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フランスやヨーロッパで[[薬草]]などの採集の旅を行い、[[地中海]]の魚や魚類の著書を書き、これは[[カール・フォン・リンネ]]の知ることになった。1760年に[[公証人]]の娘と結婚したが、妻は1762年に出産の時に没した。
フランスやヨーロッパで[[薬草]]などの採集の旅を行い、[[地中海]]の魚や魚類の著書を書き、これは[[カール・フォン・リンネ]]の知ることになった。1760年に[[公証人]]の娘と結婚したが、妻は1762年に出産の時に没した。


1768年のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルの世界一周探検航海に、[[天文学者]]、[[ジェローム・ラランド]]の推薦で博物学者として乗り込んだ。伴った従者の[[ジャンヌ・バレ]]は男装して船に乗り込んだ女性で、後にさまざまな文学作品などに取り上げられた。寄航した各地で植物採集を行い、コメルソンが発見した植物は60の新しい属、3000種にのぼった<ref>『プラントハンター<small>ヨーロッパの植物熱と日本</small>』[[白幡洋三郎]](著)[[講談社]] (1994年)ISBN 4062580063</ref>。その中には、探検隊長の名前をつけたブーゲンビリアもある。1768年に旧名フランス島(現在のフランス名モーリス島、[[モーリシャス]]諸島)で、植民地監督官で植物収集家のピエール・ポワブル(Pierre Poivre)と出会い、ブーガンヴィルの探検隊から離れ、胡椒の栽培種を探す、フィリピンや東南アジアの探検に、ピエール・ソネラ(Pierre Sonnerat)ともに参加した。1773年に[[マダガスカル島]]で植物研究を行った後、モーリシャスで46歳で没した。
1768年のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルの世界一周探検航海に、[[天文学者]]、[[ジェローム・ラランド]]の推薦で博物学者として乗り込んだ。伴った従者の[[ジャンヌ・バレ]]は[[男装]]して船に乗り込んだ女性で、後にさまざまな文学作品などに取り上げられた。寄航した各地で植物採集を行い、コメルソンが発見した植物は60の新しい属、3000種にのぼった<ref>『プラントハンター<small>ヨーロッパの植物熱と日本</small>』[[白幡洋三郎]](著)[[講談社]] (1994年)ISBN 4062580063</ref>。その中には、探検隊長の名前をつけた[[ブーゲンビリア]]もある。1768年に旧名フランス島(現在のフランス名モーリス島、[[モーリシャス]]諸島)で、植民地監督官で植物収集家のピエール・ポワブル(Pierre Poivre)と出会い、ブーガンヴィルの探検隊から離れ、[[胡椒]]の栽培種を探す、[[フィリピン]][[東南アジア]][[探検]]に、ピエール・ソネラ(Pierre Sonnerat)ともに参加した。1773年に[[マダガスカル島]]で植物研究を行った後、モーリシャスで46歳で没した。


アオギリ科(sterculiaceae)のコマーソニア・プルチェラ (Commersonia pulchella)などに献名されている。
[[アオギリ科]](sterculiaceae)のコマーソニア・プルチェラ (Commersonia pulchella)などに献名されている。


==参考文献==
==参考文献==

2012年6月5日 (火) 09:00時点における版

Philibert Commerson

フィリベール・コメルソン(Philibert Commerçon または Commerson、1727年11月18日1773年3月13日)は、フランス植物学者博物学者である。ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル世界一周探検船に乗船し、植物を採集したことで知られる。

生涯

シャティオン・シュル・シャラロンヌに生まれた。若い頃に植物学に興味を持ち、クリュニーベネディクト派のカレッジで学んだ後、1737年にモンペリエ医学部に学んだ。珍しい植物に対する情熱は、植物園から植物を盗みだすこともあった。1754年にモンペリエ大学から医者の資格を得た。

フランスやヨーロッパで薬草などの採集の旅を行い、地中海の魚や魚類の著書を書き、これはカール・フォン・リンネの知ることになった。1760年に公証人の娘と結婚したが、妻は1762年に出産の時に没した。

1768年のルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルの世界一周探検航海に、天文学者ジェローム・ラランドの推薦で博物学者として乗り込んだ。伴った従者のジャンヌ・バレ男装して船に乗り込んだ女性で、後にさまざまな文学作品などに取り上げられた。寄航した各地で植物採集を行い、コメルソンが発見した植物は60の新しい属、3000種にのぼった[1]。その中には、探検隊長の名前をつけたブーゲンビリアもある。1768年に旧名フランス島(現在のフランス名モーリス島、モーリシャス諸島)で、植民地監督官で植物収集家のピエール・ポワブル(Pierre Poivre)と出会い、ブーガンヴィルの探検隊から離れ、胡椒の栽培種を探す、フィリピン東南アジア探検に、ピエール・ソネラ(Pierre Sonnerat)ともに参加した。1773年にマダガスカル島で植物研究を行った後、モーリシャスで46歳で没した。

アオギリ科(sterculiaceae)のコマーソニア・プルチェラ (Commersonia pulchella)などに献名されている。

参考文献

  1. ^ 『プラントハンターヨーロッパの植物熱と日本白幡洋三郎(著)講談社 (1994年)ISBN 4062580063