”[注 22]の下に編入された。そのため、現在では”コールドストリームガーズ軍楽隊”もコールドストリームガーズ連隊ではなく、陸軍音楽軍団の傘下にある。

連隊本部

女王の随員(Field Officer in Brigade Waiting)を務める近衛コールドストリーム連隊の連隊長代理。

連隊本部はバッキンガム宮殿の向かいにあるウェリントン・バラックス[注 23]にある。カーネル・イン・チーフ[注 24]には歴代君主が就任しており、名誉職の連隊長(Colonel of the Regiment)は陸軍の将官、或いは王族が務める。そして、実務は連隊長代理(Regimental Lieutenant-Colonel)が取り仕切る。連隊長代理には大佐が充てられる。

第1大隊

湾岸戦争中のイギリス機械化歩兵部隊。

第2次世界大戦後の冷戦時代はドイツアイルランド等に駐屯した。1990年代はウォーリア装甲戦闘車等を装備した機械化歩兵として、湾岸戦争ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争等に派遣されていた。2000年代に入ると軽歩兵編成となり、アフガニスタン等に派遣されている。

第7中隊

衛兵勤務中の2人のコールドストリームガーズ連隊上級下士官。

第7中隊は独立中隊で、ロンドンに常駐して衛兵・儀仗任務を行なう。兵舎は2007年に150年間使用されたチェルシー・バラックス[注 25]から王立砲兵連隊のウールウィッチ・バラックス[注 26]へ移転した。

儀式の際にイギリス陸軍の将兵が着用する正装(Full Dress)は19世紀後半からほとんど変わっていない。歩兵は赤いチュニックに濃紺のズボンで、近衛兵は袖の形が異なる。また、近衛歩兵はベアスキン帽[注 27]を着用する。一般歩兵連隊の制服は袖の色が連隊毎に異なるが、近衛歩兵連隊は上着のボタンの配列とベアスキンに付ける羽根飾りの色が異なる。コールドストリームガーズ連隊は、上着のボタンが2個ずつ4組で計8個、帽子の羽根飾りは右側に赤となっている。

注釈

  1. ^ George Monck
  2. ^ Arthur Hazelrigg
  3. ^ George Fenwick
  4. ^ Battle of Dunbar
  5. ^ Battle of Worcester
  6. ^ 革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた[15]
  7. ^ Battle of Portland
  8. ^ Battle of the Gabbard
  9. ^ Battle of Scheveningen
  10. ^ Edward Montagu
  11. ^ 後にネービー・ボード(Navy Board)長官や海軍本部書記官(Secretary to the Admiralty)と言った公職を歴任し、「イギリス海軍の父」とも呼ばれている。ネービー・ボード長官になっても執事としての仕事を続けており、彼の日記には「役所の帰りにモンタギュー家の経理を処理した」と言った記述が見られる[19]
  12. ^ Coldstream
  13. ^ Battle Honours
  14. ^ Château d'Hougoumont
  15. ^ La Haye Sainte
  16. ^ James Macdonnell
  17. ^ 当時の名称は”近衛歩兵第3連隊”(3rd Regiment of Foot Guards
  18. ^ Honoré Charles Reille
  19. ^ イギリス陸軍に擲弾兵の連隊はなく、各連隊に擲弾兵中隊が設けられていた。そして、フュージリア連隊や先に許されていたグレナディアガーズ以外の連隊では、擲弾兵中隊の将兵だけが擲弾兵帽を着用した[29][30]
  20. ^ フュージリアの称号や擲弾兵との関係についてはロイヤル・フュージリアーズ連隊#フュージリアを参照。
  21. ^ Battle of Inkerman
  22. ^ Corps of Army Music
  23. ^ Wellington Barracks
  24. ^ Colonel-in-Chief
  25. ^ Chelsea barracks
  26. ^ Woolwich Barracks
  27. ^ Bearskin

脚注

  1. ^ a b c ?(著) 1978, p. 4
  2. ^ 「連隊公式サイト」” (英語). 2012年9月17日閲覧。
  3. ^ ?(著) 2012, p. 273
  4. ^ 石井理恵子, 横山明美 2009
  5. ^ ジョン・マクドナルド 1986
  6. ^ ?(著) 1978
  7. ^ 森護 1994
  8. ^ Fletcher, Ian 1994, p. ?
  9. ^ May, Robin 1998, p. 7
  10. ^ David Morier画『Grenadiers, 1st and 3rd Regs. of Foot Guards and Coldstream Guards』(1751-60 画布・油彩 40.7 x 51cm)
    英国ロイヤルコレクション[リンク切れ]
  11. ^ ?(著) 2012, p. ?
  12. ^ ?(著) 1978, p. ?
  13. ^ Peter Young 1973, p. 10
  14. ^ 「英政府サイト・スコッツガーズの歴史」” (英語). 2012年9月17日閲覧。
  15. ^ 小林幸雄 2007, p. 172-173
  16. ^ 小林幸雄 2007, p. 174-191
  17. ^ a b 英政府サイト[リンク切れ]
  18. ^ a b c d 「連隊公式サイト内連隊史」” (英語). 2012年9月17日閲覧。
  19. ^ サミュエル・ピープス 1987, p. ?
  20. ^ 小林幸雄 2007, p. 192-194
  21. ^ a b David Griffin 1985, p. 58
  22. ^ Fowler p 3
  23. ^ David Griffin 1985, p. 57
  24. ^ W Y Carman 1985, p. 15-17
  25. ^ David Griffin 1985, p. 59-60
  26. ^ 石井理恵子, 横山明美 2009, p. 32
  27. ^ Simon Dunstan 1996, p. 29
  28. ^ ジョン・マクドナルド 1986, p. 70-81
  29. ^ W Y Carman & Richard Simkin 1985, p. ?
  30. ^ Michael Barthorp 1982, p. ?
  31. ^ W Y Carman & Richard Simkin 1985, p. 17-24
  32. ^ W Y Carman & Richard Simkin 1985, p. ?
  33. ^ Michael Barthorp 1982, p. ?

参考資料

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関連項目

外部リンク