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[[塩原温泉]]は、古来より勇壮な渓谷美を有する温泉郷として知られていた。[[皇太子]]時代、虚弱だった[[大正天皇]]は、[[1902年]]から翌年にかけて中山[[侯爵]]や三島[[子爵]]の塩原[[別荘]]で養生された。子爵[[三島通庸]]は、別荘献納を検討していたものの、果たされることなく死去したため、嗣子[[三島弥太郎|弥太郎]]が[[宮内省]]へ献納を申し出たことから、1904年に御用邸が造営された。
[[塩原温泉]]は、古来より勇壮な渓谷美を有する温泉郷として知られていた。[[皇太子]]時代、虚弱だった[[大正天皇]]は、[[1902年]]から翌年にかけて中山[[侯爵]]や三島[[子爵]]の塩原[[別荘]]で養生された。子爵[[三島通庸]]は、別荘献納を検討していたものの、果たされることなく死去したため、嗣子[[三島弥太郎|弥太郎]]が[[宮内省]]へ献納を申し出たことから、1904年に御用邸が造営された。


敷地約1万5500坪、建坪3000坪の敷地内には源泉を有していた。大正天皇を始めとする数多くの[[皇族]]方に[[避暑]]目的で利用されたが、特に、幼少期の[[三笠宮崇仁親王]]は、連年にわたって避暑利用されたことから、通称「澄宮御殿」と称された。また、戦時中から終戦時にかけて、[[昭和天皇]]の皇女[[孝宮]]・[[順宮]]・[[清宮]]の疎開先としても利用された。
敷地約1万5500坪、建坪3000坪の敷地内には源泉を有していた。大正天皇を始めとする数多くの[[皇族]]方に[[避暑]]目的で利用されたが、特に、幼少期の[[三笠宮崇仁親王]]は、連年にわたって避暑利用されたことから、通称「澄宮御殿」と称された。また、戦時中から終戦時にかけて、[[昭和天皇]]の内親王だった[[池田成子]]・[[島津貴子]]の疎開先としても利用された。


[[1946年]]には御用邸としての機能を終え、視力障害者復帰施設として利するため[[厚生省]]へ移管された。[[1948年]]には「国立塩原光明寮」が開設され、現在「[[国立塩原視力障害センター]]」が立地している。
[[1946年]]には御用邸としての機能を終え、視力[[障害者]]復帰施設として利するため[[厚生省]]へ移管された。[[1948年]]には「国立塩原光明寮」が開設され、現在「[[国立塩原視力障害センター]]」が立地している。


== 遺構 ==
== 遺構 ==
[[1981年]]の塩原視力障害センター改築に伴い、旧御座所棟のみ近隣へ移築保存された。[[栃木県]][[有形文化財]]に指定され、現在「[[天皇の間記念公園]]」として一般公開されている。
[[1981年]]のセンター改築に伴い、旧御座所棟のみ近隣へ移築保存された。[[栃木県]][[有形文化財]]に指定され、現在「[[天皇の間記念公園]]」として一般公開されている。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2012年7月29日 (日) 11:17時点における版

塩原御用邸(しおばらごようてい)は、1904年明治37年)に造営された御用邸である。1946年昭和21年)に廃止された。

概要

塩原温泉は、古来より勇壮な渓谷美を有する温泉郷として知られていた。皇太子時代、虚弱だった大正天皇は、1902年から翌年にかけて中山侯爵や三島子爵の塩原別荘で養生された。子爵三島通庸は、別荘献納を検討していたものの、果たされることなく死去したため、嗣子弥太郎宮内省へ献納を申し出たことから、1904年に御用邸が造営された。

敷地約1万5500坪、建坪3000坪の敷地内には源泉を有していた。大正天皇を始めとする数多くの皇族方に避暑目的で利用されたが、特に、幼少期の三笠宮崇仁親王は、連年にわたって避暑利用されたことから、通称「澄宮御殿」と称された。また、戦時中から終戦時にかけて、昭和天皇の内親王だった池田成子島津貴子等の疎開先としても利用された。

1946年には御用邸としての機能を終え、視力障害者復帰施設として利用するため厚生省へ移管された。1948年には「国立塩原光明寮」が開設され、現在「国立塩原視力障害センター」が立地している。

遺構

1981年の同センター改築に伴い、旧御座所棟のみ近隣へ移築保存された。栃木県有形文化財に指定され、現在は「天皇の間記念公園」として一般公開されている。

外部リンク