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[[フリースラント州]]の州都[[レーワルデン]]で生まれ、優れた軍事学の教育を受けて、16才でオランダ軍の大尉になった。
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[[オランダ侵略戦争]]で[[1673年]]の[[マーストリヒト]]の防衛と[[1674年]]のグラヴェ包囲に参戦した。そこで彼は小型臼砲(called coehorns)を発明した。1674年に大佐に昇進し、[[1677年]]の[[カッセルの戦い]]と[[1678年]]の[[サン=ドニの戦い]]に参加した。[[大同盟戦争]]では准将として参戦、[[1692年]]に自分で設計した[[ナミュール]]要塞の司令官として守備隊を指揮しているがフランス軍の前に陥落([[ナミュール包囲戦 (1692年)|第一次ナミュール包囲戦]])、[[1695年]]の[[ナミュール包囲戦 (1695年)|第二次ナミュール包囲戦]]で[[オランダ総督]]兼[[イングランド王国|イングランド]]王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の軍勢に加わり包囲戦を指揮してナミュールを落とした。
[[オランダ侵略戦争]]で[[1673年]]の[[マーストリヒト]]の防衛と[[1674年]]のグラヴェ包囲に参戦した。そこで彼は小型臼砲(called coehorns)を発明した。1674年に大佐に昇進し、[[1677年]]の[[カッセルの戦い (1677年)|カッセルの戦い]]と[[1678年]]の[[サン=ドニの戦い (1678年)|サン=ドニの戦い]]に参加した。[[大同盟戦争]]では准将として参戦、[[1692年]]に自分で設計した[[ナミュール]]要塞の司令官として守備隊を指揮しているがフランス軍の前に陥落([[ナミュール包囲戦 (1692年)|第一次ナミュール包囲戦]])、[[1695年]]の[[ナミュール包囲戦 (1695年)|第二次ナミュール包囲戦]]で[[オランダ総督]]兼[[イングランド王国|イングランド]]王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の軍勢に加わり包囲戦を指揮してナミュールを落とした。


[[スペイン継承戦争]]にも参戦して[[1702年]]に[[フェンロー]]を落としたが、1704年に63歳で死去。
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2012年8月2日 (木) 03:45時点における版

メンノ・フォン・クーホルン

メンノ・フォン・クーホルン男爵(Menno, baron van Coehoorn, 1641年 - 1704年3月17日)はオランダの軍人・軍事学者。城塞包囲攻撃に関していくつかの発明を残しており、要塞の設計者としてホラント州ヴォーバンと呼ばれていた。発明品の一つに持ち運び可能な軽量臼砲のクーホルン臼砲があり、このタイプの臼砲は後の時代までクーホルン臼砲と呼ばれた。

フリースラント州の州都レーワルデンで生まれ、優れた軍事学の教育を受けて、16才でオランダ軍の大尉になった。

オランダ侵略戦争1673年マーストリヒトの防衛と1674年のグラヴェ包囲に参戦した。そこで彼は小型臼砲(called coehorns)を発明した。1674年に大佐に昇進し、1677年カッセルの戦い1678年サン=ドニの戦いに参加した。大同盟戦争では准将として参戦、1692年に自分で設計したナミュール要塞の司令官として守備隊を指揮しているがフランス軍の前に陥落(第一次ナミュール包囲戦)、1695年第二次ナミュール包囲戦オランダ総督イングランドウィリアム3世の軍勢に加わり包囲戦を指揮してナミュールを落とした。

スペイン継承戦争にも参戦して1702年フェンローを落としたが、1704年に63歳で死去。